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着替えたいと言ってはみても着替えの持ち合わせなどあるはずもなく、結局昨日はそのまま帰宅する羽目になったのだが、電車の中で他の乗客から浴びせられる白い目が痛かった。よほど獣臭かったのだろう。あれだけ体液擦り付けられたからな、マーキングかって具合に。
ともあれ無事に帰宅し、即行で風呂と飯を済ませて床に就いたのが夜の九時。それで起きたのが朝七時というのだから我ながらガッツリ寝たもんだ。
それというのも昨日は相当、心身ともに疲労が蓄積した日だった。おまけに全身至るところに打撲傷や擦過傷を作ってきて、身体も治癒のための睡眠を欲していたに違いない。
そうして今の俺は、いつかのように学校の机に突っ伏している。
「だ、大丈夫? 一昨日以上に酷そうだけど。やっぱりあの人たちに何かされたの?」
「……いや、そうじゃない、んだが……」
傷の痛みは落ち着いてきたものの、十分以上の睡眠を経た現在でも全身を襲う倦怠感は拭えぬものがあった。いや、むしろこの倦怠感は一日たったからこそ訪れるものか。
なんて言っておきながら、そんなものは割かしどうでもいい。
この倦怠感は身体的に原因を持つものではなく、むしろ精神の方に由来したものだ。
今朝もLDKの会室に寄った際、先輩に言いつけられた。
曰く、『とにかく片端から女子と目を合わせるんだ。そうすればきっと、己が使命を悟った娘ならすぐ名乗りを上げるはずだ』と。
ただすれ違うだけの見ず知らずの男と目を合わそうとする女子なんて、今どきそんないないっつうの。
そうなると、知人女性から攻めていくしかないのだが、
「なぁ高木さん」
「? なあに?」
無言でその目を見つめる。
「………………」
「……ど、どうしたの、そんなに真剣な目で。やっぱり何かあったの? 悩み事なら聞くよ?」
「…………はぁ」
やはり違うらしい。
「なぁ高木さん」
「う、うん。なに?」
「高木さんって、神社とか詳しいのか?」
つい先日の構内散策の際、俺が見つけた祠を覗くと何かに思い至ったような表情を浮かべていた。俺と猿の関係に言及した第一人者であり、俺に『あまり神社に行かないのか』と尋ねたのも彼女だ。
ここまでの行動や言動を鑑みた結果として間違いなく言えるのが、俺よりも神社や神話周りの知識を持っている、ということだ。
「う、うん。同世代の中では知ってる方だと思うよ」
やはり答えはイエス。
なので俺は直接的に聞いてみることにした。
「天鈿女尊って、どんな神様?」
すると、
「…………!」
ダンッ、とテーブルに掌を叩きつけながら立ち上がった。
しんと静まり返る教室。衆目の集まるその中心にいるのが高木さんと、その隣に座っている俺だ。
さすがに自身が注目の的になっていることに羞恥を感じたらしい高木さんは、すぐに席に座り直したが、その異様な反応からして次の台詞が怖い。
「ねぇ佐田君」
「……何でございましょう」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「ど、どうしてでしょう」
「まさかとは思うけど……どこかに道案内してる途中で何者かに阻まれてその解決策として猿田彦が瓊瓊杵尊を案内するきっかけともなる天鈿女尊っぽい人を探し出してイチャイチャする……なんて目的じゃないよね?」
まるで見てきたような的確さだな。
「な、何よその目は。私は別に、覗き見とかしてないからね! 馬鹿兄がどうしてもって言うから付いてってあげただけなんだから!」
「今、白状したことに自分で気付いてるか?」
「え? ……はっ!」
この人は、若干抜けたところがあるらしい。
「……ゴメンなさい。今朝こっそりLDK同好会の扉の前で、中の様子を覗いてました」
「別にいいさ。高木さんは先輩のことも知ってたし、多分こっちの事情も大体把握してるんだろ?」
「……うん、まぁ」
「だったらそれはそれでいい。むしろ話が早くて助かる。何の関わりもない人にこんな話をしたら、嫌悪の目もしくは憐憫の目を向けられるのが目に見えてるからな」
俯き、多少落ち込み加減な高木さんを宥めつつ話を戻す。
「それで、天鈿女尊ってどんな神様なんだ?」
「…………そうだね、強いて言うなら…………私、とか?」
「……は?」
俯きがちのまま、さらにそっぽを向く高木さん。
その耳が赤くなっているのは、こちらからでも丸見えなのだが。
「ほ、ほら。天鈿女尊って芸能の神様だから、綺麗な女神様だったんだろうし。私って、その……言ったら何だけど、繁華街の方で買い物してたら……スカウト、とか……されちゃうこともあるし」
「そ、そうなのか」
女子を敵に回しそうだな。
「そ、そうなの。だからね、その……猿田彦の相手はきっとわた」
「それは違うんじゃないかな」
と、ここで話に入ってきたのは、毎度毎度気付かないうちに背後の席に座っている加藤清俣こと虎之助だった。今日の天パはまた一段と軽快に渦を巻いている。
「どういうことだ?」
「天鈿女尊って天照大神が天岩戸に閉じこもった時に、胸をはだけて桶の上で踊ったような、良く言えば開放的な性格の、悪く言えばストリッパーな女神だよ? とてもじゃないけど、高木さんとはイメージ重ならないと思うな」
「…………」
高木さんの無言の圧力が虎之助に押し寄せる。明らかな殺意の籠った視線付きだ。
「ひぃ!」
虎之助は途端に全身を震わせ、何処へと走り去っていった。もうすぐ授業開始だというのに大丈夫なのか。てか、この後の高木さんの応対を俺に押し付けやがって。自分の蒔いた種は自分で摘み取れってんだ。
「……はは。おかしなこと言うね、加藤君」
「違うのか?」
「……さ、さあ。どうだったかなー……」
この人は嘘をつくのが苦手らしい。
「という訳で、高木さんの友達で天鈿女尊っぽい人いない?」
「……! 知らないわよ!」
「お、おい?」
「知らない!」
と、高木さんは腕組みして顔を真っ赤にしながら顔を背けてしまった。ぷん、という効果音がこれほどマッチする背け方を、俺は見たことがない。
しかしだ、そんなことに感嘆している場合ではない。つまり俺は、最も頼れる味方を失ってしまったということになる。こんな話が出来る相手自体が少ないっていうのに、その中の最有力のご機嫌を損ねてしまった。
さて、どうしたものか。これからの方針が全くもって見えてこない。
これは難儀しそうだな。
遂に一言も口を聞いてもらえず、かといって隣の席を離れるわけでもなく、俺としてはその日一日の講義の内容が全く耳に入ってこなかった。
講義の時間中、絶えず隣から不機嫌オーラが漂ってくるのだ。その様子を窺い、肩をすぼめながら、己の立ち位置が貴女様よりも下層であるということを全身で表現しなければならなかったのだから、それは講義どころではない。
その日の全ての講義が終了して、ようやっとこの肩身の狭い思いから開放されると喜んだのも束の間、どうしてか会室に向かう俺のすぐ後ろを高木さんがカルガモの雛のようにくっ付いてきた。
とはいえ、付いてくるなとはとても言い出せず、その据わった目に追いたてられるまま俺は会室へと赴き、扉を開けた。
