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 翌日。

 土曜日ということで当然だが、平日に比べて乗客の少ない電車を乗り継いで大学へと向かう。朝から電車の中で座れたのは、今日これからの苦労に対する神様の褒美の前払いだろうか。

 もしくは、

「受難の前の最後の安息、なんてな」

 我ながら縁起の悪いことを言ってしまった。この国には言霊とかいうのがあるというのも聞いたことがある。信じたことなど俺の人生の中で一遍とて無いが、こういった良くないことは往々にして現実となることが多い気がする。

 ただの被害妄想もしくは誇大妄想かも知れないがな。

 などと今日も今日とて晴れ渡った蒼天を見上げながら考えていると、思ったより早く学校に到着し、会室へと辿りついた。

 会室には既に先輩、ちづるさん、保宜の三人にフレイ氏とシュールの兄妹、呼んでもいないはずなのに高木兄妹まで集合していた。

 フレイ氏曰く特に問題もないだろうからと、しょうがなく、ぶつぶつ文句を言いつつ俺たちの金魚のフンになった高木兄妹も引き連れて、構内演習林を前回と同様ぐねぐね蛇行しながら抜ける。

そうして辿りついたのは、例の絢爛な社だ。

 鳥居をくぐり、前回吹き飛ばされた際に出来た傷が残っている箇所を擦りながら、扉の前に立つ。

生唾を飲み込みつつ、扉に手を掛ける。

 しかし、なかなか踏ん切りがつかない。やれやれ、刷り込みとは難儀なものだ。こうも身体が動かなくなるとは。

 その時だ。

 扉に掛けていた方の手に、誰かの手が重なった。

 白魚のように細く滑らかな指。しかし確かな熱を持っている、柔らかな手。

「大丈夫ですわ。彦名様には、この私が付いています」

 声の方に振り向けば、すぐ近くにシュールの整った顔があった。その近さにまず息を呑み、続けざまその整った美貌に息が止まった。

「……なぁ」

「はい。なんでしょう、彦名様?」

「どうしてそんな俺にこだわるの?」

 そう聞くとシュールはショックを受けた様子で顔を歪め、それから剥れたように唇を尖らせると、不機嫌顔を上目遣いに近づけてきた。

 背後から聞こえてきた気がするブチッと何かが切れたような音は、聞かなかったことにしようと思う。

「忘れてしまわれたのですか? この場所」

「この場所?」

「ここで、私は彦名様に命を救っていただきましたわ」

「……あ。そうか、あの時はまだシュールは豚だったな」

 そういえば、結構必死になって空を翔ける豚を救いに走った記憶がある。

「それで、か」

「はい。もし彦名様に受け止めていただけなかったら、私は間違いなく死んでいましたもの。だから救って頂いたこの命、彦名様に捧げようと決めたのです」

「そ、そうか……」

 情けないことだが、返答に窮する。

 俺は質問を変えてお茶を濁すことにした。

「……神様も、やっぱり死ぬのか?」

「もちろんです。でもお兄様でしたら、幾ら痛めつけられても死にませんよ。ご自分でそう仰ってましたから」

 きっと自慢げだったんだろうが、とても不憫に思うのは俺だけか。

 サンドバッグの運命に、幸多からんことを。

「あっそうだ。彦名様」

「ん?」

「あの時……私を受け止めてくれた時のお洋服って、まだ残っていますか?」

 あれか。……家に帰ると同時に捨ててしまったな。しかし、それを正直に言ってしまうのも何だか本人を前にしていると気が引ける。

「あ、ああ。まあな」

「良かった。あのお洋服に沁み込んだ私の涙は、しばらくすると黄金に変わりますから。そうしたら是非、換金などなさるとよろしいかと」

「…………はい?」

 黄金、ですと?

「私の零した涙が黄金に変わったっていう伝承が北欧には残っているんです。もちろんその性質は私も受け継いでいますから、あの時の涙も黄金になりますよ」

「…………ははー……ああ、そう……」

 この人が言うんだ、それは真実なんだろうな。……家帰ったら、ゴミ箱漁ろう。

 それにしても、だ。

 世間話に近い会話。その間もずっと、重ねられたままだったシュールの手。

 それだけで、こうして安心させられてしまう俺は、なかなか単純な男だったらしい。

「それじゃ、せーの、で行くぞ」

「はい」

「「せーの!」」

 力を込める。と、呆気なく扉は開いた。

 昨日、どれだけ力を入れてもびくともしなかった扉が、今日はいとも簡単にその内部を晒している。本当に昨日のあれで条件を満たしていたらしい。

 ほとんど力を入れずに、まるで自ら動き出したと勘違いするほど滑りの良かった木製の扉は、微かな擦過音だけを俺たちの耳に残し、内部を開帳した。

 背後からは歓声が起こる。

 ところが。

 喜々として中に入ってみると、そこには『がらんどう』としか表現のしようのない、何も無い空間が広がっているだけだった。俺に分かるのは、畳に使われている藺草の白緑色と心安らぐ香り、そして障子から漏れる透影だけ。

 そこで、盛り上がっていた思考が、急速に冷めてきた。

 まさか――

「――ここじゃない……なんてこと、ないよな?」

 これまでの苦労――と言えるのかどうかは分からないが、それなりに濃密な経験をして辿りついたこの社が目的の場所とは違うとなると、正直、心が折れそうだ。

「大丈夫。ここで合っているよ」

 フレイ氏がいつもと変わらぬ穏やかな口調で、腕を上げた。それは右側の壁を指差していて、導かれるように俺もそちらに視線を向けると、

「…………あ?」

 たった今気付いたが、そこには壁に掛けられた一振りの古めかしい剣があった。諸刃の剣には其処彼処に長い年月を物語る錆が入り、欠け、今にも折れてしまいそうだった。

 なのにも関わらず、それから強烈な圧力を感じた。この社から感じたものを、より濃密にしたようなプレッシャー。俺はそれに向かって反射的に頭を下げる。

 このプレッシャーは、ここで終わらない。

 続いて同様の圧力を左側からも感じ、そちらにも頭頂部を向けた。どうにか上目遣いに見ると、そちらには数珠状に何個も繋がれた勾玉があった。

 そして真正面からは、一際強力な、まるで重力自体が何倍にもなったような暴力的とも感じる圧迫。

 無意識の内に正座の形に足を整え、両手を付いて額を畳みに擦り付ける。今度はかなり力を入れて反抗し、圧力の正体を探ると、

「か、鏡……?」

 ついさっきは見えなかった、しかし今は大きすぎる存在感を放っている三つの物品。

 剣。勾玉。鏡。これくらい俺だって知っている。

三種の神器だ。

 でも、そんなものがどうしてここに。

「あれが、向こうに続く扉だよ」

 フレイ氏が言う。

「こちらから『神界』に行くために必要なものは、どこの神話にも必ずあるはずの『人と神とを繋ぐもの』だ。日本においてそれは、神々から天皇家に渡った、これらの三種の神器ということになる」

