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世界趨勢決定会議やら第十三層やら、挙句の果てに神様やら神界やら、妄想の産物としか思えないワードが先輩の口から飛び出したのは、今から十八時間ほど前のこと。
ただ今の時刻、午前八時。
昨日はあの後すぐに解散となり、それから構内を歩き回る気力も無かった俺も、すぐさま家路についた。
『明日の朝、授業前に探そう』という約束を、ちづるさん、保宜の二人と交わして。
その結果として、俺はここにいる。
目に心地いい細かな木漏れ日を落とすメタセコイヤの梢の下。直径七十センチ程はあるその太い幹を囲むようにあった丸い木製のベンチに腰掛けて、俺たちは昨日のヒントを吟味していた。
とは言いつつ、吟味するほどの深みも無いのだがな。
「とりあえず『社』の話は置いておきましょう。そんなものが構内にあったら目立つはずなのに、一向に見つかる気配もなかったし。失礼だけれど、これは斎都姫姐さんのヒントの方を疑うべきな気がするわ」
話を切り出したのはちづるさんだ。
「同感」
「同じくです」
この三人だと話が早い。
「だとすると、目下考えるべきは『三』の方、なのだけど……。…………ねぇ」
「『三』だな」
「はい。『三』です」
「『三』なのよね」
話が早いのはいいのだが、どちらにしろ進展は無いに等しかった。
このまま早朝の語らいで終わらせるのも健全な大学生一年生としてはいいのかもしれないが、それでは早起きした割にあまりにも収穫が無さ過ぎる。
美少女二人との談笑、という構図で見るならば、男として相応のリターンは頂いているのだろうが、女子二人に同様のメリットを返せているかというと、俺としては及び腰にならざるを得ない。
そうなれば、本来の部分で収穫を得なければならない訳だが、
「とりあえず……そうね。『三』から連想するものをどんどん挙げていくというのはどうかしら? ブレインストーミングって、あれ」
「お、いいんじゃないか?」
ちづるさんが提案してくれた時は即乗りだった。
「ミオも賛成です」
やはり話が早い。
「それじゃあ始めましょうか。私から時計回りで行きましょう。『三角』」
「次は俺か。そうだな……あれ、なんか意外と少なくね?『三』から連想するものって。三角以外に何か…………『三々五々』?」
「そ、それはありなんですか? それじゃあミオも『三拝九拝』ですっ」
「貴女らしいわね、ミオ。それにしても何よ二人とも、四字熟語なんて固い言葉並べちゃって。私は『三』から連想することって言ったのよ。『サイン』」
「はい先生!」
「何かしら佐田君」
「それは『三角』から連想したものであると思われます!」
「あら、文句ある?」
「ございません!」
「ふふ、そう。なら続けてちょうだい」
「かしこまりました!『コサイン』!」
「そ、その流れならこれを言ってもいいんですよね……?『タンジェント』」
「やるわねミオ。なら私はコレよ。『三角巾』」
「……早速で悪いが、意味、あるんだろうか?『三角州』」
「そうですね。ミオも不毛な感じがしてきました。『三角江』」
客観的に俺たちを表現した保宜の一言により、三人は同時に溜息をついた。
「そもそも『三』だとか『社』だとか、ヒントとして成立していないのよね。これじゃあ答えが限定されるどころか、私たちを混乱させる効果しかないわ」
「全く――」
……ん?
今、ふと何かが頭の片隅に引っ掛かった。
靄に包まれたように朧で、掴もうとしてもスルリと指の隙間から逃れてしまう。
そんな、記憶。
『三』という数字と『社』という場所。この二つを繋げることができるものを、俺は何か知っている気がする。
何だ? それほど色褪せた感覚じゃない、むしろごく最近の記憶。この大学に入学してからの二日の間にあったことで間違いない。
思い出せ。予感なんて言って期待を持たせるつもりは無いが、それは俺たちが捜し求めているものにかなりの確度を持って近い気がする。
思い出せ。
入学式の日。先輩に藁束を渡され、高木さんや高木兄、虎之助、更にはちづるさんや保宜、フレイ氏に出会い、最終的に酒を飲まされた挙句、千鳥足というものを初めて経験して家に帰った。
……外れだ、この日は。
だったら昨日。入学二日目だ。この日は園芸学科の授業開始初日であり、また高木晴香の恐怖に慄いた日。
――授業。
――高木晴香。
「……そうだ」
「? どうしたの?」
「えっと……聞こえてないみたいです、佐田君」
その高木晴香が一時間目の教室にやって来て、俺たちに何をやらせたか。
探検と称した構内散策だ。
幾つかチェックポイントを設けられ、そこを回りながら構内を見学するといった趣旨のものだったが、その時のチェックポイントの数――三。
そして、その三ヶ所それぞれで見つけたもの――祠。
「それに――」
俺は鞄からアレを取り出した。
「それ、何?」
「……御札」
「随分オカルティックなもの持ってるのね。そういう人だったかしら、あなた?」
「しかも三枚。構内に三つあった祠から貰ってきた」
「…………何ですって?」
「それって、ビンゴじゃないですかっ! ……う、けほっ」
そう。あの病弱で大人しい保宜が興奮して大声を出してしまうくらいに、ヒントど真ん中のアイテムを俺は所持していたのだ。