「こ、こんちわー……」
「いらっしゃい。遅かったわね佐田君。遅すぎて私、あなたを想って待つ侘しさを短歌にしたためそうだったわ……って、あら?」
静かに燃える炭火に余計な油を注ぐようなコントのフリをしたところでようやく、俺の背後に立っている備長炭の精霊であるところの高木さんに気付いた。
「あなたは昨日の癇癪持ち。思いの丈を叫びたいなら屋上の方がベストスポットよ」
「残念だけど、そんな挑発には乗らないわよ、環境学科一年稲倉ちづる」
ちづるさんの視線が俺に向かうが、どうしてちづるさんの名前を高木さんが知っているのか、なんてこと俺にも分からない。
まさか、生徒の個人情報でも学長である姉にリークさせたのだろうか。
「ふぅ、まあ別に構わないわ。貴女に名前を知られたところで痛くも痒くもくすぐったくもないもの。その性根の悪さに少し寒気はするけれどね」
「あらぁ素敵な自己評価ね。自分の性根が悪いってことを自覚なさっているなんて、なんて聡明なお嬢さんなのかしら」
「そういうあなたはシナプスの数がちょっと少ないのかしら。この年から脳細胞の減少を実感するなんてお気の毒にね」
「あはは」
「うふふ」
どうしてだろう、体の震えが止まらない。
その時、ドアが開いて「ひっ!」と慄く保宜の声が聞こえたが、その気持ちは良く分かる。この二人の笑顔での罵言の応酬は精神衛生上、非常に良くない。
しかも俺を間に置いてそのビーンボールキャッチボールが行われている状況だ。いつ俺に飛び火してもおかしくなかった。
「さぁ、あなたの若年性アルツハイマー病の告白も終了したことだし、早く愛しいお兄さんの元に戻って失恋の悲哀を慰めてあげるべきでは?」
「残念だけど、兄に対して愛しさなんて感情を一ピコグラムも持ち合わせていないし、昨日のうちに私とお姉ちゃんで追い討ち掛けておいたから、あと一週間くらいは部屋から出てこないんじゃないかしら」
不覚にも高木兄に同情してしまった。苦労してるんだな、アンタも。
「ふぅ、このままじゃ時間の無駄を大きくするだけね。しょうがないからストレートに聞いてあげるわ。あなたがここに来た理由は何?」
待ってましたとばかりに口端を吊り上げる高木さん。
「今日これから天鈿女尊探しをするんでしょう? 私も手伝ってあげようかなって思って」
「必要ないわ」
「残念でした。アンタはそうでも、これは佐田君たってのお願いなのよ。彼と私のよしみだし、断るわけにもいかないかな、って」
「え、俺そんなこと言っもが」
口を塞がれ、最後まで言わせてもらえなかった。
「あんな一生懸命に『俺が頼れるのは君しかいないんだ!』って頭下げられちゃったら、将来的に殿方を支える立場になる女として、とても断れないじゃない」
少し、いやかなり言質が歪められている気がするぞ。
「……随分と軽いよしみね」
「……それはアンタも同じでしょう」
二種類の笑顔が真正面からぶつかり合い、その視線は火花どころかプラズマくらい生み出しそうだ。
「……ならいいわよ別に」
先に折れたのはちづるさんの方だった。
素っ気なく言って顔を背ける。その間際、限界まで研ぎ澄まされた視線が俺へと突き刺さり、そしてその目こそが雄弁に語っていた。
このたらし――と。
なるほど、尻軽の意趣返しか。あの尻軽事件がまだ尾を引いているらしい。
……これからは、女性に対する言葉使いにはもっと注意しよう。
そこからしばらくは耳に痛い嫌な沈黙が続いた。ちづるさんはテーブルを凝視して固まっているし、高木さんは勝ち誇った顔をしているし、保宜なんかは壁に張り付くようにしながら涙を堪えている。
とてもじゃないが、男の居るべき環境としては最悪の部類だった。
まぁ、この状況を引き起こしたのは元はといえば俺なのだし、自業自得と言ってしまえばそれまでなのだが。
次に扉が開かれるまでの体感時間一時間。実際には十分程度だったのだろうが、俺の健気な心臓は悪寒に震える身体に少しでも多く血液を届けようとバクバク鳴っていた。
この時の扉の開閉音は、ゴスペルなんて遠く及ばない、俺にとって何よりの福音に違いなかった。
「おはよう。皆い……何故、高木の末っ子までここにいる?」
後ろ手に扉を閉めようとしていた先輩が、半眼で高木さんを見やる。それに続くようにしてちづるさんも胡乱な目で俺を見た。
「佐田君が助力を乞うたんですって。『僕チンどうしても貴女様と一緒に行動したいよぅ。貴女様の下僕になってもいいですからぁ』とか何とか」
「言ってません」
そんな台詞を吐くのは一体どんなキャラだ。俺的には亀甲縛りされた男の絵が浮かんだが、その男は断じて俺ではない。
顎に手を当て何やら思案顔だった先輩は、ハッと気付いたような顔をした。
「まさか、高木の末っ子が天鈿女尊だとでも言うのか?」
「「!」」
それにちづるさんと高木さんが同時に顔を跳ね上げ、
「そ、そうなのよ御厨斎都姫! アンタも意外と話が分かるじゃないっ」
片や晴れやかな笑顔でぶんぶん頷き、
「それはないです斎都姫姐さん。この女は家庭に入れるだけの知能を持ってません」
片や不機嫌顔からの悪態で断固否定。つうか話が飛び過ぎだろう。
「何ですって、この年増女。アンタなんて家庭に入る頃には皺枯れババアでしょうが」
「『殿方を支える』とか普通に言ってたあなたは、既に貞操観念がミイラ化してるわよ」
再び勃発する視線の制圧戦。エレクトロン焼夷弾やらクラスター爆弾やら、この二人の視線を例えるものには事欠かないが、それは主に戦場で飛び交う爆弾の名称だ。たまには曳光弾くらいの優しいものを混ぜたらどうなんだ。
結局、どれにしたって生身の人間が食らったら死にそうだけどな。
「まぁまぁ、とりあえず落ち着け二人とも。興奮は老いた身体に毒だぞ」
アンタも火に油を注ぐな。
ほれ、あの射殺さんばかりに先輩を見る二人の目を見てみろ。今までお互いしか攻撃対象としていなかったのが、とうとう先輩まで敵として認識したぞ。
「け、喧嘩は止めて下さいっ……!」
「うっさい栄養学科一年保宜ミオ」
保宜の仲裁を高木さんは一蹴した。またどうしてか知っている保宜の個人情報付きで。
「なっ! ど、どうしてミオの名前を……? ま、まさか! ミオの個人情報を調べ上げて実家の住所を洗い出しそこに押し入ってミオの家族にまで手を出して最終的にミオの精神崩壊を見届けたところでミオ自身も血祭りに上げるつもりですか……!? こ、これはまさかミオ、貞操のピンチですか!? ひ、ひきゃ――――――――!!」
「私は一体アンタの中でどんなキャラ設定よ!」
「た、助けて下さい佐田君! ミオ、あの人に殺されます!」
「ミオったら、相変わらず妄想逞しいわね」
「それにしてもこの怖がりようは尋常じゃないな。何か高木さんに似た人にトラウマでも植え付けられたのか?」
「ああ、およそそんなところだろう」
ん? 知ったふうな口振りだな。
「何か知ってるんですか、先輩?」
「聞いて驚くな。保宜が高木の末っ子を恐れるのは、前世からの因縁によるのだ」
驚けという方が難しい、そんな馬鹿げた話。
それ以上に馬鹿げた話の渦中にいる俺たちが言えたものでもないかも知れないが。