 声の聞こえてくる高さからして、フレイ氏は立った状態のままのようだ。おそらくは他の人も同様だろう。とうとう俺は口も開けなくなり、フレイ氏の言葉の続きを待つ。

「さあ皆。佐田君と同じように鏡に向かって頭を下げて。そして目を瞑るんだ」

 衣擦れの音が背後から耳に届く。

「そして佐田君」

「…………」

 何でしょう、生憎俺は今しゃべれませんよ。

「君が言うんだ。こちら側と向こう側を繋ぐ祝詞を」

 だから喋れないんですってば! だいたい祝詞とか知らんし!

 とか心中で文句を吐いておきながら、この落ち着いていく感覚は何だ? まるで自分がこれから神聖な何かに望むかのように、自分の意に反して澄まされていく心。

 その変化はいっそ、自分という存在が別の何かに置き換わっていくような。

 そして、まるでそっちの方が本来あるべき状態のような折り合いの良さ。

 何故だ。

 ――何故、頭に言葉が溢れてくる。

「ひふみよいむなや、こともちろらね、しきるゆゐつ……」

 勝手に口が動いた。自分自身全く意味の分からない、異世界の呪文としか思えない文言を、俺が唱えていた。

 何故だ。

 ――何故、何も違和感が無い。

「わぬそをたはくめか……」

 自分が不自然極まりないはずの台詞を唱えていることに、俺の頭が何一つ反抗的な思考を起こしていない。それどころか、まるで心地よく眠ったように静まりきっている。

 一体、何なんだ。

 ――何なんだよ、俺は!

「うおゑにさりへて、のますあせえほれけ」

 今にも自分が消えてしまいそうな心細さに押し潰されそうになりながらも呪文を唱え終わった、その瞬間。

 まるでホモジェナイザーにでも入れられて撹拌されているような浮遊感を得た。目まぐるしく重力の掛かる方向が変化するように脳が揺さぶられる。もしくは無重力空間に放り込まれたように、だ。

 どちらにしろ経験したことなどないので、的確な表現になっているかは自信がない。

 俺は足に伝わる畳の感触に縋りながら、必死に畳に爪を立てていた。

 唐突に。その無重力感が失われ、通常通り自然の摂理に則った重力も戻ってきた。しかし頭の揺れはすぐには収まらず、俺はしばらく畳に爪を食い込ませていた。

「……そうだ、良く出来たね」

 フレイ氏の声が、いつもの朗らかなものとは遠く感じた。ここに来て何かを躊躇っているような、まるで自分の中の大きな感情を必死に抑えている、そんなふうに聞こえた。

 俺の、俺自身に対する懐疑心ゆえの錯覚か。

「皆。もう、目を開けても大丈夫だよ」

「…………」

 ゆっくりと瞼を持ち上げる。こんなにも瞼が重いものだとは知らなかった。

 だがそれも、目に飛び込んできた風景を前に吹き飛んでしまった。

「……ぉ………………あ……」

 絵に描いたような風景。

 それが第一印象だった。

 空。見たことのないくらい蒼色の濃い空。ただ高いのではなく、どこまでも続いているように思わせる、田舎でも見られないような天壌の蒼穹。

 森。見たことのないくらい逞しく大きく育った森。一見寒冷な地方に見られる針葉樹林のタイガのような印象だが、高さは桁違いだ。言うなれば、緑の摩天楼。

 花。見たことのないくらい豊富な彩りを見せてくれる花の群。季節などを全て無視してありとあらゆる地球上の花が同時に咲いたとしても完成しない、色の万華鏡。

 湖。見たことのないくらい鮮やかに陽光を照り返す湖。底の石が観察できるほど澄んでいるのに、一度遥か遠くの湖面を見やれば、そこには天然の巨大映写幕。

 そして、そこを渡っていく、尾を長く伸ばした青い鳥。

 鬱陶しさという言葉とは無縁の、人が望んで止まぬ楽園の如き自然。

 秘境と呼ばれる僻地にありそうな、しかし地球上のどこにも見つけられないと確信できてしまう――無何有の郷。

 その世界の中に、ふと一人の男が姿を見せた。

 男は銀色の長い髪を風に遊ばせ、その楽土のような世界に佇む。

 表情こそ優れないが、男と世界は、それはもう良く似合っていて、一服の名画とでも呼べそうなほどだった。

「ようこそ」

 その男――フレイ氏が、両手を広げる。

「僕らの世界へ」

 俺たちの、クライマックスの舞台だった。



 その後、俺たちの団体はフレイ氏を先頭にしてゆっくりと歩いていた。

 当然のように舗装などされていない道。しかしながら短く柔らかな芝草が地面を覆っているお陰で歩きづらくなどない。むしろアスファルトの固い路面に比べたら幾分足も疲れないように感じた。

 二十分近く歩いたら多少は疲れが来たりするものなのにな。

 大学の社で正座していた俺たちは、気付くと四阿のような場所にいた。西洋風の楽園みたいな空間の中でそこだけが和風に切り取られており、床も畳敷きのままだった。

 そこから穏やかな気候の中を歩くこと約二十分。俺たちがフレイ氏に案内されたのは、これまで見てきた風景とは違い、随分と雑多な印象を受ける場所だった。

 奥行きも横幅も果てが見えないほど広大な芝生広場に、ギリシャの神殿みたいな石造の列柱建造物が数多く立ち並び、かと思えばストーンヘンジみたいな謎のオブジェのようなもの、巨大な岩や樹木に注連縄を巻いた日本的なものなども複数見受けられる。

 言ってしまえば、世界各国で描かれた神話の世界や神々に関係のあるものが時空を捻じ曲げて一箇所にまとめられた、そんな遠大な空間だった。

 規模を見れば、一つの町と称しても問題ないかもしれない。

 建造物の間を縫うように縦横に伸びる歩道の幅員は十メートルほどもあり、かなりゆったりしている。もちろん、そこを歩く人もいて……人?