どうして今まで気付かなかったのか。
『三』と、そして『社』。
ヒントを思い返し、皆で頷き合う。
手始めにこの三枚の御札から調査を始めることを、二人も了承してくれたようだった。
「ちょっと見せてもらえる?」
ちづるさんに三枚の御札を手渡すと、それから彼女は口を真一文字に引き結んで観察し始めた。そのようにじっくり見たことは俺にもまだない。
「奉納・稲荷大明神……。やっぱり『社』とも関係ありそうね」
古びた御札の表面に鮮やかな朱で書かれた文字を、指でなぞりながら読み上げるちづるさん。その通りの文字列が、三枚とも同様に記されていた。
「でも、どれも同じに見えるわね……」
不満そうに三枚を正面に並べて見比べる。でも、そうしたところで明確な違いは見て取れなかったようだ。落胆したように溜息を落とした――その時。
保宜が「あっ」と声を上げた。
「裏にも何か書いてありますよっ」
「何ですって?」
逸る心を抑えたようにちづるさんが慎重な手つきで御札を裏返すと、横から俺と保宜もちづるさんの手元を覗き込む。
するとそこには、
「『豊受大神』……?」
「こっちには『倉稲魂神』と書かれているわ」
「これは『保食神』です」
三枚ともに別の何かの名前が三種類、明記されていた。
「何かしら、これ。最後に『神』って文字があるのだからまず間違いなく神様の名前だとは思うのだけど」
「そうですね……。でもミオ、その辺りには明るくなくて……」
そんな申し訳なさそうにしなくてもいい。同年代でその辺りに明るい人間なんて、きっと一握りだ。ここに集まっている三人の中に一人もいないのだから、少なくとも『日本人の三人に一人』という確率ではなくなった。
なんて言い訳をしてみても、知識のない俺たちでは手詰まりなのは変わらない。
ぎーん……ごーん……。
一時間目開始の予鈴も鳴り、これ以上続けるわけにもいかなくなった。
今のモヤッとした状態のまま終わってしまっては、消化不良で授業に集中できなくなりそうだな。
答えの出ない問いに唸っていると、唐突にちづるさんが訊いてきた。
「二人の今日の講義予定は?」
「? 四時間目までびっちりだけど」
「ミオもです」
「そう。私は二限目が空くのよね。それからまた三、四限に授業があるの。全く、ふざけた時間割。責任者に抗議したくなるわ」
愚痴を言いたかっただけなのだろうか。
「まぁそれは後にして」
違ったらしい。でも『後にして』ってフレーズが気になるぞ。
「私がその空いた時間に、今の神様の名前を調べてみるわ」
「調べるって、どうやって?」
「大学なんだから、自由にネット使えるパソコンくらいあるでしょう」
「なるほどです」
そうだ、自分たちの知識で足りないなら、インターネットという膨大な情報量を蓄えているデータベースから必要な知識を頂けばいいのだ。
全く、便利な世の中になったものだ。
「でも、二人も携帯とかで休み時間に調べてもらえると助かるわ」
こんな建設的な意見に、異論などあるはずもない。
「ああ。了解」
「分かりました」
「それじゃあ今は解散にしましょう。また放課後、LDKの会室で」
そうして俺たちは各々、講義のある教室へと向かっていった。
目の下に隈など作ってゲンナリしている高木さんに絡まれそうになったり、なぜか嬉しそうに弛緩した笑顔を浮かべる虎之助が何かを訊きたがって欲しそうにしているのを、どうにかこうにかかわし切り抜けると、いつの間にか四時間目までが終了した。
どういう理由か、今日聞いた講義内容が全く頭に残っていないが、きっと今は知識の潜伏期なのだ。俺ほどになれば必要な時に思い出せるのだろう。
ノートに何も文字が書かれていないのも、無意識の内に洒落を利かせた俺が炙り出しにする細工でも施したに違いない。
そんな俺の手元には『豊受大神』『倉稲魂神』『保食神』についての情報が書き込まれたルーズリーフがある。もちろん自分で調べたものだが、休み時間はしっかりきっちり休んでいたはずなのに、一体いつ調べたんだろうな。
なんて小粋なジョークで結局集中できなかった講義担当の先生への懺悔としていると、LDK同好会の会室に到着した。
「うーっす」
「やっと来たわね、佐田君」
「一番最後ですよ」
「スマン。どうも無意識の内に抱いた罪悪感が俺の足を鈍らせたらしくて」
「? 意味分からないわよ」
「何か悪いことでもしたんですか? ミオ、ちょっと幻滅です……」
それはいけない。
「ただ、ちょっと為すべき事項の優先順位に迷っただけだよ。学生の本分とは一体何なのか、ってな」
「はぁ、そういうこと。私としてはありがたいけど」
「え? ちづるちゃん、分かったんですか?」
「『学生の本分』の辺りで分からない方が微妙だと思うわ、ミオ」
「『学生の本文』……現代文の授業で失敗でもしましたか?」
「ごめんなさいね。この子、こういう子なのよ」
「な、何ですかちづるちゃ……っこほげほ」
「あーはいはい。興奮しないのよーミオちゃーん。一緒にお歌でも歌いましょうかー。そうねぇ…………デスメタとか、どう?」
「う、歌わないです……というかそのチョイスは無いと思います」
「そう、残念ね」
「満足したか、漫才には?」
「し、失礼ですよ佐田君っ。ミオたちそんなつもりありません」
「ええ満足よ」
「そうか。それじゃあ始めるか」
「…………」
