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入学式という儀式を俺が経験するのも、これで四回目だ。
小、中、高ときて今回が大学の入学式だから四回目で間違いない。
この独特の緊張感は回数を重ねても慣れるものではないが、今回に限っては加えて着慣れないスーツで身を強張らせているということもあるのだろう。
受験で辛くも合格した農業大学――とは言っても、農学科以外の学科も結構ある。環境学科、畜産学科、栄養学科、醸造学科、そして園芸学科の全部で六つ。俺はその園芸学科にこの度入学と相成った。
その入学式が行われるアリーナとかいう体育館は、ごく平凡な公立高校出身の俺にとっては夢のような規模で、高校生の時分に目の仇にしていた私立高校など足元にも及ばない大きさだった。
これが大学というものか。
その大学までになると、なんだか偉そうな外国人が祝辞を述べたりするものらしいのだが、理解などとうの昔に放棄したネイティブなイングリッシュも俺の睡魔とはなり得なかった。
それくらい俺は身をガチガチにしていた。
にしても、どうして自分だけが場違いに見えるのか。他のヤツが皆、大人に見える。
少しばかり焦燥感を掻き立てられつつ、しかし千人単位でアリーナに集まっている新入生の中の一人である俺の焦燥などで何が変わるわけでもなく、入学式もつつがなく終了。新入生は学科ごとにガイダンスが開かれるという教室に移動することとなった。
アリーナを出れば、青く澄み渡った空に、散った桜の花筵。その鮮やかな青天井と桃色のカーペットに挟まれて新緑の生き生きとした緑が揺れている。
凝っていた身体を、ぐーっと伸ばす。
アリーナのエントランスでは、待ち構えていた複数の上級生が後輩となる学徒たちに一輪ずつガーベラを手渡していた。
俺も胸を張って歩いていくと、先輩方の何人かが俺に気付いて近づいてきてくれた。
その内の一人と目が合う。男性の先輩だったことに内心だけで舌打ちし、それでもここで目を逸らしたら入学初日から先輩との軋轢を生みかねないと自分自身に言い聞かせ、あくまでにこやかに手を伸ばした。
その時だ。俺と男性の先輩の間に人影が滑り込んできたのは。
確かに、綺麗な女の先輩だったらいいなー、とか思ったりはした。
……したのだが、
「入学、おめでとう」
服装や日焼け具合から考えて、どうやら農学科の先輩らしい。
作業用のつなぎを着たその女性だが、襟からのチラリと覗く細い首筋はほんのりと小麦色で、健康的かつ活発な印象。同じく溌溂とした雰囲気の顔の造形は整っていると評して申し分なく、長時間日に当たり続けて黒い色素が若干抜けたらしい長髪をポニーテールにしているのが一層ポイント高かった。
どこをどう見ても、綺麗な女の先輩だった。
ただ、そこに『嫌がらせをしてくる』なんてオプションが付いているんだったら、いくら俺だって遠慮したい。
まったく、これを嫌がらせと言わずして何と言うのか。
今日の天気みたいな晴れやかな笑顔で女性が俺に突き出しているのはガーベラなどではなく、そもそも花ですらなかった。
麗らかな春の日差しの下。一際強く吹いた春風に、地面を覆っていた桜の花びらが舞い上がる。
ともすればロマンチックな情景の中、俺はどんな顔をすればいいのか分からない。
自信を持って言うが、誰だって分からないはずだ。
何と言っても、その女の先輩が俺に差し出したのは――
――藁束だった。
「はぁ……」
入学早々早速だが俺は、この大学の笑い種となりそうな悪い予感に苛まれている。
それもそうだろう。色とりどりのガーベラの花を携えてパリッとスーツを着こなした新入生の中でただ一人、ガーベラに加えて納豆が入っていそうな藁束まで抱えていれば、周囲の目も集まろうというものだった。
あの後すぐに女の先輩はどこかへと去ってしまっていた。
長く拘束されなかったことは一安心。
「これが農大の恒例…………な訳ないよな」
気落ちもするが、しかし折角の新生活の初日だ。暗い顔もしていられない。
先ほどの女の先輩とも、もう会うことはないだろうし、いっそのことこの藁束で俺の明るいキャラクターを定着させてやろうじゃないか。