 ここは、神様たちの世界じゃなかったか?

 それにしては、皆の服装が随分と現代的というか。建物とのギャップが凄まじいというか。まぁお陰で自分たちもそれほど目立ってないという意味ではありがたいが。

 道行く人の中にはアジア系の人もいて、少なからず感じていた場違い感も解消された。

 フレイ氏は、ギリシャっぽい建築物の中でも一際大きい神殿に俺たちを案内し、特に扉などもないそこに通していく。

 屋根のある神殿に立ち入った瞬間に風が止んだ。それはあたかも屋外から屋内に入った時の感覚と似ていた。

 すぐ傍を歩いているのが如何にも普通の、自分たちと何ら変わらなく見える人たちなので忘れそうになるが、ここはもう俺たちがいた世界ではない。それを思い出せば、ここで出合った現象にいちいち論証を付けることの無意味さを理解できる。

 そもそも俺たちがここに来たという事実ですら、論証なんて不可能なんだからな。

 フレイ氏に連れられたまま進む。

 内部は明らかに外観以上に広くなっており、この内部空間拡張システムは現実世界の構内演習林で体感したものと同性能のようだ。

 更に歩くと、直線の突き当たりに広間のような場所が見えてきた。どうやら目的地はあそこらしい。

 その広間に、先頭のフレイ氏が足を踏み入れるや否や、

「遅かったじゃねえか、このウスノロ」

 と、柄の悪い少年のような声が飛んだ。

 それに笑みを濃くしたことからして、フレイ氏に向けられたもののようだ。

「こちらにも色々と事情があったんですよ、デメキ……じゃなかった、デメテル」

「テメェ今、オレを食えもしねぇブサイクな小魚と間違えそうになったな? しばらく滞在するうちに、テメェにも日本の陰険体質が移っちまったか。ご愁傷様だ」

「生憎、金魚はカワイイですよ。食用でないのは認めますが。でも……」

 彼には珍しく、口端を吊り上げた笑みを浮かべる。

「少なくとも、貴女よりは食えそうです」

「抜かせ」

 俺たちも順にそこに入っていき、ガラの悪い声の正体を見る。

 声の正体は意外にも、中年の女性だった。

「よう島国御一行。オレはWTC農業部門統括理事、ギリシャ神話オリンポス十二神に数えられる豊穣の神デメテルだ。特に歓迎する気もないから、勝手にもてなされた気分になってくれ。得意だろ? そーゆー勘違い」