こちらに背を向けた保宜が翳を背負ってうな垂れているが、しばらく放っておけば復活するだろう。
てな訳で早速、成果報告会を執り行うことにした。
「まず私からいきましょう。それで後から足りないこととか、気付いたことがあったら付け足してちょうだい」
「分かった」
「…………」
僅かの間を空けて後姿の保宜も頷いた。
ここから、ちづるさんが調べてきた内容である。
「私はまず稲荷大明神から調べていったの。それで、これには私も驚いたのだけど、稲荷神っていう神様って厳密にはいないらしいのよね。そこで出てきたのが、あの御札の裏に書かれていた神様の名前だったのよ。穀物の神様である倉稲魂神や食物の神様である豊受大神とか保食神を総称して『稲荷神』って、そう呼ぶらしいわ。で、そこから調べを進めていったら、気になることが結構挙がってきたのよね。倉稲魂神が祭神として祀られている伏見稲荷神社に配祀されているのが日本神話で道案内をした猿田彦って神様だったり、保食神が古事記では素戔嗚尊に、日本書紀では月読尊に殺されていたり、豊受大神が日本神話の最高神である天照大神を祀っている伊勢神宮の外宮に祀られていたり、あとは…………そう。この農大が、その豊受大神を信奉している、ってこと」
そして、ちづるさんは満足そうに一息ついた。
「どうかしら?」
「……文句無し」
「右に同じです」
本当に文句の付けようもない。というかむしろ、俺が調べてきた内容プラスαどころかβにγまで加えられてる感じだ。
俺が調べてなかったこと。
そう。例えば――猿田彦のところとか。
ここにきて、また『猿』というワードが出てきた。昨日高木兄のセリフ回想で聞いて以来だが、そのセリフの中ではまるで、俺がその『猿』だとでも言うような口ぶりだった。
しかもその猿田彦とやらが神話の中でやったのは道案内だと?
この符合は、一体どういうことだ。これじゃあまるで――
「ご期待に沿えて良かったわ、佐田君」
――俺がその猿田彦だとでも言わんばかりじゃないか。
「あと、これは余談だけど」
と、ちづるさんが付け足した。その際、どうも俺を見ていた気がする。
「猿田彦って、佐田彦神とも呼ぶらしいのよ。…………どう思う?」
「……、……偶然だろう」
「それに私の苗字、稲倉っていうのよね」
「……」
「ミオの苗字にも『保』の字が入ってるし」
「…………」
「豊受大神って天照大神に献上する神饌の料理を作ってたらしいのよ。で、それを作るための台所みたいな場所のことを『御厨』って呼ぶんですって」
「………………」
「そして私たちが揃って入学したのが、この農業大学」
「……………………。……つまり何か? お前は、俺たちが神様の生まれ変わりだ、とでも言いたいのか?」
そう返した時のちづるさんの反応を見たときは、手を上げようかと本気で悩んだ。
心底バカにするように口をひん曲げて愚弄してきやがったのだ。
「はぁ、何言ってるの? ある訳ないじゃない、こんなに科学の発展した世の中でそんな非科学的なこと。馬鹿なの、佐田君?」
「……っ」
我慢、我慢だ。それは男として絶対やってはいけないことの一つに数えられている。
そう自分に言い聞かせ、知らず知らず持ち上がりそうになる右手を左手で必死に抑えつけた。
「……、…………だったら何が言いたかったんだよ?」
「だから初めに言ったじゃない、余談だって。ただ単に面白いって、そう思っただけよ」
「……そうかい」
これはさっさと切り上げて、本筋に戻った方が賢明だな。
「それで、この調べた内容から扉の場所は分かったのか?」
それこそが俺たちに与えられた課題だし、これが果せなければ結局、調べてきた意味がないのだ。
しかしながら、ちづるさんから返ってきた言葉は、俺を無情に突き放すものだった。
「何を言っているの? 最終的にそれを見つけるのはあなたの仕事じゃない」
手伝うと言っていたのはここまでで、どうしたって最後は俺なのね。
まあ確かに元々そう言われていたからいいけどもさ。それでも何だか腑に落ちないものがあるな、この扱い。
「ふふ、怒った?」
「怒ってない」
「怒ってるじゃない。でも許して。女って、好きな男を振り回したがる難儀な生き物なのよ。それでも最後の手柄は背の君に譲るっていう、この貞淑さに惚れ直して欲しいわ」
「そもそも惚れてないから安心してくれ。俺が君に抱いているのはラブの方の愛情なんかではなくピティの方の哀情だ」
「あら酷い。私、悲しいわ。こんなにお慕い申し上げているのに」
「とてもそうは見えないな。そもそも会って三日しか経ってない男を慕う女なんてのは、遥か昔からこう呼ばれるんだ。尻軽、ってな」
「まぁどうしたことかしら。このボリューム満点のヒップが見えないの?」
「あーはいはい。分かったから尻を振るな、尻軽」
「佐田君佐田君」
と、ここで保宜が服の袖を引っ張ってきた。
「ん? どうした、保宜?」
「その辺りにしておいた方がいいと思いますよ」
「何が……って、ちづるさんとのコント?」
「コントかどうかはともかくとして、あんまり女の子に尻軽なんて言ったらダメです。例え冗談だったとしても」
思いの外、本気のトーンだった。
「そ、そうか。分かった」
俺も素直に頷いておく。
「それと」
「まだ何かあるのか?」
「ちづるちゃん」