そう気を取り直して向かったのは、俺が新しく所属する園芸学科のガイダンスが開かれるという教室だ。
入口で手渡された出席番号順の席指定表をぼやーっと眺めつつ、俺に割り振られた席へ向かう。今後の授業では、座る場所は基本的に自由らしい。
同級生がごった返す教室で、席は二人掛けだった。俺の隣に座る人の名は『高木朔耶』とあるので、恐らくは女性だろう。
俺は先ほど、綺麗な女の先輩に期待を裏切られたばかりだし、油断は禁物。
「え……っと。あ、ここだ」
すぐ傍、斜め後から澄んだ声が聞こえた。決して聞き間違いなどではなく、涼やかな女性の声だ。
「えーっと……あなたが佐田君、でいいのかな?」
俺の名前を呼んだということは、この声の主が俺の隣に座るはずの高木朔耶さんで間違いないんだろう。
振り向き、肯定の意を伝えようとした――ところで。
「よかった、すんなり見つかって」
脳味噌がただの味噌にでもなってしまったようだった。
辛うじて機能を保持している聴覚だが、ついさっきまで辺りを包んでいた喧騒が聞こえてこない。息を呑んだ雰囲気だけが、空気の硬さとして俺にまで伝わってくる。
月並みな表現かもしれないが、天女と見紛うばかりの美人がいた。
テレビなどで『ミス○○大学』といった肩書きを持つ女性を時々見るが、はっきり言って、そんなもの足元にも及ばない。
万緑叢中紅一点。それを素で行く女性だった。
ちなみに万緑とは、ここでは全ての女性を示す。それくらい彼女は際立っていた。
純粋な漆黒の髪は教室の蛍光灯の光すら天上の霊光に変容させる艶を持ち、上等そうな簪でそれを結わえている。それに相反するように滑らかで白い手足がフォーマルスーツから伸び、そのコントラストが絶妙。
そして極めつけは、どこぞの芸術の神様が全ての神経を傾けて造形したとしか思えないほど整った顔立ち。
その高木さんが隣に座ってきた時は何かの間違いではないかと座席表を疑い、それから一瞬で身体をガチガチに緊張させた。
「? どうしたの? 顔が赤いよ?」
あなたのせいだ、とはとても言えない。そもそも口が動かない。
返事がないことに首を傾げる高木さんだが、そんな仕草がいちいち様になっていて、こっちは益々フリーズしてしまう。
高木さんが座席表に目を落としくれたことで脳不全の状況からは脱した。
なのにその一瞬後。
「……素敵な名前」
「は?」
いま彼女は何と言った。俺の脳細胞が極度の緊張に狂ってショートしたのでない限り、素敵な名前、と呟いた気がする。
「な、何が?」
ぎこちなくも、聞き返すことに成功した。
「何って、君の名前」
高木さんは微笑むと、紙に書かれた俺の名前を指でなぞっていく。
「『佐田彦名』……うん、やっぱり素敵。優しい人だっていうのが伝わってくるよ」
大学生ともなると、初対面の相手の名前を褒めるのは当然の礼儀なのだろうか。つまりは、これが大学生のスタンダードなのか。
ならば、こちらも返しておかねばなるまいて!
「き、君の名前もいい、じゃん。『朔耶』って……何だか落ち着いた雰囲気で」
途端だ。高木さんは一瞬で顔に紅葉など散らしてしまった。
この反応、あまり褒められ慣れているようではなかった。
でも、その表情は一見しただけで昇天してしまいそうな威力を秘めていた。恍惚とする頭に負けないよう激しく首を縦に振ると、彼女は仄かな月明かりのように、控えめに顔を綻ばせた。
「へへ、嬉しいな……。私も自分の名前大好きなの。ありがとう」
どうやらお気に召したらしい。
育ちの良さそうな深窓のお嬢様といった雰囲気の高木さんと話ができるか不安だったが、意外と気さくな人だった。
となれば、これはチャンスに他ならない。隣の席という地の利を生かしてお近づきになっておくに越したことはないだろう。
周囲の男子からの視線が痛いが、気にすることもないさ。
「改めて、俺は佐田彦名。よろしく」
「うん、こちらこそ。私は高木朔耶。これからよろしくね、佐田君」
名前を覚えてもらうことには成功したようで内心ガッツポーズ。
大学生活だって悪いことばかりじゃないな。
それに俺の女運も、なかなか捨てたもんじゃない。
大学生活指針、とかいう通過儀礼的な講習も終了し、次に学科の教授紹介となったところで、司会の先生が生徒たちの睡眠脱落具合を嘆いたのか休憩を挟むことになった。