「彼女は前世で、それはもう過酷な人生を送ったのだ。神様に飯を作ってくれと言われたのに、ちょっと材料を取り出したのが微妙なところだったもので、その神様に切り殺されてしまう、と。そんなところだ」
「正直、話がさっぱり見えません」
「肛門から出した食材を食べさせられてなお寛大でいられる神様なんていない、というささやかな教訓が現代まで語り継がれている」
「………………」
いきなりの肛門発言に場は凍りつく。皆が顔面を引き攣らせ、言葉が見つからず酸素欠乏の水槽の中で口をパクパクさせる金魚のようになっていた。
今の話を聞いたところだと、さすがにそれは保宜の前世が悪いのでは。神様だって、そりゃキレるさ。
「…………ふ、ふぇぇ」
自分の前世を知り、そのあまりの悲惨さに嗚咽を漏らし始める保宜。泣きたい気持ちは痛いほど伝わってくるが、こちらとしても慰め方が分からない。
「――なんて話があったら面白いな」
と先輩が言った時は、保宜の目が本気の殺意に染まった。
「さて、閑話休題。何はともあれ、天鈿女尊をこれから探し出すという話だったが、時間的にも制限がある中では無理がある、とあたしは判ぜざるを得なかった。あまり歩き回るのも面倒だしな」
最後のが本音だろう。
「という訳で、手近で済ませる許可を貰ってきた」
「ちょい待ち」
俺は反射的に掌を先輩に向けストップのジェスチャー。
「許可、って何です?」
「許可は許可だろう。二十世紀初頭まで行われていた中国の役員登用試験じゃないぞ」
「科挙くらい知ってます。相当な倍率だったらしいですね」
「かっきょう」
「カッコウみたいに言わないで下さい。確かにカッコウも他の鳥の巣に卵産み付けて、そこにあった本来の卵を蹴落とすという意味では科挙と被る部分も無きにしも非ずですが」
「ほう、なかなか付いて来れるではないか、君も。托卵の話題にここまで乗ってこれたのは君が初めてだ。話をしたの自体が初めてだが」
「そいつは光栄ですけど、そんなことより今は許可の話です」
この人との会話は注意していないとどんどん違う方向に持っていかれる。
「許可って何の許可です?」
「だから天鈿女尊探しを手近で済ませる許可」
「じゃあ、その許可を出したのは誰ですか?」
天鈿女尊探しは俺たちにとって最重要イベントと言ってもいい。何せこれが成功しなければ、世界趨勢決定会議、通称WTCとかいうのに参加できずに俺たちはゲームオーバーなのだからな。
そんな許可を出せる人間は、俺たちの事情を全て知っていてかつこのイベントを影で牛耳っている未だ姿を見せない超大物か、もしくはよほどの気違いだ。
「それは秘密だ」
「誰ですか?」
「女子の秘密を暴こうとするものじゃない。どうしても聞きたいなら先に自分から秘密を開陳するのが筋だろう」
「……特にあるませんよ。秘密なんて」
「何を言っている。男児たるもの、誰もが持っているだろう」
そう言われても、思い当たる節がない。
思索に没頭しても、秘密なんて中途半端なレベルのものしか出てこない。エロ本の冊数とか、エロビデオの本数とか。
……なんだか、人格を疑われそうだな。
俺が答えられずに唸っていると、先輩は解答を披露してくれた。
それはもう最低の解答を。
申し開きをしておくなら、俺は先のエロ本エロビデオ話を口には出していない。
ところがこの先輩は、
「秘密を開『チン』するのが『筋』…………くくくっ」
保宜以上に貞操のピンチなのは俺かも知れなかった。
先ほどの肛門発言といい、この先輩は意外と男子のするような下ネタに耐性をお持ちらしい。そういった女性は男からは重宝されるというが、果たしてそれは真実か。
男であるところの俺としては、この人から感じるのが恐怖以外の何ものでもなくなってきている気がする。
「まぁ君にそれが出来るとも思っていない」
「出来たら逆に顰蹙以上の反感を買います」
「全く、君はいつまでもおぼこだな」
「それを男に使うのは間違ってますし、本来的に俺は色恋が得意ではありません」
「色恋が得意な人間のことを軽薄と表現する。しかし不得意な人間も臆病と言われる。君はどちらがいい?」
「臆病の方がいいです」
「残念。正解はどちらでもない」
質問の形式からして俺の解答が正解なはずだが。
「色恋に得手不得手などなくていい。ただ普通であればいいのだ。ところが君は不得手の方に傾きすぎているようだがね。もう少し開けっ広げにしていった方がいいと思うぞ。ねいきっど、だ。ねいきっど」
「余計なお世話です」
やはり臆病のままでいい。
「という訳で!」
もう少し脈絡というものを考えてほしいが、今さらそんなことをこの人に諌言したところで手遅れな感は否めないので、とりあえず無言のまま次の言葉を待つ。
「これから『ドキッ! 天鈿女尊は誰だ!? LDK内選考会!』を開催したいと思う!!」
そして出てきたのは相変わらずのネーミングセンスが光る、またしても面倒くさそうなイベントの開会宣言だった。
「一番、御厨斎都姫。祝詞を奏上する。では――『掛けまくも畏き伊弉諾大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓え給いし時に――』」
英語と同様に古文にも耐性のない俺としては、延々と続く先輩の祝詞とかいう聞き慣れない文言を馬耳東風と聞き流しながら、今一度大きな溜息をついた。
目の前には先輩、高木さん、ちづるさん、保宜の四人が、一人を除き乗り気でない顔をしながら並んでいる。その除いた一人というのは、当然ながら今も恍惚としたトランス状態で祝詞なる呪文を唱えている先輩だ。
そして俺の並びには、穏やかスマイルのフレイ氏、腕組み仏頂面の高木兄、突然ここに連れてこられたことに動転している虎之助が、それぞれ椅子に腰掛け、審査員然として座っていた。
いや、実際に審査をしろとのお達しだった。
「……はぁ」
これじゃ、争いの火種を大きくするだけのような気がしなくもない。
あの後どうしたかというと、高木さんも含めたメンバーで栄養学科が主に使っている調理実習室まで移動してきた。そこにフレイ氏が合流し、しかも何故か高木兄と虎之助を引き連れてきたせいでこの大所帯が形成された。続いて、この選考会の概要説明。一番目に特技披露、そして二番目に料理審査があり、その総合評価で最優秀だった者を天鈿女尊に認定すると説明があって、現在に至る。
今はその第一審査、特技披露が始まったところだ。
「ブヒブヒ」
いつものように寄って来たシュールを膝に乗せながら、俺は欠伸を噛み殺した。
ぶっちゃけ、審査員として評価していいなら、先輩はこの第一審査、落第だった。はっきり言って退屈で仕方ない。内容が分かればまだマシだったかもしれないが、先にも述べたとおり、古文は英語と並んで俺の中の睡魔を活性化させる効果を持つ。
「『――聞食せと恐み恐み白す』。ふぅ、終わりだ。御静聴感謝する」
「お疲れ様です。それでは次、二番目の方」
いつしかフレイ氏が式次第を握った進行役となっていた。
「うぅ……はいっ!」
やけっぱちになったような高木さんの返事が室内に響き、彼女は一歩を前に出た。
「そんなに頑張らなくてもいい、我が妹朔耶。あのような猿に捧げられる人柱になど朔耶がなる必要はないぞ」
「高木風馬審査員。候補者への私的な発言は審査員心得第二項にて禁止とされています。以後慎むように」