横目にちづるさんを見るので、俺もそれに倣った。するとそこにはニコニコと満開の笑顔のままのちづるさんが立っている。
それを横目に、ひそひそ声で保宜が言ったのは、
「今のちづるちゃん、相当怒ってますよ」
「……完全に笑顔だが。それに、あれは初め向こうから仕掛けてきたんだぞ?」
「それでも尻軽はNGです。あと、こういう時は男性が先に折れないとダメですよ」
「……釈然としないな」
「世の中はそういう風にできてるんです。いつだって長生きするのは恐妻家の男性なんですから」
どこの統計だ。
しかしまぁ、このまま空気をギクシャクさせておくのも忍びない。
「すいませんでした」
不承不承ながら、しかしそんな態度はおくびにも出さず、慇懃に腰を折る。すると確かにどうだ。表情の険が抜けた……気がしなくもない。
「あら、それは何に対しての謝罪かしら?」
「これまでの俺の不適切な発言全てに対して」
「ふふ、そう。別に私は怒ってなどいないのだけど、許してあげようかしら」
これからが楽しみね、なんて呟きながら、今度は本気で陽気そうに顔を綻ばせている。いつもそうしてくれれば、こちらももっと取っ付きやすいというのに。
「それじゃあ話を戻しましょうよ。扉の場所の話だったわね」
「はい。……とは言っても、ミオには見当もつきません」
「そうね。それは私も同感よ。佐田君はどうなの?」
「正直、俺にもサッパリだ。さて、どうしたものか……」
言いつつ、鞄の中から例の御札三枚を取り出す。
それをテーブルに並べてみたりしたのだが、まぁ都合良くホログラム地図などが浮かび上がるなんてSF漫画的展開があるはずも無く、御札自体は神聖なものに違いないのだろうが、どうしたって素材は紙だった。
その時。
「やぁ皆、元気? 元気ないなら豚肉食べる?」
「ブ、ブヒィ……!」
何やら多くの荷物を抱えたフレイ氏がシュールを引き連れて会室へとやって来た。
フレイ氏が両手に抱えているのは分厚い本数冊に大判の紙を丸めたやつ一本。一歩を踏み出すたびに何やらジャラジャラと音の鳴るメッセンジャーバッグも袈裟に掛けた重装備だった。
まさかのフレイ氏の豚肉発言により縮み上がったシュールが俺の足に擦り寄ってきたので抱え上げると、よっこいしょと掛け声を掛けながら荷物を抱え直しているフレイ氏に尋ねた。
「何ですか、その荷物」
「あーいや、ちょっとね。これから僕が受け持っている講義の進行予定を立てようかと思って」
そんなもの生徒がいる場でやるな。それにこっちは切羽詰ってるって言うのに。
バッグと本を椅子に置き、丸めていた大判の紙を広げようとしたのかフレイ氏がテーブルの上に目を移す。
そして程なく、三枚の御札に目を留めた。
「ん? これは何だい?」
「先輩の『三』と『社』っていう、およそヒントとは思えないヒントから俺たちが血反吐を吐いて導き出した、新たなヒントです」
「へぇ、そんなものを見つけたんだ。でも、その割に浮かない顔をしているね」
「結局、扉の場所の『場』の字すら掴めないんです」
「そうなんだ。まあ、まだ探し始めて二日目だしね。期日が迫っているとはいえ、焦ってもしょうがないよ」
それも最もだが、俺としては急く気持ちを抑えられない。未だ思い悩みながら、テーブル上の御札をどかす。
するとそこに、フレイ氏が大判の紙を広げ始めた。
しかし、それはまた意外なもので。
「これは……?」
「この大学構内の地図だよ」
「どうしてそんなものを?」
「いやー、僕が担当してる講義が『環境影響学』っていうんだけど、ちょっと構内にいいサンプルになりそうな場所がないか探そうと思って。ほら、日射が遮られてる場所とか、植栽基盤が薄い場所とかね」
「は、はぁ」
あのいつも緩みきっているフレイ氏が真面目に授業のことを考えているとか、ちょっと印象が変わりそうだ。
地図に目を落としているちづるさんの様子を窺うと居たたまれないようでいて、でも少し興味もあるような微妙な表情をしていた。恐らく『環境影響学』という講義名からして環境学科の授業なのだろう。ちづるさんの反応から考えて一年生の授業に違いない。
あまり見慣れない表情をするちづるさんを、この際にとじっくり観察していたのだが、その時ふと何かを思いついたような、次いで呆れたような顔をした。
「ねぇ佐田君」
と、俺に視線を向ける。
「ん? 何か思いついたのか?」
「あなた、馬鹿なの?」
シュールを尻から顔面に押し付けてやろうかと本気で迷った。
「どうしてこんな当たり前のことを考えつかないのよ」
「……何だよ。やっぱり何か思いついたのか?」
「あなたはその三枚の御札を、構内に三ヶ所あった祠から持ってきたって言ってたわよね」
「ああ」
「だったら、そこで一番簡単で、かつ有力な『三』角が作れるじゃない」
「あ。そ、そうか……! 祠のあった三ヶ所を結べば、大学内でも範囲が限定される!」
「なるほど。ちづるちゃん、頭いいですっ」
「……。そ、それほどでもないわ」
保宜に素直に賞賛されると、若干頬に朱を散らしてそっぽを向いた。どうやら褒められるのは得意ではないらしいぞ。いいこと発見。
しかし、このことでちづるさんをからかうのは後にしよう。
今はともかく、ようやく目の前にチラついた餌に食いつくのみだ。シュールを床に下ろすと、俺は自分の鞄から油性ペンを取り出した。
「先生。この地図、ペンで書き込みしても大丈夫ですか?」