高木さんが少し赤らみながらハンカチを持って教室を出て行ったが、その恥じらいがまた素晴らしい。
その時。急に肩を叩かれて息を止めた。
「ようようにいちゃん」
一瞬不良にでも絡まれたかと戦慄したが、振り返るとそこには黒髪天パ。小柄で垂れ目かつ撫で肩。草食動物チックな、いかにも悪事のできなそうな顔立ちの男がいた。
そういえば、声も男性にしては高めだった気がする。
全く、これでは刹那でも恐怖した俺が馬鹿みたいだろう。
「ご苦労様」
その意趣返しも込めて、そう言ってやった。
「何その反応! いくら掴みが失敗でも、そう冷たくあしらうのはどうかと思うよ!」
「失敗だとは気付いてるんだな」
「だいたい、出身がかなり田舎なのは認めるけど、僕のところでもヤンキーなんて殲滅されてるんだから! ……三ヶ月前くらいに」
「意外と最近だな。あと『ヤンキー』って言葉自体が若干古い気がするぞ」
「なに!? 都心はもっと昔だって言いたいの!? 僕の田舎をバカにしてるの!?」
「いや別にそういう」
「田舎を舐めないでよ! 春先、家のすぐ裏にある雑木林の中に入れば鹿がもしゃもしゃ木の芽食べてるんだからね!」
長閑だ。
「季節になればアケビとかムベとかイチジクだって普通になってるし! ……あそこは、おやつの宝庫だった。うんうん。むべなるかな、むべなるかな」
既にホームシックなのか、窓の外へと郷愁の眼差しを向ける。脳裏にはきっとイチジクの木にアケビの蔓が絡み付いている絵が浮かんでいることだろう。
「……おいしかったなぁ」
「涎を垂らすな!」
頭をはたいてやると、いかんいかんと口走りながら口元を袖で拭う。それから俺を睨んできた。
「ふう、誰かのせいで話がずれたよ」
全くだ。
「それで、素敵な名前の佐田彦名君」
盗み聞きとは褒められん奴だ――が。
そんな文句も彼の名前を聞いた途端に遥か彼方へ吹っ飛んだ。
「僕の名前は加藤清俣」
「っ……、……。……き、君も、素敵な名前じゃないか」
「今、笑い堪えたよね。馬鹿にしたよね! あだ名は虎之助とかでいいんじゃね、みたいな安直な思考をしたよね!?」
「被害妄想だぞ」
「嘘だ!」
ご名答。
「それで、何だよ虎之助」
「……くぅ、やっぱり大学生になっても、僕は虎之助の運命からは逃れられないんだぁ」
むしろお前の方から話をフッてきたような気がしたが。
「まあいいや。それで佐田君、随分と高木さんと親しげだったね」
「ん? ああ、隣の席だったからな」
「それだけ?」
他に何がある。以前から知り合いだったら名前を褒めあうなんて気恥ずかしい真似、とてもできんだろう。
「僕のお父さんがこの大学の関係者なんだけど。……言っておくけど裏口じゃないよ」
「俺は何も言ってない」
「君は口よりも顔の方が饒舌だよ。それはともかく、同級生の誼で忠告しておくけど」
虎之助がずいっと顔を近づけてきた。もちろん男に急接近されて喜ぶ趣味は持ち合わせていないので、ほんの少し身体を離す。
「お父さんが言ってたんだけどね――この大学で注意することはただ一つ。高木家に目を付けられるな――ってことらしいよ」
「? 何だそれ」
「佐田君、ちゃんと入学式の時に渡された冊子見た?」
「いや全然」
「まあそうだと思ったけど。とりあえず、最初のページ見てみて」
何を言わんとしているのかさっぱりだが、とりあえず訝りながらも言われた通りにすると、そこにあったのは妙齢の女性の顔写真と、
「学長、高木晴香……?」
「高木さんの、実のお姉さんだよ」
「……学長って、トップ?」
「そう。これまで何度も、妹に言い寄ってきた男を社会の掃き溜めに放逐してきたって専らの噂の」
……そんな人間が学長なのか、この大学は。
冗談だろ。
「……んなこと言って、実は自分がお近づきになりたいってだけじゃないのか?」
「じょ、冗談止めてよ!」
そっちが冗談なのか。
「僕、あんな風になりたくないよ!」
「……………………」
本気で顔を強張らせて首を振るほど、学長の暴虐は凄まじいのか。つうか、あんなふうってどんなふうだ。一体先人はどんな仕打ちを受けたんだよ。
「……それは、マジなのか?」
「マジもマジ、大マジだよ。だから高木さんと関わるなら注意した方がいいよ。あっそうだ。高木さんには実はお兄さんもいて、この人がまた――」