「う、うむ……」
いやに真面目腐ったフレイ氏の注意に、高木兄も首を縦に振る。それは傍から見ていると、何かしらの強制力が働いているようにも見える強引な了承だった。
「さ、どうぞ。二番目の方」
完全に審査員になりきってるな、この人。本当に役者に向いてるんじゃなかろうか。
「二番、高木朔耶! モノマネやります!」
思い切ったな。こんな即席の状況じゃ滑るの必至だぞ。
「野沢さんドラえもんのマネ行きます! 『僕ドラえもんです。ほんやくこんにゃくー』。あ、ありがとうございました――!!」
怒涛の如くモノマネやり逃げしていったが、それにしても随分と微妙な秘密道具をチョイスしたな。……しかも意外な高クオリティ。
以前のリンキー酒井ピン芸人発言から考えても、この人はなかなかにお笑いに造詣が深いと思われるな。浮世離れした美貌のくせに、意外と庶民派。
「は、早く次の人へ。どうぞっ」
「あ。そ、そうですね。ありがとうございました。えー、それでは次の……方?」
フレイ氏が言葉を詰まらせた。どうしたのかと、その視線の先にいる次の演者であるはずのちづるさんを見ると、俺も同じように瞠目した。
基本設定として腹の中が真っ黒なあのちづるさんが、恥ずかしげにモジモジしながら頬を染めて、更には上目遣いでこちらを見つめていたのだ。
「は、はいっ。畏まりましたご主人様! 三番にエントリーさせていただいた、稲倉ちづると申しますっ。な、何なりとお申し付け下さ――きゃぁっ! ……いてて。転んじゃいましたぁ」
姿勢よく腰を折って礼をし……ようとしたところで何かに躓いたように前方にすっ転んだ。立ち止まった状態から何かに躓くというおよそ現実にはありえない要因で転んだ彼女の演目はズバリ――
「ドジっ子メイド……!」
戦慄か歓喜か驚嘆か。何にせよ、ただ現実を生きているだけでは巡り会うことの決して出来ない感情が込められた呟きを、虎之助が零した。
「うぅ……ぐすっ。ちづる、ちづる、いつも失敗ばかりで……ひっぐ……いつも、ご主人様にご迷惑掛けて……すん……本当に、ゴメンなさい。ご主人様ぁ、どうかちづるを見捨てないでぇ……! ふえええぇぇん!」
「オウ、イエィス! グッジョブ! ナイスワーク! 大丈夫、大丈夫だからね、見捨てないよ。ご主人様は見捨てないからね」
「ホ……ぐす……ホント……ですか?」
「ホントホントホントダヨ――ホッホー! ユタハイナカジャナイヨー!」
「おい、フレイ審査委員長。あれはいいのか?」
遂には審査委員長になったのか。
「今のは演者の方から話しかけましたので、構いません。これも三番さんのアピールの一部なのでしょう」
「……う、うむ。そうか……」
というフレイ氏と高木兄の会話も耳に入らないほどに、虎之助が壊れていた。元から少し情緒不安定な感はあったが、ここに来て一気にその精神の均衡が崩れたらしい。
それほどの衝撃が、あのメイドさんには込められていたということか。
しかし俺的には、
「あ、ありがとうございますっご主人様! これからもちづる、一生懸命ご主人様のために頑張りま――あいたっ。……また転んじゃいましたぁ」
ちょっと外見とのギャップがなぁ。
「何か言ったかしら?」
「うわ急に戻った!」
「今ちょっと癇に障るコメントが聞こえた気がしたのだけど」
「う、嘘だ! 声には出してなかったはず…………はっ!」
「あら、そうなの。じゃあ何て思ったのかしら? 正直に言ってくれたら多少の容赦をして右の手の甲を十回抓るところを左手の甲に変えてあげてもいいわよ」
「容赦の意味が分からない!」
「あら佐田君、貴方って左利きだったかしら?」
「骨折られるとかならともかく、手の甲を抓られるだけなら利き腕も何も関係ないだろ!左右チェンジするんじゃなくて回数減らせよ!」
「それじゃあ私の鬱憤が晴れないじゃない」
「だから容赦はどこにいった!?」
俺が地味に痛いお仕置きの恐怖に震えていると、その横では置いてけぼり感のある高木兄とフレイ氏が、少しだけ寂しそうに会話していた。
「……あれも、いいのか?」
「演者の方からのアプローチなので……誠に遺憾ながら、問題ありません」
「オウマイスゥィートメイドゥッ! 一体君はどこにいったんだい!? 許してあげるから出ておいでぇ!!」
滂沱と涙を流す虎之助は相変わらず壊れて迷走していた。本人によって微塵に砕かれたドジっ子メイドの幻想を追って。
「佐田君とは後でゆっくり楽しむとして、私の特技メイドサービス終了よ。お粗末さま」
俺としては、ごちそうさま、なんてとても言えないエンディングだった。
「……はい、ありがとうございました。それでは次の方、どうぞ」
司会進行の声にも力が無かったが、こちらの原因は俺とは違うものだろう。
審査員が四者四様の陰鬱でもって揃って肩を落としていた、その時だ。
ヒュゥゥ、と。緩やかな涼風が吹き抜けた――気がした。
というのも、
「よ、四番保宜ミオ……日舞、踊ります」
保宜が、見たことのないような澄ました表情で構えていた。その玲瓏な佇まいから、涼風に頬を撫でられるような錯覚を覚えたのだ。
おどおどしてはいるものの、しかし超然とした雰囲気に審査員の四人だけでなく、これまで特技を披露した三人でさえ圧倒されたように呑まれていた。
その姿は、いつも自信無さげにオロオロしていた保宜からは、とても想像がつかないほど自信に溢れたものだった。
そして、踊り始める。
何かを優しく掴んだ手がたおやかに流れていく。小さく、それでも淑やかな動きは周囲の空気すら巻き込んで、俺をその幽玄の舞に引き込んでいく。
一時、俺は審査なんてものを忘れた。
これまで何度か日本の古典芸能というものを見る機会はあった。その際の俺の率直な感想を発表しよう。
――あ? わりぃわりぃ、寝てて見てなかった。
そう、開始十分もしないうちに俺は眠りの世界に落ちていった。俺にとってその時見た演目は退屈で退屈でしょうがなかったのだ。
もちろん、それから俺も年齢を重ねたということはあるだろう。少しは古典芸能独特の良さを理解できるだけの感性が養われたのかも知れない。
しかし、この違い……本当にそれだけだろうか。
演者の力量の差は、無いとは言えないだろうか。
審美眼なんてものが備わっているとはお世辞にも言いがたい俺だが、それでも自信を持って言えることが一つある。
ごく単純なこと。保宜の舞には『魅力』があった。見る者を惹きつける力。それが圧倒的だった。
他に比較対象が無いので、身内贔屓だと言われたら返答のしようもないがな。
でもそんなことはどうでもいい。
保宜の舞を見終わった今、俺はとても満足しているから。
「え、えと……終わりです。お粗末さまでした」
心からの拍手を送ろう。そして今度こそ、心からごちそうさま、そしてありがとうと言おうじゃないか。
保宜にフられた経験のある高木兄も、顔を紅潮させながら掌の肌が裂けそうなくらいの盛大な拍手を送っている。その他の審査員だって、程度の差はあれど純粋な感謝を拍手に込めて保宜へと贈っていた。いいものを見せてもらった、と。
当の保宜はというと拍手喝采がいつまでも止まないことに気を良くするどころか、舞の間の洗練された雰囲気などどこかへふっ飛ばし、いつものおどおどした保宜に戻ってしまった。少し残念。