「構わないよ」
えらくすんなり許可が出た。
先生が上機嫌にOKサインを出したなら、こちらとしても遠慮する必要はない。
「えーっと……第一チェックポイントが、構内南西にあるグラウンドのベンチだろ。……んで第二が南東部にある四号棟の屋上。……最後の第三が北にある学食のカウンターの下で……それを線で結べば……っと。出来た!」
それを三人が覗き込んできた。
「すごい、ちゃんと三角ですっ」
「……でも、少し大きすぎないかしら」
「構わないだろう。こういう時の宝の在処は図形の重心と相場が決まっている」
「なるほど、そうですよね……って先輩!」
振り返ると、先輩が俺の背後にピタリとくっついて、テーブル上の地図を俺の背中から覗き込むようにしていた。
首筋に掛かった先輩の呼気からして、相当な至近距離だったはずだ。
どれだけ無防備な姿を晒していたのかを思い返すと背筋が震えだし、俺はすぐさま先輩から距離を取った。
「いつからいたんですか!?」
「君があたしとの愛を叫んだ時からだ」
「……さてと。なぁちづるさんに保宜。この三角形の中でどこだと思う?」
「無視は数多ある対応の中で最も良くないと思うのだが」
「そうね、やはり何だかんだで重心辺りじゃないかしら。相場がそう決まっているもの」
「さすがちづるちゃん。博識ですっ」
「遂に女子二人まであたしをいないものとして会話を始めたか」
「となると……この辺りか。おっ、ちょうど何もない空間があるぞ」
「構内演習林って書いてあるわね。こうして見ると結構大規模なのに、今まであることも知らなかったわ」
「ミオもです。あっ、それにこれ見て下さい。まるで演習林を隠すみたいに、学科の棟がいっぱい建ってますよ」
「済まなかった。そろそろあたしも混ぜてくれ」
「それじゃあ早速行ってみるか。先輩も一緒にどうです?」
「あたしはこの中でも最重要メンバーだと自負していたのだが、選択権があるのか」
「行かないんですか?」
「いや、行こう」
「よし。それじゃ、出発しますか」
そうして俺たち四人に付き添い教師フレイ氏を加えた五人は、会室を後にした。
ともあれ、これで少しは先輩も懲りてくれることを願う。
地図を広げながら棟と棟の間を縫うようにして進んでいくと、いきなり鬱蒼とした茂みに行き当たった。
大学構内の、丁度中心あたり。
濃い色の常緑樹の葉や落葉樹の薄い葉、またそれらの樹に区別なく絡みつく蔓植物によってほとんどの陽光は遮られ、地表面にはポツポツと小さな陽だまりが点在するだけだ。
蒸れたような空気が中から流れてくる。
普通の人なら足を踏み入れるのを躊躇うほどの樹海が、そこにはあった。
「……ここ、日本ですよね。アマゾンじゃなくって」
「……ええ。そのはずよ」
保宜とちづるさんが引き攣った顔で頷き合う。すでにして数歩後戻りしている。
しかしその横で、俺は何時ぞやと同じような圧迫感を味わっていた。
「…………」
そう。祠を見つけたとき、いや見つける前から感じていた、誰かにじーっと見つめられているような背筋の粟立つ薄気味悪さ。空気が冷え切って凍り、張り詰め、少しでも身体を動かせばあちこちから氷の割れるパリンパリンという音が聞こえてきそうな清冽さ。
それを今も感じている。
間違いない。ここにある。
「こっちだ」
「え、ちょっと佐田君!?」
「付いて行こう。きっと何かあるんだ」
真剣なフレイ氏の一言で、皆が俺の後を追って歩き出した。下草を踏みしめる音でその存在を確認しつつ、俺は進む。
この奇妙な感覚こそが『導き手』とかいう俺の証明なんだとしたら、昨日の先輩の話も信憑性が高まってくる。それほど俺にとって崇高で、かつ強烈な強制力を発揮してくる。
それにしても、心臓がさっきからうるさくて仕方ない。どうしてこうも忙しく早鐘を打ち鳴らしているのか。
「……ははっ」
自分を誤魔化すような思考に、我ながら馬鹿らしいと笑ってしまう。
……ああ、そうさ。そんなの自分でも分かっている。分かりきっている。
ワクワクしているのだ。この状況に。ただのドキドキではなく、ワクワクだ。
俺は、この林の中を進むその一歩ごとに胸を高鳴らせていた。
大学なんて一、二年は授業漬けで単位の獲得に躍起になり、それが十分に貯まってきたところで、今度は一生の生活を決める就職戦争に参加せざるをえず、しかも大学生活最後に待ち受けるのは卒業論文とか言う、どれだけ枚数書けばいいのかも分からない未知の恐怖対象だ。
そんなことを入学前から気にしていた賢しい俺は、大学入学にあたり希望どころか憂鬱しか持ち合わせていなかったと言っても過言ではない。
入学したその日に強制……いや違うな、自主的に入会したLDK同好会とやらは変人の集まりで、しかもそこの活動目的は変な会議に参加して日本の行く末を決めることなんて妄言としか思えないものだったり、おまけに俺は猿だ猿だと言われて軽く人格否定された気分になり、最終的には『導き手』なんて仰々しいものを拝命してしまった。
それなのに今の俺はもう、入学当初の憂鬱を毛ほども感じていなかった。
もちろんまだ入学して一週間も経過していない。これから幾度も憂鬱になる要因は訪れるだろう。
でも俺はその時、この農業大学に進学したことを後悔するだろうか。
もちろん、そんなの分からない。未来のことなんて誰にも分からない。例え自分自身の気持ちであっても。