その時だ。
教室の扉が、決して立てるはずのない爆音を伴って開かれたのは。
そこに立っていたのは、二メートル近い長身で、およそ学生とは思えない頑強な身体を小刻みに震わせている大柄な男だった。
獣のように獰猛な息を吐く男の顔は凶悪に歪んでいて、見るに耐えない。
続いて、人体はここまでの声量を獲得しうるのかと人類創造の深遠なる神秘にトリップしてしまいそうな大音声が、教室内に響き渡った。
「さ、さ、さ……朔耶ァ――――――!! 入学祝いに来たぞォ――――――――!!」
窓がビリビリ震えている。
考えたくもないが、叫んでる名前からして……
「……あれが、その?」
「……うん」
虎之助の肯定を裏付けるように、男がもう一度咆哮した。
「お前の愛する兄、高木風馬はここにいるぞォ――――――――!!」
十メートル近く離れた場所に座っている俺ですら耳を覆いたくなるような絶叫だ。すぐ傍で叫ばれた人は堪ったもんじゃないだろう。
それに『お前を』ではなく『お前の』な辺りが痛々しい。
「ぬ!? 見当たらない、見当たらないぞ我が妹朔耶!! どこへ行ったァ――――!! 愛する兄に顔を見せておくれェ――――!!」
血の繋がった妹の姿が見えないことに本気で悲しそうに吠える高木兄はもう一種の病気なのではないか――なんて、そんな事を考えていたからか。
「……!」
何やらくんくんと鼻を動かしていた高木兄が唐突に、研ぎ澄まされた矢のような視線を俺に向けてきた。
なぜか明確に俺へと殺意の籠った視線を突き刺し、次の瞬間には他の生徒や机を弾き飛ばしそうな――いや、実際に弾き飛ばす怒涛の勢いで俺の元まで突進してきた。
いくら日和見主義な俺でも、分かることがある。
ここにいたら危険だ。
「に、逃げるぞ虎之助! ……虎之助?」
促すまでもなく既に逃げていた。見回してみると、二つくらい後ろの席に座り、素知らぬ顔で隣人と談笑している。あの野郎。
虎之助を見つけることに時間を費やしてしまったことで、とうとう俺は逃げるタイミングを逸してしまった。甲高い悲鳴と重い破砕音は瞬く間に近づいてきて、漸減していく相対距離は俺自身の命脈も表しているようだった。
そして、到達。
「……朔耶の残り香がある」
そんなもので本当に妹の席を当てるような男の称号はシスコンなどではない。ストーカーの方が適している。
高木兄は俺に肉薄すると、どうしてか再びくんくんと鼻を鳴らし始めた。
まるで俺の臭いを嗅ぐように。
「な、なんすか?」
奇妙な行動に面食らいながらも声を絞り出す。が、高木兄は聞いていない。
しかし、数秒の後。
「…………なぜ貴様からも朔耶の匂いがする?」
上がった高木兄の顔は、般若の形相だった。
「……なぜだ?」
「だ、だって隣の席でしたから……」
「……どこだ?」
一応、疑問詞は変わった。でも、俺への圧力は一パスカルも減りはしない。
「どこって……たぶぐげぇ!!」
その圧力に負けて答えようとしたのに、高木兄は問答無用というように俺の胸倉を掴み上げた。どうやら被疑者の話になど聞く耳持たないらしい。
妹を愛するがゆえの盲目、とかそれっぽく言ったところで結局こいつは変態に変わりない。普段だったらどうにかして接触を回避するところだが、残念ながら現在に限ってはそうはいかない。なにせ、締まる胸襟のせいで呼吸すらままならないんだからな。
「……妹を、朔耶を、どこへやった?」
もう俺は彼の中で誘拐犯に確定しているらしい。
息が苦しい。目も霞んできた。喉を絞められているせいで声も出せない。周囲の生徒たちに救いを乞う目を向けてみても、申し訳なさそうに目を背けるだけだった。
日本人って薄情だな。
どうやら俺は、辞世の句を読む暇もなくあの世へ旅立つことになりそうだ。この際だ、声には出せないが日本人への濃厚な恨み節を唱えながら死んでいってやるよ。
でもやっぱ……大往生が良かった。
父さん母さん、先立つ不孝をお許しください。
…………。
…………なんだ?
辞世の句を一首どころか四首五首くらい読めそうな時間が経過しても意識が途切れない。
それどころか急に尻に衝撃を感じ、自分が落下したことを知る。いつの間にか息苦しさもなくなっていた。
一体、何が起きた?