 フレイ氏がデメテルと呼んだ女性が一段高い場所から俺たちを睥睨しながら言う。

 広間には、マーブル模様の大きな岩が相当数、円形に並んでいた。それはちょうど人が腰掛けやすいくらいの大きさで、実際にそこに腰を下ろしている人も幾人かいる。

 その中でも、奥の上座らしき一際巨大で純白の岩にデメテルは腰掛けていた。表情や言葉使い、ついでに年齢にも似合わず艶かしい脚を見せ付けるように組んでいる。

 それにしても癇に障る言い方だった。日本という国に漠然とした嫌悪感を抱いていて、それを国民でもある俺たちにぶつけているような、大雑把な敵意。

 これがデメテルという人らしい。いや、一応は神様か。

「それにしても……ガキばっかじゃねえか。大丈夫なのかよ、コイツラで」

「おや、心配しているのですか?」

「アホか。ここで色々あると後が面倒なんだよ。それを処理するのは誰だ? オレだ、オレ。はぁ面倒くせぇ。全くガキはいいよなぁ、責任は全て大人任せでよ」

 明らかにこちらを蔑んだ物言いに、表情を苦笑のそれにしたフレイ氏が窘める。

「まぁまぁ、恐らく大丈夫でしょう。貴女の心配はきっと、杞憂に終わります」

「随分な自信だな」

「しばらく滞在していましたからね」

「情が移ってなけりゃいいが」

「なに、貴女ほどじゃありませんよ」

「……ふざけろ、この」

 純白の岩に両手を叩きつけると、それから腕に力を込めて飛び降りる。

 その着地点は、十数メートルも離れた場所に立っていたフレイ氏の真横だった。

「あんまり舐めたこと言ってっと……」

 フレイ氏の耳元にたっぷりと何かを塗りたくった艶々の唇を寄せる。

「――」

 続く言葉は小さく囁かれ、俺の立っている位置からでは聞き取れなかった。しかしフレイ氏を見ていれば、その台詞の効果のほどは一目瞭然。

柔和な笑顔のまま血の気が失せて顔面が蒼白になり、やがて細かな痙攣が始まった。

「分かったら、さっさと話を進めるぞ。天然ボーヤ」

「……はい」

 えらく従順になっていた。

「それでだ島国御一行。テメェらは今日、ここに何しに来た?」

 デメテル曰くガキばかりの集団の中で先頭に立っていたため、その視線は俺を向く。

「それは、あれです。……日本の将来がどうとかこうとか」

 ぶっちゃけ、それほど詳細を把握しているわけではなかった。それを隠すつもりなど初めから無かったが、そのしどろもどろさがデメテルの眉を顰めさせた。

「……おいおい。マジで大丈夫かよ」

「か、彼はまだこのミッションに参加して日が浅いのです。まだ少し認識が固まっていなかったのでしょう。彼を責めるのは酷というものかと……」

「じゃあ監督不行き届きだ。テメェの不手際だな、フレイ?」

「……はい」

 どうやら俺のせいでフレイ氏がデメテルに怒られているらしい。何だか申し訳ない。

 とにかく、聞いたままを答えてみることにした。

「世界趨勢決定会議とかいう名前の農業分野の会議に俺たちが参加して、今後の日本の方針転換を伝えればいいんですよね」

「そ、そうだよ佐田君! ちゃんと憶えているんじゃないか……!」

「一般人として暮らしてきた俺には、とても忘れられそうにないインパクトでしたから」

 と、俺が言うや否や、デメテルが噴き出した。

「っぷ、くははっはははははははははははは! 一般人! 一般人つったか! こいつは傑作だな、おい!」

 相変わらず癇に障る哄笑に嫌悪感を催しながら、

「……俺はそんなに馬鹿笑いできる傑作喜劇などを語ったつもりはないんですが」

「喜劇? 滑稽劇の間違いだろうが!」

 こちらを見下したデメテルの笑みは、とてもじゃないが見るに堪えなかった。

「テメェが今いる場所はどこだ?」

「どこって……『神界』とかいうところ?」

「そんじゃあ、その『神界』とはどんな場所だ?」

「…………神様が集まる場所」

「そんなところに、人間が入れるとでも思ってんのか?」

「……………………」

「テメェは導き手だろう? ここに来るまでに幾つも扉をくぐってきたはずだ。そして、そこで起きたのは人間の世界の常識で測れるものだったか?」

 一回目の社で吹き飛ばされたことと、二回目の社で俺が勝手に口にした祝詞を、俺は思い出した。

 幻痛のように、直りかけの傷が疼く。

「…………」

 こちら試すようなデメテルの言葉を聞きながら、俺はしかし驚くほど平静だった。むしろ、ああそうだったのか、と腑に落ちた部分の方が大きかったりする。

 確かにここへの扉を開く時、口が勝手に意味の分からない祝詞を唱え始めた時は、自分が自分でなくなってしまったようで不安で怖かった。でも今になってみると、その原因が分からない方がもっと怖い。

 その原因は、今はっきりした。

「暢気なもんだな。えぇ? 属国根性丸出しの日本の神様。何も知らず、何も考えず、いつまでも誰かの尻にくっついて行けばいいなんて甘えた考え、まさに日本らしくて反吐が出る。アメリカにヘラヘラ尻尾振ってた第二次大戦終戦直後を思い出すな」

 嘲弄するデメテルの顔も、そう考えると何の不安もなく見返すことが出来た。

「……へぇ」

 デメテルが意外そうに目を見開く。

「あまり驚かないんだな。現実味が無さ過ぎたか、猿田彦?」

「現実味が無い経験を幾つも経てきましたからね。逆にその現実味が無い経験の理由付けができて、今ではむしろ猿田彦の心は穏やかですよ」

 それに、そんな気はしていたしな。

 俺とちづるさんと保宜とで三枚のお札に書かれていた神様の名前を調べた時のこと。その結果報告に際してちづるさんが口にした、突拍子も無い考察。

 それはまるで、俺たちが神様の生まれ変わりだとでも言うような馬鹿げた話だった。

 しかし、今だから明かそう。俺だって同じようなことを頭の片隅で考えていた。これだけ不自然に符合する部分が多かったら、それがどんなに非現実的なことでも頭の片隅にでも引っ掛かってしまうだろう。

 ただ単に、己の理性と常識がその非現実的な引っ掛かりを否定しようとする力の方が強かっただけで、その疑い自体はいつまでも思考の隅っこの方に確かな重みを持って存在したままだったのだ。

 そのパワーバランスが、デメテルの言葉でひっくり返った。

 ところがそれは絶望感や喪失感などとは一切無縁で、俺の心にあるのはただワクワク感のみ。初めて社に向かった時、構内演習林を歩きながら感じていたのと同種のものだ。

 自分が神様?

――これほど心躍ることもないさ。

 これはきっと、ちづるさんも保宜も同じに違いない。

 だからこそ今、あんなに平然と微笑しているのだ。

「へぇ、それなりに肝は据わってるってことか」

「どうも」

 慇懃無礼にそう返すと、デメテルは笑いを隠そうともせずに、もう一度己の純白の岩に腰を下ろした。

「なら、さっさと会議を始めるか。日本の最高神の眷属が二人もいることだしな。立会人には事欠かない」

 デメテルの視線を追った先には高木兄妹がいた。

 驚かない。ただ、どんな神様なのかと疑問が浮かんだだけだ。

 その視線に高木さんが気付いた。それから神妙な顔で口を開く。

「私はね、月読尊なの」

「ひいいいぃぃ!」

 唐突にミオが悲鳴をあげ、高木さんはそれに神妙な顔から一転、苦笑する。

「そう。月読尊は日本書紀で保食神を殺した張本人。ちなみにお兄ちゃんは素戔嗚尊よ。きっと保宜さんも、保食神の本能的な部分で気付いてたのね。私たちの正体に」

「最高神の眷属、っていうのは?」

 ちづるさんが問う。

「死んでしまった伊弉冉尊を追って黄泉の国に行った伊弉諾尊は、そこでなんやかんやあって逃げ帰ってくるんだけど、黄泉で付いた穢れを落とすために顔を洗った時、左目を濯ぐと天照大神が、右目を濯ぐと月読尊が、鼻を濯ぐと素戔嗚尊が生まれたの。ご存知、天照大神は日本神話の最高神。その弟である素戔嗚尊も、妹である月読尊も、最高神と並び称される存在って訳」

 淀みなく答える高木さんには、確かにそれらしいオーラがある……気もした。

 なんて、今さらか。

 そもそもが、人並み外れて綺麗な人なんだから。

 月の天女――なんて風雅な呼び名すら似合ってしまう、大和撫子。

 最近ではすっかりすぐカッカする癇癪持ちになってしまって、天照大神とどっちが太陽の神様らしいか分からなくなっているがな。

「そういうこった。日本の農業神である倉稲魂神に豊受大神、保食神もこの場に揃ってるなら、なんも不都合なんざ無いだろう?」

 デメテルがパァン! と大きく手を打ち鳴らす。

 瞬間。

 無色透明な空気から滲み出てくるように、数多の人影が浮かび上がってきた。その人影は間もなく明確な人の姿となって、各々の岩に腰を落ち着けた。

「んじゃ、さっさと始めるか」

 その場が整うまで、僅か数秒のこと。

「議題は『日本国の今後六十年』。そんじゃ、まずは日本の言い分を聞こうか」

 その声に従って、先輩が一歩を踏み出した。しかし、それはすぐにフレイ氏に止められる。不思議そうにフレイ氏を見る先輩。俺たちも同様に彼に注視した。

「……きっと、辛い思いをする」

 フレイ氏が声を潜めて、言う。

「……これから君たちにとって、辛い言葉が向けられるはずだ」

 その目は俺たちをゆっくりと見回していき、最後に先輩と視線を交わした。

「……覚悟を」

 静かな言葉だったが、その意味は先輩にも十分に伝わっただろう。

 緊張を押し隠すように、一度はっきり頷くと、座席用の岩が円形に並べられた空間の中心に、先輩が進んだ。

「日本代表、伊勢大神宮外宮鎮座、豊受大神が奏上する」

 やはり先輩は、全て承知の上で俺たちを集めたんだよな。自分の発する言葉に絶対の自信を持っている堂々とした語り口は、この驚天動地な事実を知って数日かそこらでできるものじゃない。