「なぁ保宜。お前、日舞って習ってたのか?」
「あ、はい。今でも通ってます」
「へぇ、どうりで。凄い上手かったけど、日舞にも何か級みたいなのあるのか?」
「えと……、級……というか、名取っていう免許みたいなものは頂いてます」
名取。それくらい知ってる。免許皆伝というやつだ。
なるほど、そりゃ凄い訳だ。
きっと審査員や他の演者も含め、第一審査の結果には文句など無いだろう。
「四番さん、ありがとうございました。これで第一審査は終わりです。では早速、次の審査へ移りましょう」
殊のほか満足顔で、フレイ氏が告げる。
「次は、料理審査です!」
わざわざ調理実習室に移動してきたのは、全てこの審査のためだと言っていい。それだけ、この企画を考えた先輩が料理に自信ありということなのだろう。
四人それぞれに調理用のスペースが割り振られ、どこから調達してきたのかも知れない山ほどの食材が四人の真ん中に堆く盛られている。
その不自然さに目を瞑るのであれば、確かにこの場は料理対決の様を呈し始めていた。
「制限時間は三十分。その間に自分が思う男性の好きそうな料理を作っていただきます」
すっかり審査委員長を自任しているフレイ氏の言葉に、皆がさっと中心にある食材に目を走らせる。ここから早い者勝ちで食材をゲットしていくルールらしい。
「ブヒー」
シュールが食材の山に近づこうとするのを、俺は抱え上げて阻止した。コイツが食材にされたらたまったもんじゃない。
しかも丸々太って……若干、美味そうだし。
「それでは始めてください」
フレイ氏がストップウォッチをスタートさせると同時、少女たちはライバルたちを目で牽制しながら、我先にと食材確保に動き出した。
ただ、鬼気迫る表情の他の三人に恐れをなしたか遠慮をしたのか分からないが、やはり保宜が出遅れていたのが気になった。
~三十分後
「そこまで。皆さん手を止めて下さい」
終了の合図とともに、四人の吐息が漏れた。それは出来に満足するものや、時間内に完成しなかった無念を嘆くものなど、それぞれ違う。
先輩、高木さん、ちづるさんの三人は各々高級食材と呼べる種類のものをゲットしていたのだが、保宜はそれらがあらかた無くなった後の食材から選んだもので料理を作っていた。このルールはちょっと不公平だったんじゃないか、と審査委員長に提言してみたが、その時点で既に後の祭り。
申し訳ないが、保宜にはそのまま続けてもらうことになってしまった。
少し、肩入れしすぎだろうか。
「それでは一番さん。料理を審査員に」
「ああ、分かった」
先輩の料理は、百グラムあたり数千円するという超高級和牛を使用したサイコロステーキだった。審査員に分けやすいようサイコロにしたのだという。審査委員長フレイ氏曰くそういった気配りも評価対象になるらしかった。
付け合せの野菜には緑のクレソンやグリンピース、赤のニンジン、そして黄色のカボチャやベビーコーンなど、標準的なものを持ってきた。しかし、スタンダードはいい。
そして肝心のステーキだが……こんなの、美味くない訳がないだろう。
シンプルに塩と胡椒で味付けした牛肉は、噛む度にジュワァと溢れ出す肉汁で口中を満たし、これまで味わったことの無いような満足感を俺に与えてきた。
今のところ、文句なし。
ただ料理とは関係ないのだが、少し気になるのが試食の順番。ここにきて、先輩が最初であるということに恣意を感じるのだが。先輩は自信のあるこの料理審査で優位に立つために、審査の順番を予め自分からにしたんじゃないだろうか。
考えすぎか? とは思いつつ、このことを審査委員長に申し上げると、後からの人は温め直すことだけは許されることになった。先輩は不満そうな顔をしており、この人も大概腹黒だったらしい。
「二番目の方、どうぞ」
「これでも私、料理得意なんだから」
高木さんの作った料理は、なんと金目鯛の煮付けという、予想以上に家庭的なものだった。見た目も香りも申し分ない。
さて、後は味がどうかだが。煮込む時間が足りなかったのか若干固い気がする身を解して、口に運ぶ。
「…………、…………………………っ………………、…………………………」
……正直言うと、吐き気を催す味だった。
祈るような格好で俺を見ている高木さんには悪いが、今すぐトイレに駆け込みたい。
身はパサパサで、味は甘味やら苦味やら酸味やら塩味やらがごちゃ混ぜとなり、これ以上ないほどの不協和音を奏でていた。そこには負の相乗効果しか見当たらず、鯛本来の旨味などは一切消えている。
「……、……ざ、斬新な味、ですね」
何かを堪えるように、切れ切れに言うフレイ氏。その意力に感服する。俺なんて口を開いたらリバースしてしまいそうなのに。
「そうなんですっ。醤油と酒とみりんの他に臭み取りの生姜、それからレモン汁とか蜂蜜とかインスタントコーヒーとか入れてみました。どうですか、この相乗効果!」
醤油、酒、みりん、生姜までは良かったのに、そこから先が果てしなく良くなかった。
「……味見は、しましたか?」
「はいっ、とっても美味しかったです!」
今の台詞が少しでも不味い料理をよく見せるための気を張った演技なんだとしたら、こちらとしてもその健気さに多少のお情け点を入れてもいい心境だったが、目の前に咲く向日葵みたいな晴れ晴れとした笑みを見ると、それが本気の言葉だと気付く。
味音痴も、ここまで来ると十分に人を殺し得る凶器だった。
「……次、行きましょうか」
「え、なになに? どうして皆下向いちゃってるの!?」
確かに高木さんがこのまま家庭に入るのは拙そうだった。
続いて、ちづるさんが料理を運んできた。
「私は男性が皆大好きな、ラーメンを作ってみたわ」
小分けにしたラーメンを、審査員の前に置いていく。
「さあ、どうぞ召し上がれ」
しかし、誰も手をつけようとしない。それもそのはずだ。この料理から、高木さんの煮付け以上の恐怖を感じていたのは、俺だけではないだろう。
料理には作った人の心が表れる、とは良く言ったもので。
そのスープは――真っ黒だった。
「名付けて『麺・イン・ブラック』よ」
上手いこと言ったつもりだろうが、とてもじゃないが笑えない。だいたい、何を使ったらこんな色になるのだ。イカ墨はまだ食べられる黒だが、これは絶対に違う。こうしている間にも、どうにも形容の仕様がない悪意ある臭いが俺の鼻腔を侵食してくるのだ。
味にどれほどの殺意が秘められているのか、想像もしたくない。
「あら、どうしたの? 冷めない内にどうぞ」
確かに、冷めた殺意はもっと怖い。しかし、どうしても俺の生存本能がこの魔女が煮詰めたとしか思えないダークマターを口に含むことに警鐘を打ち鳴らしていた。
そこに、
「もしかして食べさせて欲しいのかしら。だったら早くそう言えばいいのに」
しょうがないわね、というように苦笑したちづるさんが、俺へと近づいてきた。
その目の中に、俺は確かに見た。
加虐の喜びに潤む瞳を。
黒くコーティングされたラーメンが、箸に掴まれて目の前に差し出される。
「さぁ遠慮なく食べて。そして、そのあまりの美味しさに…………桃源郷まで旅してくるといいわ」
本気の殺意だった――――――――!!