ただ、一つだけ言えるのは。
――もしこの高揚があり続けるなら、俺はそうは思わないはず。
ということだ。
予感がするのだ。これはかなりの自信を持って言える予感だが、このLDK同好会にいればワクワクするイベントが絶えず、俺は退屈することなく日々を過ごすことが出来る。
そんな予感だ。
滅茶苦茶な人ばかりだが、それもいい。いつだって期待に胸躍るのは予定調和に流されている時ではなく、滅茶苦茶だが挑み甲斐のある未知と相対した時なのだ。
その手始めの未知が、今回の扉探し。
本当にあるとも知れない異次元世界への扉を探し出すなんてどう考えても馬鹿馬鹿しく、
――それでいて、これ以上に心躍るイベントも無いだろう。
嘘か誠かなんて関係ない。先輩たちから教えられた壮大なバックボーンに自分が関わっているというその実感で、俺は十分にワクワクしている。
俺は、自分で思っている以上に子供だったようだ。
まぁ正直、今では結構信じているんだけどな。
さて、この思考の間にどれだけ歩いただろうか。無意識に足が動くまま歩いてきたので自分では見当が付かない。かなり蛇行した気もするし、一直線に向かってきた気もする。
まぁ今となってはどっちでもいいか。
もう目の前にはゴールが見えてるんだから。
仄暗い茂みの先、白い光のヴェールが見える。その光は茂みの中に手を伸ばし、久しぶりの来訪者を歓待しているようにも見えた。
背後から聞こえてくる歓声に目を細めつつ、そのヴェールをくぐる。
瞬間、強烈な陽光に視界をさらわれ、やがて視力が戻ってくると同時に吹いた風が緩く頬を撫でるのを合図とし、目を開いた。
「わあぁ……」
保宜が感嘆の声を漏らすのも頷けた。
そこには、爽やかな風の渡る、開放感に溢れた眩い広場があったのだ。
シュールが元気に駆け出したこの広場は、とても大学の中にあったとは思えない。
直径二百メートルほどの円形の空間。彩るのは青々とした芝生。澄み渡った蒼穹。濃緑のスクリーン。
そして――豪奢な社。
広場の真ん中にポツンと一つ、朱色の目立つ鳥居を伴った社が建っており、その存在感たるや凄まじく、周囲の全てを支配下にでも置いているような威圧感を包含していた。
「やったわね」
と、ちづるさんに肩を叩かれた。こちらを労わってくれているような温かい力で。
「でも、結局最後のヒントはちづるさんに貰ったんだけどな」
「そんなの瑣末な問題よ。ごく当たり前のことを指摘しただけなんだから私のポジションは誰でも出来るわ。でも貴方は違う。あの林の前に立った時は皆、分け入っていく意気すら薄かったのに、あなただけは躊躇うことなく入っていった。きっとそれが、貴方が『導き手』だという証拠なんでしょう」
何だ、急に真面目な話をして。
そんなこと真正面から言われたら、照れるだろうが。
「あら、赤くなった」
「なってない。もしなっていたとしてもそれは虫刺されだ。ここまで来る途中に顔全体を刺されたんだろうよ」
「ふふ、嘘が下手ね。それじゃまるで嘘だって気付いて欲しいみたいよ。……そんないじらしいことされちゃったら、私……」
ちづるさんの声はそこで途切れた。訝しんでそちらを見れば、はにかんだように笑っている彼女がいる。
彼女の頬が赤いのも、きっと虫刺されだろう。
「いい雰囲気作るのは大いに結構」
と、そこに先輩の声が掛かった。幾らか棘を含んだような声が。
「だが、今は他にすべきことがあるんじゃないのか?」
それに釣られて周囲を見てみれば、腕組みして笑んでいる先輩と、顔を真っ赤にした保宜と、困ったように苦笑するフレイ氏が立っている。
いつの間にこんな空気に。
「……そうですね。行きましょうか」
その居たたまれなさに負けて、俺は歩き出した。いつの間にか、俺の隣を行くのはちづるさんではなくフレイ氏とシュールに代わっていた。どこに行ったのかと、それとなく探してみると、先輩と笑顔で見つめ合っていた。
文字で書くとこれ以上平和的な状況も見当たらないだろうに、現実の世界でこの状況が発生すると、修羅と悪鬼の殺し合いを見ているような途轍もない恐怖があった。
その近く、涙目でガタガタ震えている保宜には申し訳ないが、心の中で合掌して早々にそちらからは目を逸らした。
社の前に到着すると、改めてその偉容に息を呑む。
特に仕切りは無いのでどこからでも入れるのだが、一応の作法として鳥居をくぐってみると、本殿と狛犬以外の建築物は見当たらない。しかしその本殿の大きさだけで、地元の小さな神社とは比べ物にならなかった。
横幅、約二十メートル。奥行き、長すぎて目測では良く分からず。
鳥居をくぐる前に横から見たときはこれほど長くは見えなかったはずだが、どういうことだろうか。ともすると、常識に基づいて論じることに最早意味は無いのかもしれない。
本殿の間近に迫ってから、例の圧迫感もべらぼうに増していた。
今になって初めて気付いたが『稲荷大明神』と書かれた赤い幟もたくさん立っている。あの祠と御札が示す場所で間違いなさそうだ。
あとはこの社が、異世界への扉の安置されている場所かどうかだが……。
「さあ、佐田君」
フレイ氏が腕を伸ばし本殿の方を示す。俺に引き戸を開けろってことか。
階段を上り、格子状に木材の組まれた引き戸に手を掛ける。
それから力を込めて一気に――