「今後五十年、我が日本国は農業・環境分野に重点を置き、またこれらに心血を注ぎ、これまでの五十年の工業発展の弊害として起こした数多くの問題の悉くを反省し、それに対処していくことを宣言する」

「だ、そうだ」

 特に興味もなさそうに先輩の話を聞いていたデメテルは、それから他の列席した神様へと嫌らしい薄笑いを向け、

「この戯言に賛同するヤツはいるか?」

 戯言だと?

 俺が顔を顰めていると、そこかしこから嘲笑が聞こえてくる。

 それに気を良くしたようにデメテルは笑みを濃くすると、先輩を見る。

「あまり好感は得られてないみたいだな。くくく」

「…………」

 先輩は、押し黙ったまま。

「異論のあるヤツは言っていいぞ」

 途端。

 広間は、怒号の飛び交う戦場に変貌した。

「罰だ! 天罰を下せ!」

「同意だ! この五十年間、卑小な島国の独りよがりな暴走によって世界がどれだけの被害を被ったか、身をもって分からせるべきだ!」

「制裁措置を提案する!」

 デメテルは、さも可笑しそうに先輩を見ていた。

 これがフレイ氏の言っていたことか。

 にしても、なんでこんなに敵視されてるんだ?

「こーゆー状態が『四面楚歌』ってんだろ? 他国の歴史事実を状況表現に使うってのもいかにも日本らしいな。迎合してばかりで、自国の誇りもあったもんじゃねぇ」

「…………」

 先輩は気丈にデメテルを見据えたまま、口を開かない。

 しかし、身体は動いた。

「……あぁ?」

 丁寧に腰を折った、最敬礼の形に。

「何のマネだ?」

「……も……あ…………し……」

「聞こえねぇんだよ!」

 糾弾するような叫声に、初めて先輩が身体を震わせた。

「……申し訳、ありません、でした」

「何でも頭下げりゃ許されるとか思ってんじゃねえぞ」

 デメテルは岩から降りると先輩の前まで歩いていき、それから先輩のポニーテールを勢い良く掴み上げた。

「……く……ぁ」

 先輩の口からは苦悶の声が漏れる。

 これは、どう見てもやりすぎだろう。

 俺や高木兄は咄嗟に駆け寄ろうとした。なのに、フレイ氏に遮られてしまう。

 非難の目を向けてみても、フレイ氏は真面目な顔で首を横に振るだけだった。

 視線の先には、先輩の髪を掴んだままのデメテルが、内側に嵐のような猛烈さを秘めた静かな表情で立っている。

「今、この世界を侵している環境問題。主だったところで地球温暖化、それの原因ともされる森林の砂漠化、自然環境の悪化によって引き起こる生態系の破壊、後々の地球にとってまさに致命的な問題となり得る火種を作り出してきたのは、どこの国だと思う?」

「……いっ…………」

 痛みに堪えている状態では答えられないはずだ。それを見越していたように、デメテルは息継ぎの間程度を待っただけですぐに続きを語りだす。

「――日本だ。テメェで問題起こしておきながら見ないフリして、今も暢気に資源を浪費している日本なんだよ!」

 唾を飛ばしながら、歯を剥き出しながら、凶暴にデメテルが吠える。

 でも、先輩は黙っているだけで、何も言えない。

 周囲からは、すぐにでも俺たちをとって食おうとしているような、恐怖を煽る息遣いが伝わってくる。それは全面的にデメテルの言葉を肯定しているということだろう。

 それには反感を覚える。

 日本が全て悪い? そんな馬鹿な話があるか。地球は広い。そんな理不尽を片っ端から日本に押し付けられたりしたら、この国に住まう人なら誰でも憤りを感じるだろう。

 と、その時。

「おいおい、何だテメェは」

デメテルの凶暴な視線が俺を捉えた。

「……何です?」

「その反抗的な目は何だ、つってんだよ」

「生まれつきです」

「冗談に付き合ってる暇はねぇんだよ、ガキ。質問に答えろ」

「……まるで日本だけが悪者のような口振りですが、貴方がたの国には後ろ暗いことが一つも無いんですか?」

「何を言うかと思えば、口を衝いて出るのは我が身可愛さの自己弁護。話にならん。そもそも話の中心はそこにはねぇんだよ」

 逃げにしか思えなかったのは俺だけか。

「危機管理能力。問題意識だ、ここで問うているのは。考えてみろ、テメェら日本人の暮らしを。少しでも環境問題に危機感を持っているか? エコだエコだと騒いではいるが、本気で危機感を感じている日本人がどれだけいる? 我関せず。対岸の火事。風馬牛。それが日本人の本当の姿だろ? ほれ、認めろよ。自分たちに直接的な被害が出るまで傍観を決め込んで、他の国が凋落しようと見て見ぬ振りをする、テメェらの醜い性根を」

 嘲るように吐き捨てると、デメテルはさっさと視線を戻した。ちょうど見下す位置にある、頭を下げたままの先輩の後頭部へと。

「…………っ」

 言われ放題。なのに言い返せない。

「テメェらは、今まで何をしてきた?」

 問われた瞬間、俺を形成している時間という積み重ねが、一気に崩れ落ちたような感覚を得た。足場が覚束なくなるような不安。それは心当たりがあるからに他ならない。

 自分が全幅の信頼を置いていたはずの自分。その自分が経験し、考えてきたこと。

 それの――なんと薄っぺらいことか。

 そう。俺たちは、これまで何をしてきた?

 日本を救うといった先輩の言葉を、どれだけの気持ちで受け止めていた?

 どこか遊び半分のような、軽い心で行動してはいなかったか?