「や、止めてくれぇ! 後生だから!!」
「あら、不思議なことを言うわね佐田君。後生なんか願う前にあなたはとっくに極楽浄土を味わっているでしょう? さっきはこの私のドジっ子メイドを見れて、今はこの私が腕に縒りをかけて作ったラーメンを食べさせてもらえるんだから」
これはさっきのメイドに関したいざこざの仕返しか!
「さぁ旅立ちの時間よ。……いってらっしゃい」
「黄泉の国は嫌だぁ――――――――――――!!」
その叫びは空しく響き、無理矢理麺を飲み込まされた俺の意識は間もなくスープの色と同様にブラックアウトし――そうになったところで、どうしてか現世に繋ぎとめられた。
「…………?」
繋ぎとめたものとは――香り。
黄泉平坂を登りきろうとしていた人間を現世に引き戻すほど強烈な、それでいて心休まる香りが漂ってきたのだ。
何とも落ち着く香り。
見える。見えるぞ。主人の身体のことを考えて、気遣って、真心込めて手料理を作る奥さんの幻影が。
その奥さんのシルエットは、
「あ、あの……ミオの、出しても……いいですか?」
保宜ミオ、その人なり。
香りからだって分かる、この思いやり。食材の色を殺さない優しい色使い。見るからに人体を害するものなど何一つない。
里芋の煮転がし、ワカメと豆腐の味噌汁、鯵の開き、ほうれん草の胡麻和え、鶏肉のソテーに椎茸やきくらげなどキノコ類をふんだんに使ったあんかけ風ソースを掛けたもの。
そして、白いご飯。
確かに目立ったものはないかもしれない。しかし、そのバラエティに富んだ献立はそれだけで一目置くに値する。三十分という短時間で、六品も揃えた保宜の家事力は否定するところなどないだろう。
「健康料理の鉄則『まごはやさしい』を基本に、鶏肉で動物性タンパク質、お米で炭水化物も摂れるのですね」
フレイ氏の専門家っぽい御託を無視して一口食べてみる。するともう手は止まらなかった。
時間が経つと味が落ちる料理もあるだろうに、その不利にも関わらず今回の出来。文句の付けようもない。
あっという間に全品を平らげて他の審査員を見てみると、皆が同様に満足そうに笑んでいた。高木兄などは感涙に噎びつつ、まだ名残惜しそうにチマチマと胡麻和えの胡麻を摘んでいる。保宜の手料理を食べられたことももちろんだが、そこには味への感動ももちろんあるはずだ。
どうやら今回も、審査員の意見をすり合わせる時間はいらなそうだった。
「皆さん、お疲れ様でした。それではこれから審査員での最終選考会議を開く……ことになっていたのですが、その必要は無いようですね。既に審査員の意見は一致しています」
女子四人が揃ってごくっと喉を鳴らす。……うち三人は、そんな必要無いはずだが。
「天鈿女尊は……………………や――」
「あたしだな!」
「私よっ!」
「この私ね」
馬鹿かコイツら。
「あ、あの! 今先生『や』って言いました『や』って!」
保宜の事実に基づく指弾に対して、ちづるさんがさも気の毒そうに、
「大丈夫、ミオ? あなた、持病の病弱体質が祟ってとうとう聴覚に異常が……」
「出てませんっ! それに病弱なこと自体は病気じゃありませんっ」
「栄養学科に属しているのに病弱とは情けない。それに栄養学など学ぶのは、まず食材を生産する農家の人の苦労を知ってからにすべきだ」
「学科批判は止めて下さいっ! ミオを貶める以上に問題あると思いまっ……けほけほ」
「そうやって儚げな雰囲気出して男子の同情誘うとか、女として手段が小癪なのよ!」
「ひ、ひいぃ! この人怖いですっ!」
「さてはそうやって私のこと怖がるのも確信犯ね! なんて狡いのこの女!」
いや、本気で怖がってるっぽいぞ。男の俺から見てもその般若の形相は背筋が震えるくらいだからな。
次第に四人は固まり始め、遂には保宜を三角形に囲う形で陣形は固定された。
これはつまり、イジメの図だな。
「ミオちゃん、興奮しないのよー。向こうで一緒にお花でも摘みましょうねー。この時期だときっとコスモスとか咲いてますよー」
「コスモスが春に咲く国は日本じゃありません! ミオをどこに連れて行く気ですか!」
「大体、病弱とかを言い訳にして運動を避けるその根性に問題がある。今度就農体験にお前も連行していくことにしよう」
「そ、それは何とも反論しにくいですが……。って、もう話がずれてます。ていうか、もっと前から話はずれてました!」
「そうまでして天鈿女尊になりたいのかしら。なんて浅ましい女!」
「話しは戻りましたけど、物凄く釈然としないこと言われてます。むしろその言葉を受けるべきなのはミオじゃなくて皆さんですよ!」
「ここに来て責任転嫁? だめね、もうアンタの性根は先の先まで腐りきってるわ」
「う、うわあああぁぁん! この人たち理不尽ですぅぅ!!」
「ねえミオ。女子が泣けば全て丸く収まる時代は、もうとっくに過ぎ去っているのよ」
「安易に泣くなど弛んでる証拠だ。今度就農体験に……」
「アンタみたいな女がいるから、女の涙の価値が暴落するのよ」
「ねぇ皆さま、さすがにミオ様が可哀想じゃありませんこと?」
「いや、せっかくだからこの機会に全てを言っておこうと思う。その方が彼女のためだ」
「そうよミオ。この苦難を乗り越えることで、あなたは一歩前進するのよ。女として」
「ですけれど、この会の意味を考えると、いつまでも彦名様を待たせるのもどうかと」
「それはそうだけど! でも今のうちにこの女を矯正しておかないと、そのうち男子に被害者が出るわ!」
「そうですか。それでは私が天鈿女尊の役を頂きますわね。どうやら皆さまはあまり興味が無いようですし」
「「「……は?」」」
……いや、気付けよ。もっと早く。
俺なんて何か知らんが急にファーストネーム呼ばれてドギマギしてるってのに。
いつしか話は保宜のパーソナリティ批判になっていて、それで罵言を言われるのは保宜にとって全くの筋違いだ。そこは大いに非難されて然るべき。
しかし、最も大きくツッコむべきなのはそんなことでないのは明々白々。
この場に第三者の声が混ざっていたことだ。
聞き慣れない女の艶やかな声。本来の日本人には決してあり得ない奇妙なお嬢様口調。
皆が声の発生源を特定しようと目を走らせるが、それらしい人影は見当たらない。そんな中でフレイ氏が額に手をあて、何やらあちゃーとでも言いたそうな仕草をしていた。
「全く、人前では喋るなって言ってあっただろう?」
そして、こう言ったのだ。
それこそが謎の声に語りかけるものだとすぐに気付いた。やけに親しげなのは置いておいて、どこからその声が聞こえてくるのか耳を済ませていると、何とその出所は――
「ですけど私、もう我慢できませんの。何度も救っていただいたこの命ですもの、彦名様に私という全てを捧げないと気が済みませんわ」
――俺の膝上にいる、シュールだった。
「シュ、シュール!?」
「はい、彦名様」
シュールは膝から降りて、こちらを見上げながら嬉しそうに俺の名を呼んだ。
……やはりまだ『麺・イン・ブラック』の影響が俺の脳内に残っているらしい。遂に豚が喋りだす幻覚まで見始めてしまった。
確かにこれまで、シュールがまるで人語を解しているんじゃないかと思わせるような反応をすることはままあった。しかし、よりによって豚が人の言葉を喋るなんてファンタジーがこの世に存在するはずが無い。存在してはたまらない。
どうやら俺はちづるさんの魔手に掛かって意識を手放してしまっていたのだ。そこからずっと、今まで夢を見続けていたに違いない。
賑やかで、楽しい夢ではあった。でも、夢なら覚めないといけないよな。早いとこ、豚が喋りだすこの幻想世界から抜け出さなくては。