「……ん?」
「? どうしたんだい?」
開かない。
もう一度手に力を入れてみるが、
「……やっぱり開かない」
「どうした健康男児。まさかの力不足か?」
「いや、これはそんな問題じゃない気が……ってうおぉ!」
唐突に、正面からぶつかって来るような猛烈な暴風が吹き荒れた。とは言っても、まるで全身を巨大なマシュマロか何かで押し込まれたような優しい感触だったが。
しかしその偉力は強烈で、俺は容赦なく十数メートル飛ばされると若々しい芝生を捲り上げながら更に数メートルを転がった。
それを呆気に取られながら見送っていた皆にも風は届いたようで、踏ん張っていないと足が地面から離れてしまうくらいの風速を未だその風は保っていた。
ただし、踏ん張れるのは成人した人間の体重ならの話。
豚であるシュールはあっという間に風にその身を攫われ、大空に舞い上がった。
空飛ぶ豚。やはりシュールな光景だ。
「っておい! そんなこと言ってる場合じゃねー!!」
シュールの推定落下地点に一番近かったのは同じく吹っ飛ばされた俺で、上空から落下してくる十キロ超の物体を受け止めることに些かの躊躇も無かったといえば嘘になるが、ここでシュールを見捨てて無残に死なせるのも忍びない。
なんて照れ臭さの言い訳を考える前から、俺の身体は動いていた。
「シュール!」
野球をやっている際の、フライを追いかけるのと似ている。落ちてくるのは野球ボールの何倍も重い重量物だがな。
「……っ」
先ほど地面に接触した際に足首を挫いたらしく、思ったように走れない。
間に合うかどうか、このままではギリギリだ。
それでも走る。とにかく走る。どんなに不恰好でも、走る。
シュールはどんどん高度を下げる。俺の瞬きの間にすら驚くほど地面に近づいていた。
シュールの身体が地面に激突するまで、約五秒。
俺の身体が落下地点に到達するまで、約五秒。
となれば、放物線と直線が交差する瞬間に全てが決まる。
それにしても、どうして俺はこんなにも必死になっているんだ? 今、死の危険に瀕しているのは豚だ。あのピンクで丸々とした身体に鼻が特徴的な中型哺乳類であるところの豚だ。よく食肉用に飼育されている、あの豚だ。
それをなぜ俺は、ここまで必死こいて救おうとしているのか?
答えは簡単。
この三日の間に、愛着なんてものを覚えてしまったからだ。あの豚に。
あと三秒……二……一、ここだ!
俺は思い切り地面を蹴って落下地点に飛び込んだ。野球で言うところのダイビングキャッチを試みたのだ。
結果的に、それは功を奏した。ただ、俺の方の被害は余計に甚大なものとなったが。
高速で飛来してくる数十キロの物体ってのは、思いの外絶大な破壊力を秘めていた。この世で最も単純でかつ厖大なエネルギーのあり方は質量だということが、まさに痛いほど理解できた瞬間だった。
また、それを胸で受け止めたために再び数メートルほど地面との摩擦を経験することになり、服や身体の惨状が手に取るように想像できてしまい、あまり自分の身体を見下ろしたくなかった。
ともあれ、
「大丈夫か、シュール?」
「……ブ、ブヒィ……ッ!」
よほど怖かったのか一瞬硬直した後、すぐに鼻や目から体液を溢れさせながら俺の胸に顔面を擦りつけてきた。こんな場面で文句を言うなんて無粋なことはしないが、それでもこの服はもうゴミ箱行き決定だな。
「佐田君、大丈夫ですか!? ……っはぁはぁ、げほッ、ごほごほッ、うぇ」
なあ保宜。心配して駆け寄ってきてくれるのは嬉しいのだが、こっちとしてはお前の方が心配だ。
「俺は大丈夫だから、とりあえず落ち着け」
「は、はい……。すぅー、はぁー、すぅー、はぁー」
「ごめんなさいね。この子、こういう子なのよ」
保宜の深呼吸の間に追いついてきたちづるさんが、お決まりの台詞を言う。
「いや……こういう子もいいもんだ」
「あら、そうなの。……ふーん。結局、男子って病弱な女子が好きなのね」
「病弱なだけじゃ足りないな。そこに健気という要素が追加されないと」
「もしかして私、喧嘩売られてるのかしら」
「そう思うってところからして自覚有り、ってことだぞ」
などと言い合っているうちに、他のメンバーも寄って来た。先輩に手を貸してもらい立ち上がる。
「怪我は、…………無いな」
あります。目を逸らさないで下さい。
「とりあえず皆無事で良かった。では戻ろう」
この俺の姿を見て、いとも簡単に無事と言い切った貴女には呆れとともに感服するが、まぁこの際どうでもいい。ともかく今の俺は早く今日の活動を終わらせて着替えたい。
しかし、そもそもの問題は本殿の扉が開かなかったということだ。異世界への扉は恐らくあの中で間違いないのに。
本殿に戻ってみると、やはり扉は閉じたままだった。
「さっきの風は、俺が開けようとしたから起きたって可能性もありますよね。なら、別の人が開ければ大丈夫かも……」
しーん……。
誰も挑戦する気は皆無だった。皆がバツの悪そうに目を逸らし、さながらお通夜みたいな沈鬱な空気が場を支配する。
これでは、どうにもならない。
どうしたものかと一人思案していたところ、フレイ氏の「おーい」という声が耳に届いた。
「ちょっとこっちに来てくれないかい」
フレイ氏は、本殿のすぐ右、そこにあった掲示板のようなものを眺めていた。
……あんなもの、さっき有ったけか?