 何も考えていなかった。そうとしか、言いようがない。

 俺の生活にしてもそうだ。我慢できる程度の暑さなのに反射的にクーラーのスイッチを入れてしまう。つい水道の蛇口を出しっぱなしにしたまま歯を磨いてしまう。その他諸々身近なところで無駄なのが明らかな事柄。

 思いつく。思いついてしまう。

 正直に言おう。俺は環境について何も考えていなかった。

 マイ箸やマイボトル、エコバッグなどを使うべきなのは分かるのだが、結局面倒くさいという心理が勝ってしまう。

 本当に些細な、努力とすら呼べない、ちょっと意識をすれば出来ることなのに。

 環境と直結することを学ぶはずの、農業大学に入学したのにな。

 思案するまでもなく、俺にはデメテルに抗う言葉を持ち合わせていなかった。

 それに引き換え、あの人はどうだ。今もデメテルに髪を掴まれたまま、しかしせめてもの反抗とばかりに押し黙っている先輩は。

 これまで何度も俺に接触してきた先輩。

 強引に俺をLDK同好会に入会させた先輩。

 非常識とも取れる行動の数々。それは全て、誰よりも日本を想っていたが故の行動。

 本当に俺は、ただ先輩の尻にくっついて来ただけだった。

「ふん」

 反応のない玩具に興味を失ったように、先輩の髪を投げ離すデメテル。

 俺たちに背を向け数歩を歩き、

「決まりだ」

 判決を下す。

「今年、日本に天災地変を起こす」

 広間中から、拍手喝采が巻き起こった。

「…………! そ、それは」

「てめぇは何も言い返さなかった。つまりは自覚してるってことだろ? だったら甘んじて受け入れろ。それが日本という踊り狂った国に相応しい制裁だ」

 それからデメテルは、何か楽しい悪戯でも計画したようにほくそ笑んだ。

さながら、積み上げた巨大な積み木の城を、どうやって崩してやろうかと無邪気に思案する子供のように。

「さーて、何を起こしてやろうか」

「台風だ! 伊勢湾台風以上のものを首都にぶつけてやろう! 東京の排水設備は脆弱だ。ちょっと大雨を降らせてやればたちまち大混乱に陥るぞ! ついでに暴風でも起こしてやれば交通網すら分断され人の往来は不可能になり、都市機能も完全に麻痺する!」

「いや、それなら地震の方がいい! 最近日本では耐震住宅などと謳った建築が増えているらしいが、それらすらも木端微塵に出来るような規模の大地震を! それにこちらなら津波も起こせて手っ取り早く二次的な被害を期待できる!」

「酸性雨もいいんじゃない? 丁度隣には一昔前の日本みたいな国もあるし。東南アジアから熱帯林を伐採しまくっているくせに、国土の七十パーセント近く森林だって誇らしげに言っている日本の森をシュバルツバルトみたくしてやろうよ!」

 滅茶苦茶だ。

 これは会議なんかじゃない。裁判だ。

 いや、それも違うな。裁判なんて生優しいものじゃない。ここで話し合われているのは全世界公認の大量虐殺の企てだ。

 被害は、決して俺たちだけに留まらない。

 全ての日本国民が標的だ。

 ソドムとかゴモラって町に住んでいた人々も、全員が全員悪事を働いていたわけではないだろうに、神様は町ごとこの世界から消したらしい。

 これが神様なのか。

 ――自分が嫌いになりそうだ。

「ふむ。どれもいいじゃねえか。危機に鈍感な日本人がアホみたいに慌てて逃げ惑う姿が目に浮かぶ」

「ちょっと待――」

「おっと、そうだテメエら! こんな余興はどうだ?」

 いい加減、文句を言おうとした俺の言葉を覆い隠すように、デメテルが何かを思いついたらしく声を張り上げた。

「今月末日までに、日本の欺瞞の象徴である東京の、現人口以上の日本人が神に反省の念を唱えたら、今回の制裁措置を免除にしてやるってのは」

「…………?」

 何故にいきなりこちらを救済するような言葉を?

 なんて一瞬でも考えた自分が情けなかった。

「ははっ。無理に決まっているじゃないか、そんなこと」

 その通り。どう考えても不可能だ。

「ああ無理だ。でも、だからこその余興だろ」

「ほう、なるほど……面白いかも知れんな。今月末のWTC閉幕までの間に、こやつらがどんな悪足掻きを見せてくれるのか」

「くく、窮地に追い込まれた人間というのは鼠以上に愉快なものである。なまじっか知能があるからこそ人の末世では犯罪が横行し、その様はまさしく地獄絵図の様相を呈すであろう。それは確かにいい余興であるな」

 そんな大事を求められても生憎、頑張り方が思いつかないな。

「どうやらオレの提案の方は好評らしいぜ。どうだ、豊受大神?」

 くるりと振り返ると、奸吏のような下卑た笑みを見せる。

「何もせず終わるか。それともオレたちの腹を捩じらせてから終わるか。選ばせてやる」

「………………」

 先輩は口を引き結んでいる。僅かに顎が震えているところを見ると、かなりの力で歯を食い縛っているのだろう。

 それは一体どんな感情の表現なのか。憤怒か羞恥か絶望か。もしくは彼女の責任感に由来する孤独か。

 どれだとしても、それは先輩一人の双肩には重すぎる。

 きっと、約一億三千人で分け合って初めて丁度いいサイズだ。

 だから先輩だけが槍玉に挙げられているのは、絶対に間違っている。

「笑っていただきましょう」

 気付くと俺が返答していた。それも自信満々の笑顔で。

 これには会場がしんと静まり返り、四方八方から視線が集まってくる。

少しだけ、気が晴れた。

「貴方がたの望むまま踊ってさしあげます。しかし、お覚悟を。笑いも度が過ぎれば死と近しい。人は貴方がたのように、遥か高みからのんびりと世界を眺める悠長な時間など持ち合わせておりません。だからこそ、限られた時間の中で踊るダンスは、クライマックスに最高の盛り上がりを見せます。それこそ、末端兵が高級貴族の令嬢すらものにするほどに」