さあ、目覚めの時間だ。
「どうしましたの、彦名様? 急にお黙りになって」
「いや、ちょっとな。不思議な夢を見ていたんだ」
「はぁ、どんな夢でしたの?」
「それがな、豚が喋るんだよ」
「まぁ、それは素敵な夢ですわね」
「でも実際に豚の姿で喋られると、微妙なものがあるぞ。豚が器用に口元動かして人と同じような喋り方するんだから」
「そうでしたの。この姿はお気に召しませんでしたのね?」
「ああ…………って、え?」
瞬間、目の前に太陽が現出したような強烈な光源が発生した。驚いて椅子を蹴倒しながら立ち上がると、その膨大な光は容赦なく目の前にいた俺の網膜を焼き、光が収まった後もしばし視力を奪う。
ちかちかする目を指先で揉んでいるが、まだ視界は回復しない。
一体何が起こったのかも把握できていないまま立ち尽くしているのも心もとなく、とりあえず誰か近くにいる人と接触しようと両手を前後左右に動かして周囲を探る。
と、右手が何か大きくて柔らかいものに触れた。
「あん」
「…………」
俺は知っている。ラブコメの主人公ともなると、この反応を聞いた上でそれでもその柔らかい何かを揉み続けるということを。そこに背徳感や倫理観なんて言葉を使うのは全くのナンセンス。あるのは条件反射という言葉を免罪符とした、男子の情欲に忠実であろうとする確信犯的な行動意識のみ。
しかし。そんな行動が出来るのは、その行為が『もう、バカッ』程度で済まされるラブコメという土俵があってこその話なのだ。
それを理解しているからこそ、俺は真っ先にその手を引こうとした。
ところが、その手は意に反して動かなかった。断じて言おう、これは俺の意志によるものではない。
「もう、我慢しなくてよろしいのですよ?」
声の正体のものであろう手が、俺の手首の辺りをがっちり掴んでいたのだ。さらに、あろうことかその手は俺を引っ張り込み、その色々な意味で抗いがたい力に身を任せたままにしていると、急に――
「…………!」
頬に、柔らかい感触があった。
「ふふ、本番は他の時に取っておきましょう。どうせならロマンチックな場所で、お互いの顔を見ながらしたいですもの。ね、彦名様?」
その甘ったるい声を聞きながら、俺はしばらく放心していた。
やがて視界が戻ってきた頃、俺はまだ茹だったように朦朧としている頭に活を入れ、あの柔らかな感触の正体を探した。
それはすぐに見つかった。
そりゃそうだ。俺のすぐ横、肩同士があと数ミリで接しそうなくらい近くに、その人肌らしい熱源はあったのだから。
その体温の持ち主は、会ったことの無い外人女性の姿をしていた。いや、現世では会えないだろうほどの神掛かった美貌をした女性、と表現した方が的確かもしれない。
心臓が止まる。比喩ではなく、本当に一瞬は止まっていた気がする。
外人なんて誰も皆同じに見えると思っていた俺をして、この人の姿はいくら時を経ても忘れられそうにない。それくらい綺麗な人だった。
黒いワンピースドレスの大きく開いた胸元やスラリと長い手足の、目に痛いほどに白い肌は間違いなく黄色人種たる日本人に発現する形質ではない。更にはコレこそが本物だと納得させられる艶を持った金髪が膝裏くらいまで伸びていて、またそれが彩る白皙の顔は丹精込めて造られた西洋人形の如く精緻極まる造形だった。
黙っていたら、すぐにでもこの高貴な女性に頭を垂れてしまいそうだ。
だからここで、当然の疑問を発しようと思う。
「…………アンタは、誰だ?」
「シュールですわ。彦名様」
「…………シュールって、俺は豚しか知らないんだが」
「だから、私がその豚さんでもあったシュールですわ。あの姿がお気に召さないご様子だったので、本来の姿に戻りましたの」
「…………」
はは、何だ『本来の姿に戻った』って。それではまるで、あの丸々太った豚がこの現実離れしたレベルの綺麗なお嬢さんに変身したみたいに聞こえるではないか。
全く、人をからかうのも大概にして欲しい。
とか考えていると、その疑念が表情に出ていたようで、フレイ氏が仕方なさそうに苦笑しながら、俺を見ていた。
「何を驚いているんだい? 君たちは、この子の変化なんて足元にも及ばないほどの非現実的な現実の中にいるだろう?」
こちらに歩を進めながら、続ける。
「世界趨勢決定会議、異次元『第十三層』、神々の世界『神界』。信じる信じないは別にしても、こんな馬鹿げたものを追っていた君たちが、今さら驚くほどのことじゃないさ」
自分で言うか、それを。
フレイ氏は女性の傍まで行くと肩を軽く叩く。俺だったら触れることすら無礼だと感じてしまう、その肌理細かい肌に遠慮なく触れる。
「さあ、シュール。見せてしまったんならしょうがない。改めて皆に自己紹介を」
「はい、お兄様」
何ですと?
「この姿でお会いするのは初めてですわね。私、豚のシュールとして皆さんと一緒に行動しておりました、こちらにいるフレイの妹、フレイヤと申します」
「フ、フレイヤだと!?」
「はい、御厨様」
瞠目した先輩は、それからフレイ氏を睨む。
「……どういうことです?」
「いやー、僕がこっちに来る時、フレイヤもどうしてもって付いて来たがってね。この姿のまま来ちゃったら大騒ぎになるだろうからと思って、豚に変身させておいたんだ。仮にもフレイヤは北欧の美の女神だからね」
そのふざけたような物言いに先輩は目を眇める。
「……騙していたのですか。あたしたちを」
「心配しないで欲しい。この子は特に上の思惑とは関係ないよ」
「フレイとフレイヤ……北欧の中でも有名な二人が共に日本に来ている。それにこれまでフレイヤが姿を偽っていたことも、あまりこちらとしては良い印象を持てないのですが」
これは、これまでとはうって変わって声を低くした高木さんの台詞だ。
「最初の方の解答、僕らは兄妹なんだよ。他意はない。そして後の方の解答、さっきも言った通りこの子は北欧の美の女神だ。でもこの子はまだ半人前でね。ブリーシンガメンの制御もできないのに人の姿を取っては、下手をすれば日本人口の半分がウチの妹に傅くことになってしまう。それは君たちにとっても不都合なはずだ。そうじゃないかい、高木朔耶さん?」
「…………っ」
「それに、向こうでの生活は君たちの想像以上に退屈なんだよ。時に退屈というものは神さえ殺す。それを理解してくれるとありがたい」
「…………」
先輩と高木さん、フレイ氏の三者間で交わされる会話は他のLDK同好会員にとってはチンプンカンプンな内容で、皆して首を捻る。しかしフレイ氏が何かしらの規約違反のようなことをし、先輩がそれにキレている、という状況は何となく理解できた。
先輩も高木さんも、そのフレイ氏の言を受けて追及の矛を収めたようだ。まだ納得いかないようにブスッとしてはいるものの、口を開く気配は無い。
どうにか最悪の展開は回避されたようだ。
シュール改めフレイヤさんは、この状況を変わらぬ笑顔で見つめていた。それは三者の危うさをも包み込まんとしているような、超然としたもの。
こうして見ると、兄妹だけあって確かにフレイ氏と似ている気がする。顔の作り以上に柔和な雰囲気が酷似していると感じた。
それにしても、さっきのフレイ氏の話を聞いていて、一つ疑問が浮かんだ。本筋には全く関係ないが。
「シュ……フレイヤ」
「どちらでも構いませんよ。彦名様の呼びやすい方で呼んでください」
「それじゃあ、シュール」
「はい、何でしょう?」
「豚の時は、どうしてシュールって名前だったんだ?」
「豚さんだからですよ」
は?