まだ少し痺れているように感じる瞼を、ゆっくりと持ち上げていく。
まず見えたのは、高木兄の足だ。なぜだろう。宙に浮いているように見えるのだが。
そこから視線を上げていき、次に見えたのが彼の胸元。高木兄が節張った無骨な手で押さえるそこからは、他の誰かの腕が伸びていた。妙に細くて白い腕だ。
見た感じ、高木兄が誰かに掴み上げられているらしい。
しかし誰だ。さっき日本人に恨み節を吐こうとしていた不敬な俺をして救いたもうた天使のようなお人は。
その腕を辿っていく。
どう見ても体重八十キロは下らない高木兄の身体を持ち上げるには頼りない細さ。
加えて、男にはあり得ない肌理の細かさ。滑らかさ。
薄々、俺も勘付いた。
その腕の持ち主が、本物の天使だということに。
「ねえお兄ちゃん」
笑顔だ。俗に言う、天使のような悪魔の笑顔。
天使――高木朔耶が兄の首根っこを締め上げていた。
「さ、朔……耶、こ……の腕を、外し、て、くれな、いか……?」
「だめよお兄ちゃん。金輪際、私のお友達に関わらないと約束してもらえないなら、このまま絞め殺す。……本気よ?」
翳が差しているように見える瞳からも、その意思はヒシヒシと伝わってきた。首を傾げながらなのも、一層の怖気を誘う。
一向に弱まる気配を見せない高木さんの握力に、さすがのシスコン兄も生命の危機を感じたのか、掴んでいる妹の腕にタップした。
その表情は、ただ恐怖に彩られていた。
「約束してもらえるわよね?」
まさに死力を尽くして頷く高木兄。すると間を開けず、その大きな身体がドスンという音を立てて床へと落ちた。
頑丈な壁のような身体からは想像できないほど小さく背中を丸めており、未だ恐怖を煽る笑みを消していない妹へと、高木兄は慈悲を乞う目を向けている。
「そう。なら、もう話すことはないわよね? さあ、戻って。そろそろお昼時だし、好物のお蕎麦でもいただいてきたら?」
「……朔耶の傍にいたい」
寒いな、この男。
「あらら、まだ足りないみたい。こうなったら頭の風通りを良くしてあげないとダメなのかもね」
俺が言うのも何だが、もう止めておいた方が懸命だ、高木兄。それが伝わったのかどうなのか、彼も完全に閉口した。俺としては目の前で人死にが出なくて一安心。
満足したように一つ息を吐いた高木さんは俺に向き直り、
「ゴメンね、佐田君。見苦しいもの見せちゃって」
「み、みぐ……う、うわあああああん!」
確信犯的なトドメの一撃に号泣しながら教室を駆け出ていく兄には目もくれず、その場で反転すると、同級生たちへと優雅に一礼して見せた。
俺には、その仕草が天使のそれではなく、悪魔が人を欺く際に見せるであろう媚のように見えたが、決して口にはすまい。
明日は我が身――という言葉を、俺は知っているのだ。
「皆さん御免なさい。お騒がせしました」
彼女が褒められ慣れていない理由が、痛いほど理解できた。
もういっそ認めよう。
やはり俺には、女運がないらしい。
「佐田君は、入る部活とかサークルってもう決めた?」
対面に座った高木さんが問い掛けてくる。
高木兄強襲事件のあと、教授紹介も終了したことで午前中のうちにお開きとなった。午後の時間は各自で敷地内を見て回れ、ということらしい。
丁度お昼時ということもあって、最初の見学場所に学食を選択する学生は多かったようだ。かく言う俺たちも、そのグループに含まれる。
未だ捨てることなく律儀に藁束を足元に置いている俺の隣には、無理矢理引っ張ってきた虎之助が肩身の狭そうに座っているが、別に構わない。
先ほどの武勇を見た直後ということもあり、高木さんと二人という状況は、どうやっても回避したかったからな。
「いや、特に。虎之助は?」
「ぼ、僕? 僕も別に……」
学食はかなり大規模なもので、三つくらいの学科なら全員まとめて座れそうな数の椅子とテーブルがあった。
メニューも豊富で、それを選びかねている大多数の学生を抜き去り、俺たちは手ごろな席を確保した。
アスパラのクリームパスタを上品に口に運び、いちいち唇を軽く拭う高木さんは、それを聞くとパッと顔を綻ばせた。
「だったら、この後一緒に見に行こうよ!」
「あ、ああ。別に構わないけど。虎之助も行くよな!」
「えーっと、僕は」
「行くよな!?」
「えー、でもやっぱり」
「よし決まり!」
「何が決まったのか、是非僕に教えて欲しいな」
「それじゃあどの辺りから回ろうか」
内心焦りながら、ガイダンスで配られた構内の簡易地図を広げる。このまま明確に断られないうちに行動に入るのが一番の良策だ。虎之助には悪いが。