そちらに寄って行くと、掲示板には一枚の和紙が張られていた。黄色い染みのようなものが付いている、いかにも年季の入った和紙だ。
そこに書かれた文字は異様に達筆で、如何せん達筆すぎて俺には読めないほど。
しかしそこに、流麗に読み上げる声が響いた。
「『天降りまさむとする時に……』」
先輩だった。
「読めるんですか?」
「古事記の一節だ。曰く、天鈿女尊が猿田彦を宥めて道案内させたという」
「『天鈿女尊』?」
ここに来て、また新しい神様の名前か。しかも猿田彦と関係があるって、また俺に災難が降り掛かりそうな予感がする。
「日本神話における芸能の女神だ。ほら、君たちもよく聞くだろう。天照大神が素戔嗚尊の暴状に怒って天の岩屋戸に籠ってしまい、大地が暗くなってしまった話」
「よく、ではないですが、まあ聞いたことあります」
「神々は天照大神を外におびき出すために岩屋戸の前で宴会を開いたのだが、その際に舞を舞ったのが天鈿女尊だ」
「はぁ、そうなんですか」
「ちなみに、天鈿女尊は猿田彦の奥さんでもあるぞ」
「…………つまり、どういうことです?」
「おそらく、ここでこの紙が出てきた意味は……」
「……意味は?」
「推察するに『天鈿女尊に宥められてからでないと例え猿田彦でもこの扉は開けないぞ、ぷんぷんっ。だって神話ではそうなってるんだもん、ぷんぷんっ。天鈿女尊とイチャイチャしてから出直して来い、ぷんぷんっ』といったところだろう」
いちいち挟まれる怒った時の効果音は、若干古いぞ。
って、突っ込むところが違う!
「何すか、その『天鈿女尊とイチャイチャ』って!」
「言葉の通りだ。まぁ言われてみれば確かにそうだな。猿田彦が天孫降臨に際して道案内をしたのは天鈿女尊に乞われたからだ。それを省いて猿田彦に道案内させるというのは、古事記の編纂者にとっても承服しがたいことなのだろう」
遥か昔に往生なさっている編纂者のご機嫌など伺わないといけないのか、このミッションでは。
「てか、天孫降臨ってなんです? 俺、始めて聞くんですけど」
ちづるさんと保宜も同じく頷いている。
それを特に咎めるでもなく見やった先輩は、説明をしてくれる。
「天孫降臨とは、瓊瓊杵尊が大和を平定するために高天原から降りてきたことを言う。この時、瓊瓊杵尊を道案内したのが猿田彦だ」
「……あの、先輩」
「何だ?」
「この話に、その瓊瓊杵尊とやらは関わってましたっけ? そもそも聞いたことないんですけど…………」
「それは当然だ。全く絡んでないからな」
いいのか、それは。猿田彦が案内したのはその瓊瓊杵尊なのに。
「別に瓊瓊杵尊は重要ではないのだ。ただ猿田彦が道案内の役を担うためのきっかけがここでは必要なだけでな。今の天孫降臨の話も君に問われたから答えただけで、特に関係はない」
言うや、先輩は踵を返した。そのまま鳥居をくぐり、ずんずんと歩いていってしまう。
「ちょ、先輩! どこ行くんです!?」
「帰る」
鳥居をくぐってすぐのところで立ち止まり、ポニーテールを揺らしながら顔だけをこちらに向けてくる。
「今の状態でここにいても、埒が明かない」
俺はさっさと服を着替えたいので、帰るという判断には全力で賛同しますが、なんだか少し引っ掛かるものがあるような。
「ただ、君は覚悟をしておいた方がいい」
「……はい?」
「明日から、君の嫁探しが始まるのだからな」
息子の婚活を一手に引き受ける母親みたいなニヤッとした笑みを一瞬だけこちらに見せ付けると、再び前を向いて歩き出す。その背中は颯爽として、まるで決闘の勝者がうな垂れる敗者に背を向ける場面を想起させた。
そんな人は、ここでカッコいい決め台詞を吐くのだ。少しだけこちらを振り返り、健康的な白い歯をキラリと光らせながら。
「精力をつけておけ」
……それは決め台詞になり得ません。