「フレイヤは北欧神話でシュールとも呼ばれているのですが、このシュールというのは古ノルド語で豚という意味なんです」
それじゃあ俺は今まで、この人のことを『豚、豚』と呼んでいた訳か。
それはきっと女子にとって、尻軽以上のNGワードに違いないのに。反省。
「……何かスイマセン。シュールシュール言いまして」
「ふふ、大丈夫です。私はこの名前が嫌いではないので。お気になさらず、彦名様」
そいつは良かった。
「なら、そもそもどうして豚なんだ?」
「フレイヤは北欧神話の神々の中でも子孫繁栄のために信奉する女神でもあったんです。そのため、繁殖力の強い豚という動物の名前が別名として付いたんだと思いますよ」
「へぇ…………え?」
ん、ちょっと待て。今さらながら、とある疑問に行き当たった。
「アンタの名前は、フレイヤ」
「シュールでも構いませんわ」
「で、その神話の女神様の名前も、フレイヤ」
「シュールでも構いませんわ」
「さっきアンタ……変身、とか……したよな?」
「はい、しました。豚さんからこの姿に」
「……今から、物凄い失礼かもしれない質問してもいいか?」
「はい、何なりと。彦名様」
「あなたは人間か?」
「いいえ、神ですわ」
「…………」
これは笑うところだろうか。
やはりこの人はシュールだ。こんなに真顔で、人間の真顔で『神ですわ』なんて言われたら、シュール過ぎて困る。
でも、どうしても笑い話で済ませることができない。嘘だと断じることができない。
もし今の『神ですわ』発言がジョークだとして、あの豚からこの見目麗しいお嬢さんへのメタモルフォーゼをどう説明したらいい? やはりどうしてもそれは人知を超えた怪現象としか言いようがない。
つまり、この人は――
「か、神様ぁ!?」
「? 何を驚いてらっしゃるんです?」
「オウ、マイガッ!」
「え……? は、はいっ。私、彦名様のために一生懸命頑張ります。不束者ですが、どうぞよろしくお願いしますっ」
「……、……何を言ってるんだ?」
「え? だって今『ああ、私の神様』って英語で言って下さったじゃないですか。これって、慎み深いことで有名な日本人男性のプロポーズですよね?」
「この言葉を直訳して、しかも言葉通りの意味に受け取る人を初めて見た! しかも妄想逞しい自己解釈!」
「うんうん。早速いちゃいちゃしているね、君たち」
フレイ氏が俺とシュールの肩に手を回してきた。
それから言ったのは、今日これまでの諍いにケリをつける言葉だった。
「天鈿女尊に選らばれたフレイヤが、猿田彦たる佐田君とイチャイチャした。ということはこれで、あの演習林の中にあった社の扉も開かれたはずだ」
「あっ。ちょっと、どういうこと? 結局あの選考会はどうなったのよ!?」
「ああ、と。そうだった。それを言うのを忘れていたよ。いやー、朔耶さんや他の皆さんの頑張りはとても素晴らしかったんですけどね、こうして佐田君がウチの妹とイチャイチャしちゃってどうもお上も御納得されたらしい今、もう必要ないかな……って、……思ったん、だけど……………………ご不満?」
「当たり前でしょご不満よ! 大体なんで勝手にフレイヤに決まってるのよっ!」
もっともだった。
「今回の選考会では、審査を通じて一番最初に佐田君の肌と接触した女性が天鈿女尊の役を担う、という取り決めになっていたんだ」
何だか罰ゲームみたいな品のない条件だが、やはり誰との取り決めかは聞かない方がいいのだろうか。
「その作業を選ばれた女性との熱い抱擁プラス接吻という形で決着させようと思っていたんだけど……、どうやらそれを待たずして佐田君がウチの妹に触っちゃったみたいだね。妹のグラマラスボデーを見て我慢できなくなっちゃったかな。はっはっはぶへ!」
「笑ってんじゃないわよっ、この怠慢教師!」
「お、お兄様!」
高木さんにドロップキックをお見舞いされたフレイ氏に駆け寄ろうとしたシュールだが、その前に高木さんにズビシッ! と人差し指を突き付けられた。
シュールはそれにビビッた様子で、身体を硬直させてしまう。
「だいたいアンタは日本人ですらないでしょうが! 日本神話の神様なのに、野蛮な北欧人がそれをやるのは無理があるわ!」
「そ、それは大丈夫じゃないかな」
復活早いなフレイ氏。
「フレイヤといえば、北欧の世界でもちょっと名の知れたエロ女神だ。桶の上で胸をはだけながら踊ったという伝説が残っている天鈿女尊の代役としては申し分ないだろう」
「あ、あるわよ!」
「でも残念ながら、お上は申し分ないと言っているようなんだ」
「さっきから思ってたけど『お上』って誰なのよ!」
「君も知っている人だよ」
「……え?」
それっきり高木さんは黙りこくり、フレイ氏も高木さんから顔を逸らした。
「他の人も、何かあれば聞くよ?」
「…………扉が開いたのなら、文句は無い」
「え、あ、ええ。私も特にないです……、…………あの女は少し気に障るけど」
「何だか今日一番被害を蒙ったのはミオな気がします……けど、はい。大丈夫です。………………でも、何でしょうか、ちょっと残念です」
「そう、良かった」
とか言いつつ、良くない雰囲気がぷんぷん漂って来るんだが。
「それじゃ、今日はこれでお開きにしよう。それで明日は土曜日だけど、皆予定は空いているかい?」
「ああ、空いている」
「私も大丈夫です。……あの女を絞めるのは来週にしますから」
「ミオも空いてます。………………けど、本当に何なんでしょう、この心残り」
大丈夫だろうか。果てしなく不安だ。
「佐田君は?」
「あ、はい。俺も大丈夫です。明日来れます」
「よし。それじゃあ明日の朝十時に会室に集合しよう」
フレイ氏が笑顔で締め括る。
「遂に明日は『神界』に突入だよ。皆、お菓子は千円までだから注意して」
仮にも日本の将来を決めるはずの大仕事を遠足みたいに言うな。しかもおやつ代高っ。
ともあれ、このどんちゃん騒ぎのお陰で、どうやら新たな道は開けたらしい。何だか危機感など微塵も無くただ遊んでいただけのような気がしなくもないのだが、これでいいなら万々歳だ。
きっと、どんちゃん騒ぎで開く扉もあるだろう。
天照大神が隠れたっていう岩戸みたいに。
「……我々、忘れられているよな」
「……そうですね、高木先輩」
「今日、共に夕餉でもどうだろう、加藤後輩」
「はっ! お供します、兄!」
妙な関係が生まれつつある男二人は見ないことにした。