 信じられないくらい俺の頭からスラスラ言葉が溢れてくる。

 それにしても、よくこんなスカした演説みたいな台詞を言えたもんだ。

 黙ったまま顔を顰める神様たちの中で一人、面白そうにこちらを眺めていたデメテルに指を突きつける。

「抱腹絶倒の喜劇を、どうぞご期待下さい」

 そのまま俺は、皆を促して広間を出た。

 もちろん奴らに頭など下げてやらなかった。

 日本人が誰にでもへこへこ頭下げるとは思うな。

頭を下げるべき相手は、ちゃんと選ぶんだよ。



 なんて啖呵を切ってみたものの、実際のところどうしたものか見当もつかない。

 どうも、あの世界の技術で人々の祈りを具体的な数値で示す装置が開発されているらしい。それで日本国民の祈りを捧げた人数を計測できるという。それに、広間にいた神様連中は何かしらの手段で今も俺たちの行動をモニタリングしているんだろう。

 いざその立場になってみると、腹立たしいことこの上ない。何なら、このまま無気力状態を通して何の面白みもないショーにしてやってもいい。もしかしたら、その方が奴らの期待を裏切れるかもしれないし。

 しかし本当の意味で奴らの鼻を明かすなら我武者羅にでも行動して、少しでも奴らの出した条件に近づくのが常道だ。

 その間の俺たちの行動が、どれだけ滑稽でも。

 ならば行動あるのみ――

「…………はぁ」

 ――と、決意表明してはみても、ぶっちゃけどうすればいいのか分からない。

 実は俺の頭の中は、ずっとこの堂々巡りなのだ。

 あの会議とは名ばかりの密室裁判から、早一週間以上が経過していた。その間ずっと今のような調子で、状況は一ミリも進展していない。この心労のお陰で、変わらずあった平日の講義内容は何一つ身になっていない自信があった。

 四月の晦日まで、あと二週間。

 会室の椅子に腰掛け、テーブルに頬杖を付きながら、もう何度目かも分からない溜息をついた。

「かっこよかったぞ」

 ふと、隣に座っていた先輩が、そんなことを言ってきた。

「一体なんです藪から棒に?」

「君が最後にデメテルに言った言葉だ」

 先輩はこちらに顔を向けず、窓の外を見ている。

二週間前の出来事を思い出しているのか。

「あの言葉のお陰で、あたしの心はふっと軽くなった。…………本気で、惚れてしまいそうだった」

「…………どうも」

 俺から見えるのは、部屋の空調によって僅かに揺れるポニーテールのみ。

これ以上眺めているのはマナー違反かと、俺も正面に視線を戻した。

「……どうにかしたいな」

「……そうですね」

「行動をしようにも、どう行動すればいいかが分からない」

「同じく」

 会室には今、俺たちの他にもちづるさん、保宜、高木兄妹、シュールがいる。その全員が全員、暗い顔で沈み込んでいた。

「……本当に、アイツらは大災害なんて起こせるんでしょうか?」

「起こせるよ」

 一縷の望みを掛けた現実逃避の問いも、一瞬で粉砕される。

 声のした方に振り返ってみると、

「……先生」

 神界から返ってきて以来、顔を見ていなかったフレイ氏が会室の入口付近の壁に背中を預けながら立っていた。心なしか強めに腕を組み、瞼は閉じられ、見慣れたはずの柔和な笑顔は影を潜めている。

「信じられないかもしれないが、彼女はかの有名なギリシャ神話に登場する、オリンポス十二神の一柱に数えられる豊穣の神デメテルだ。ギリシャ神話は他国の神話、更にはその成立以降の芸術や哲学にも多大な影響を与えた。それほどの影響力を持った神話の重要なポストを占める神様なんだよ。多分、異常気象を起こすことなんて造作も無い」