二人とも食べ終えたみたいだし、早々に席を立つ。
俺が先頭で、その後を二人が付いてくる形だ。何度も何度も背後を気にしてしまうマイチキンハートを恨めしく思いながら、いやに長く感じた道程をどうにか消化して、安普請のサークル棟の前まで一人の欠員も出すことなく無事に辿りつくことができた。
その案内板の前で、
「それで佐田君。どこから見て回る?」
「……僕、まだいなきゃダメ?」
「どこがいいかな。あっ! ねえねえ佐田君、磯辺焼き研究会とかあるよ。どんな活動してるんだろうね」
「ほら、高木さんも『さっさと消えろ』オーラ出しまくってるし」
「え! そ、そんなことないよ加藤君。ほらほら、加藤君はどこがいい?」
「もういいよ、その取ってつけたような応対。むしろ悲しくなるよ」
「LDK同好会をお勧めする」
「え、何それ。どんな活動してるの?」
「知らないよ、部屋の間取りについて熱く議論するサークルじゃないの」
「もう、だから加藤君、そんなムキにならないでってば。ねえ佐田君? それで、LDK同好会ってどんな活動してるのかな」
「知らん。何だそれ」
「え? だって今お勧めしてくれたじゃない」
「俺がサークル棟の前に来て初めて発した言葉は今の『知らん』だぞ。そんなアットホームなサークル名を口にした憶えはない」
「……え? じゃ、じゃあ誰が――」
「あたしだ」
「きゃぁ――――――!!」
そろそろ太陽も南中しようとして一層の陽光を撒き散らす白昼に、響き渡る悲鳴。場違いもいいところだ。しかし、それ故により多くの視線を集めてしまった感も否めない。
飛び退いた高木さんはバッと振り返り、背後に立っていた人物を見て目を見開いた。
「あ!」
という高木さんの声。しかしそれは俺の口から飛び出した驚きの声でもあった。
「本当に騒がしいな、高木の末っ子。どこかの誰かにそっくりだ。今日のドロップキックの冴えはどうだ?」
そこに立っていたのは一人の女性。
入学早々、俺に悪質な嫌がらせを仕掛けてきた、あの先輩だった。
「何でアンタがここにいるの、御厨斎都姫!」
「勧誘だ」
「気配なく背後に立ってぼそっと声掛けるのは勧誘とは言わないわよ!」
「なら何と言うんだ」
「知らないわよ!」
「そうか。ならこれは勧誘だ。逆にして勇敢と言ってもいい」
「確かに勇気がないとできない行為だとは思うけど!」
「ありがとう。では、彼を貰っていこう」
「それは勇敢じゃなくて誘拐……って、ちょっと待ったぁ! 佐田君をどこに連れてくのよ!」
高木さんの台詞と第一印象のギャップにも今さら驚くことはない。少しショックではあるが。
それでも高木さんが喧嘩腰でがなり立てる声や、御厨斎都姫というらしい先輩の意味不明な受け答えに翻弄されるがままになっていた俺だが、その先輩に腕を引っ張られる状況になってようやく現状に復帰した。
「あ、アンタは」
「先輩に対してその呼び方はいけない。LDK同好会に入会する人間として、基本的な礼儀は弁えてもらわないと困る」
「ど、どういうこと!? 佐田君、さっきは決めてないって」
「それは彼の照れ隠しだ」
照れる要素がどこにあった。
「事実無根なことを言わないでください。俺はまだどこに入るか決めていませんし、万に一つも先輩のところに行くことはありません」
「うむ、ちゃんとした言葉使いもできるではないか。合格だ」
「試験を受けてる気すら無かったんですけど」
「そう謙遜するな。どんどんあたし好みの男になってしまう」
「嘘です。合格する気満々でした」
「そうか、なら行こう」
「はっ!」
しまった。会話の意味不明さと勢いに乗せられて無様に誘導されてしまった。
もし今のが全て周到に張り巡らされた伏線による誘導尋問だとしたら、この先輩はとんだ食わせ者かもしれない。
しかし、まだ断るチャンスは――
「喜ぶといい、一連の会話はこのカセットに録音済みだ。これがあれば会長の厳しい入会試験も免除になる。今朝あたしに見つけられたことといい、君はつくづく運がいい」
――どうやらなさそうだった。それにしても録音メディアがカセット。前時代的だ。
「……はぁ」
どうも俺と先輩では価値観の相違が甚だしいようだ。貴女の言っていることが、俺にはどうしても『運がいい』とは思えない。
一瞬カルト教団か何かとも思ったが、大学の最高責任者――学長の妹である高木さんと先輩が旧知の間柄であるということで、その最大の不安は解消された。
しかしながら、得体の知れない薄気味悪さはまだ消えてないわけで。