「…………」

 俺たちの認識はまだ甘いと教えるように、簡単に縋りつける希望を打ち砕いていく。

「君たちは、この国が好きかい?」

 唐突に、フレイ氏が訊いてきた。

「何ですか、突然」

「答えてほしい。この国が好きかい?」

 そんなの、解答は一つしかない。

「……はい」

 俺の答えに続くように、他のメンバーからも肯定の返事が届く。

「この国が、これから贖っていくべき罪を抱えていたとしても?」

「はい」

「これからの時代、国を引っ張っていく世代は君たちだ。つまりは、君たちが矢面に立たされることになるんだよ?」

「はい」

 迷うことなんてない。

「俺、この前あそこで日本のことを馬鹿にされた時、すごく悔しかった」

 デメテルに日本を、引いては日本人を扱き下ろされた時の感情を素直に吐露する。

「俺は、他の国の大統領選とかで盛り上がってるその国の人をニュースで見たとき、冷めた目で馬鹿にしてました。なんでこんなに盛り上がれるんだかって」

 皆の視線が集まってくるのが分かる。だから俺は精一杯に胸を張った。

「でも、デメテルに日本を馬鹿にされた時、悔しかった。それで気付きました。俺もあのニュースで見た、大統領選で盛り上がっている人たちと同じなんだってことに」

 ふと見ると、フレイ氏の顔に小さな笑みが戻ってきていた。

「テレビの中の彼らは、自分の国の将来を真剣に考えているからこそ、あんなにも盛り上がれる。それは、俺が日本を馬鹿にされた時に感じた気持ちと、何も変わらない」

 それから窓の外から見える景色に目を移す。そこには見慣れた摩天楼と、晴れ渡った青天井が広がっている。

「俺、自分で思ってた以上に、この国のこと好きみたいです」

 と、そこまで言ってから、自分がとんでもなくこっ恥ずかしい台詞を吐いたことに気が付いた。顔が熱を帯びていくのが分かる。

とてもじゃないが、他の人の顔など見れなかった。

 そんな俺に追い討ちを掛けるように、皆の笑い声が唱和した。逃げ出してしまおうかとも思ったが、出口はフレイ氏に押さえられている。

 逃げ場はなかった。

「ふふ、そうね。私も好きだわ、この国のこと。だって、こんなに面白い人がいるんだもの」

 ちづるさんの言葉は本気か、それとも照れ隠しか。いまいち判別できない。

「ミオも好きです。色んな問題抱えた国ですけど、そのお陰でミオたちは今便利な生活をさせてもらっています。今度は、ミオたちが問題を解決していく番ですよね」

 それは何とも保宜らしい、優しさを持った言葉だった。

「私だってこの国のこと好きよ。なんて言ったって、たくさん愛でるものがある。この国に住む人はそれを見つける名人なのよ。これはきっと、日本人だけに許された能力ね」

 風雅なことを言うのは高木さんだ。何だかんだで雅という言葉が似合う彼女らしい。

「あたしも同感だ。元々この国には優しさと感謝が溢れていた。祈願をし、それが叶ったなら御礼をする。当たり前のことだが、これほど気持ちのいいことはない」

 これも義理人情に厚い先輩らしい台詞だった。

「問題があるということは、逆に言えば、この国はまだ幾らでも改善していく余地があるということだ。悲観することばかりでもあるまい」

 高木兄は何だかんだで頼り甲斐がある。虎之助じゃないが、俺も兄と呼びそうだった。

「私は、この国で暮らすようになって日は浅いですけれど、それでも日本が大好きです。だってこの国には、自分の事も顧みず、他人を助けてくれる優しい人がいるんですもの」

 そこでシュールに優しく微笑まれなどしたら、照れない男はいないだろう。

「……ははっ」

 皆も俺に負けず劣らず恥ずかしいことをのたまってくれた。

 これで俺も、はにかみながらも顔を上げられる。

「その言葉が聞けて嬉しいよ」

 目尻に光るものを見せながら、フレイ氏が言う。

「この国は、捨てたものじゃない」

 見た目は明らかに外人なのに、その言葉には俺たちの誰より熱い日本への想いが籠っていた。

「ボクもこの国に来てから、たくさんの人を見てきた。もちろんあまり褒められない人も中にはいたよ。でも、それ以上に良い人はたくさんいた。ボクが道に迷っていた時に、尋ねた女性がわざわざ目的地まで案内してくれた時は感動で涙しそうだった」

「ベタなエピソードですね」

「しかもその人はネオンがキラキラしたホテルで休んでいかないか、なんて気まで利かせてくれてね。この国の人の優しさに、ボクは感激したんだ!」

「…………」

 そのホテルがどんな施設なのかは、黙っておくのが吉だろう。

「……ちゃんと、目的地には辿りつけたんですか?」

「うん。その人が最後まで案内してくれたよ」

「……そうですか、それは良かったです」

「どうしたんだい? 厭世論者みたいなニヒルな顔して」

「いえ、何でも……」

 若干、捨てたものかもしれなかった。

「それにこの国がこれまでやってきたのは、他国から非難されることばかりじゃない。多くの新技術を開発し、中には全世界の人々の暮らしに革命をもたらしたものだって沢山ある。だからこそ、ここでそれに水を差しちゃいけない。この国はちゃんとこれから、自分たちの罪と責任を自覚してやっていけると僕は確信してる。だから――」

「だから?」

「とっておきの技を教えるよ」

 涙を拭い、子供のような笑顔を浮かべた。



 四月末日。

 神界の例の会議場では、神様が忙しく動き回っていた。

「どういうことだ、これは!」

 悔しそうに頭を掻き毟る者。

「……こんなの、あり得ないでしょ」

 目の前の事実が信じられないというように遠い目をする者。

「ペテンだ! 奴らは神を謀ったのだ!」

 ありもしないことを叫ぶ者。

 概ね俺たちに友好的でない神様たちが親の仇でも見るように俺たちを睨んでいる。

 広間の奥。丁度デメテルが座っていた純白の岩の上あたりの壁をスクリーンにして映し出された数値に、俺たち以外の皆が目を瞠った。

 そこには現在『8618432』と言う数値が踊っていたのだ。その後も断続的に数値は上がり続けている。

 これこそが、東京二十三区に住んでいるのと同数の日本人が神に祈りを捧げたという、動かぬ証拠。

「何故、このような結果に……」

 よほど俺たち――というか日本に損害を与えられなかったのが悔しいらしい。そんなに頭を抱えるほど日本が憎いのか。

 その時、誰かが叫んだ。

「おいおい女々しいぞテメェら。素直に負けも認められねぇほどテメェらは堕ちたのか」

 この声、この口調、聞き覚えがある。というか忘れようがない。

あれほど俺たちに鋭い牙を見せ付けた声だ。

「…………?」

 そのはずなのだが、しかし前回聞いたときとは少し印象が変わったような……。

「ですがデメテル! こんなことあり得るはずが……!」

「あり得るもあり得ないも、今この目の前にある結果が全てだろうが。いい加減テメェらもその僻み根性を直せ」

「なっ……!」

 聞いていた神様たちが絶句する。

「……そう言えば、デメテル殿は随分と落ち着いていらっしゃるな」

「ま、まさか! 貴様が何か小細工を……!」

「する訳ねぇだろうが。んな面倒くさいこと。オレはただお前らより分別があるだけだ」

「何を!?」

 いつしか神様たちの標的は、俺たちからデメテルへと移っていた。その展開に俺たちが拍子抜けしていると、フレイ氏が面白そうに目を瞑った。

「さて、帰ろうか」

「……い、いいんでしょうか、このままで?」

「大丈夫さ。後は彼女が何とかしてくれる」

 保宜に問われると、フレイ氏は当然のようにそう答える。相手との間に信頼とも呼べるような何かがあるようだった。

 彼女? と聞き返す前に、フレイ氏は踵を返してしまう。

「それよりも。明日から皆も心機一転、大学の授業に集中しないとね」

「そ、そうでした……。ミオの学科、レポート課題がたくさん出てて」

「それにきっと、ワクワクするイベントも待っているからね。これから」

「まさかまだこんなのが!?」

 もううんざりというニュアンスを出しつつ、俺は満更でもなかった。

 ただ退屈なだけだと思っていた大学生活。それがいきなり俺のアイデンティティさえ覆され、挙句の果てには日本の危機すら救ってしまった。

 確かに俺に掛かってくる責任感とかは尋常じゃなかったが、それでもまた同様のことがあれば、俺は何だかんだ言って首を突っ込む気がする。

 それくらい、この一ヶ月は濃密で、そして楽しかった。

 それに何てったって一癖も二癖もある女子たちと出会い、今となっては女難どころか最高の女運だと言えるほどに彼女らのことを好きになっている。

 これから、どんな日々が待ち受けているのか。

入学前の無気力が嘘のように、今は楽しみでしょうがない。

まだまだ、やることも沢山あるしな。

――この世界のために。

「ああ、帰ろう」

 先輩の声も喜びに弾んでいるように聞こえた。

「あたしたちの国へ」


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