「……ちゃんと説明を聞いてからでもいいですか?」
せめて、基本的なことは把握しておきたい。
「ああ、構わない」
肩を落としながら本気のトーンで言った言葉に首肯すると、先輩は農作業を続けてきたためか皮膚の固くなった手で俺の腕を掴むと、何処かへと先導していく。
「ちょ、佐田君!」
「君たちは来なくていい。もっと似合いのサークルが見つかるはずだ。アマレス同好会とかどうだ?」
「アマ……っ! は、入らないわよそんなの――!」
高木さんの叫びだけが、空しく俺の頭で木霊した。
解体場へと向かう食肉用の動物たちはどんな気分なんだろうか。己の運命を知って、しかし抗うことも出来ず、人間の胃で己の肉が消化される末路に諦観するのか。もしくは、そんなことを考える暇すらなく、意識を途切れさせるのか。
はたまた、そんな感情すら持ち合わせていないか。
なんて。最後のは人間のエゴが過ぎたな。俺だって普通に美味い美味い言って肉を食ってる。何も変わらないさ。
自分でもよく分からない奇怪なことを考えているのは、ドナドナの曲の中で運ばれていく仔牛の気分を疑似体験しているからだろうか。
「はぁ」
どうして入学初日から、こんな暗澹たる気分を味わわなければならないのか。全くもって承服しかねる。今の俺の気分を表すのに最も適した言葉は、前途洋洋などではなく前途多難の方で間違いない。
「ここだ」
しばらく歩いて到着した場所は、お世辞にも綺麗とは言いがたい、立て付けの悪いドアの正面だった。磨りガラスには『LDK同好会』と女子っぽい字で可愛く書かれたプレートも下げられているのだから、ここが目的の場所だろう。
「歓迎しよう。ようこそ、我らがLDK同好会へ」
先輩の手により、ゆっくりとドアが開かれていく。ぎーっという音は、さながらおとぎの国へ向かう前のようなアトラクション性を秘めていると思えなくもない。
しかし、そんなものに心ときめく年齢なんて何年前に訪れたか憶えていないし、そもそも男である俺にそんな時期があったかどうかさえ疑わしい。
だから、その扉の先で待っている何かに期待など微塵も抱いていなかった。
果たして、それは正解だったように思う。
ある意味で。
「やぁ、君が佐田く」
ばたん。
条件反射で扉を閉めてしまったのは不可抗力だ。
とっさの事で先輩も対応できなかったらしい。いつの間にか己の操作を離れて俺の手の中にあるドアノブをぼけーっと眺めていた。
俺が反射行動として扉を閉めることとなった条件の部分を、ここで説明しよう。
先輩がドアを開けたとき、中からはまるで室内ではないかのような光が漏れ出し、俺は目を覆った。
恐らくスポットライトか何かを持ち込んで内側から照らしていたのだろう。確かに眩しかったのだが、実は問題はそこではない。
その眩しい逆光の中、くっきりと浮かび上がった男の影。これがいけなかった。
ジャケットをはだけるように手を広げているその男の胸板は引き締まっていて尚且つ厚く、男としては嫉妬を禁じえないものだったが、それと同時に生理的嫌悪をも催した。
加えて、自分に酔ったような緩みきった声。顔こそ見えなかったものの、どうにかしてその姿を視界から排除しようとする反射行動の条件としては、申し分ないだろう。
一人納得していると、内部から何やら焦ったようなドタバタという振動が、複数人の会話と併せて伝わってきた。
――だから言ったんです。これでは相手を怖がらせるだけだと。
――ミ、ミオも止めた方がいいって言いました。
――ブヒブヒ。
――そ、そんなこと言ったって、ボクはこれ以外の歓待の作法を知らないんだよ。
真人間が二人、ちなみに女性の声。
そしてもう一人のテノールが先ほどのネイチャリスト男のものだろう。
それと、よく分からないが、豚の鳴き声。
もはや理解しようとする方が無茶というほどのちゃんぽん状態だ。
1対9の割合で踵を返す方向に意識が傾き始めていたのだが、先輩の笑いを噛み殺したような声に足止めを食らった。
「どうだ、賑やかだろう?」
「ええ」
「君もきっと気に入る」
「それは無いです――ってぇちょっと!」
先輩を振り切って駆け出すタイミングを計り始めた俺の内心を見透かしたように、俺の手首を万力のような腕で掴むと、部屋の内部へ無理矢理引っ張り込んでしまった。
女性とは思えないほどの膂力に、全くもって為す術がない。もしくはこれが農業という直に自然と向き合う仕事に生きる女性の力強さかもしれなかった。
引き込まれるままにポイントオブノーリターンであったはずの会室の敷居を跨いでしまうと、背後ではバタンとドアが閉じる音が聞こえる。
その音が示す事実は明白。退路を絶たれた。ならばもう、逃げ場は無い。覚悟を決めて現実を見つめるしか、俺に道は残されていないようだ。
いつの間にか瞑っていたらしい瞼を持ち上げると――
「ブヒ」
――目の前にピンク色の物体があった。
そういえば、遅ればせながら獣臭いし、生暖かい空気が顔面に吹きかけられてもいる。
少し顔を離して見てみたそれは、どの角度から二度見してみても、
「…………豚?」
でしかありえなかった。
それにしても、なぜ部屋の中に豚がいる? 畜産学科もあるこの大学では割と普通のことなのだろうか。
「シュールだよ」
一瞬、豚が喋ったのかと思った。
真実は、豚の向こうから掛けられた男の声だった。
「は?」
「この子の名前。シュールって言うんだ」
豚を受け取りつつ、渡してきた男に当然の疑問をぶつける。
「…………なぜにシュール?」
すると、向こうもさも当然のように返してきた。
「え、だって…………シュールでしょ?」
確かに人の生活空間にちゃっかり入り込んでいる豚なんて、シュールと言えばシュールだが。インテリアにするんなら、せめて豚の置物くらいにしておいて欲しい。
いや、それは置いておいて。
豚を俺の腕の中に押し付けることで明らかになった、先ほどの生理的嫌悪を催した男の顔。それを見た俺は今度こそ明確な嫉妬を覚えた。
「さっきはゴメンね。驚かせてしまって」
申し訳なさそうに目尻を下げる痩身の男は、なんと外人だった。詳しくどこの国か判じるのは難しいが、顔立ちからしてヨーロッパ系のように思う。
全ての女子が放っておかないだろうほどの整った容姿をしており、長く伸ばされた銀髪が神々しい。遠目から彼を見つけた男は性別などを考慮する暇もなく一瞬で恋に落ちてしまうだろう中性的な魅力に溢れている。そんな雰囲気を持った男だった。
今ではちゃんと真っ白いシャツを着込んでおり、逞しかった胸板は隠されているが、そのお陰で貶すことのできる要素も見つけられず、しかして男の格の違いをまざまざと見せ付けられる結果となった。
ただ話の分からない人ではないらしい。日本語も流暢だったし。
「ボクはフレイ=エッダ。二年ほど前に、フィンランドから日本に来たんだ」
「あ、ども。園芸科一年の佐田彦名です」
お互い自己紹介も終わったところで、部屋の中を見回してみる。意外と片付けられている室内は八畳ほどの和室で、色々な小物が入った棚が二つに大きな丸テーブルが一つ、そして座椅子が複数といった感じだ。所どころに油揚げやら毛皮のコートやら謎の物体が落ちているが、まあそこは豚が居座る部屋という容認しがたい事実を既に目の当たりにしているので黙殺。
中の様子を見てみると、フレイ氏の他に二人が座椅子に座っていた。
一人はダークブラウンの長い髪にウェーブをかけた、おっとりした雰囲気の女の人。整った目鼻立ちには絶えず微笑が浮かんでいて、どこか世俗を離れた禁欲の修道女を髣髴とさせる。落ち着いた空気をまとって佇んでおり、俺よりも年上に見えた。
「こんにちは。はじめまして、佐田君。私は環境学科一年の稲倉ちづるよ」
「い、一年!?」
同い年だと知り、ついつい声を上げて驚いてしまった。
「あら。なあにその反応。私は紛うことなく今日入学式を迎えたあなたと同い年の女子なのだけど、一体あなたには何歳に見えたのかしら?」
「は、はは。……な、何歳でしょう。み、未知の美貌過ぎて、俺にはなんとも」
「あらそう。そうなの。ふふ、これから仲良くしましょうね。私の事は『ちづる』と呼んでくれて構わないわ。でもちゃんと愛が籠ってないと私、あなたに何してしまうか分からないから、よろしくね?」
一瞬でヒエラルキーが決定した。
背筋を伝う冷たい汗に引き攣った笑みを貼り付け、もう一人を見る。
少し俯きながら口元に手をあて、可愛らしい大きな瞳を心細げに潤ませながらオロオロと左右を見回している少女。色の抜けた茶色のショートヘアを揺らす彼女の顔は少し青白く、その不健康さも相俟って儚げな印象を受けた。
「は、はじめまして。保宜ミオといいます。今日、栄養学科に入学しました」
「君も新入生?」
「は、はい! そうで……っ、げほっごほっ」
「…………大丈夫か?」
「けほけほ、……はい。ご心配お掛けしました」
「いや、別にいいんだけど…………。……君、なに学科って言ってたっけ?」
「栄養学科です」
医者の不養生という言葉を思い出さずにはいれなかった。
それにしても、入学初日にも関わらず俺以外の一年生がいるとはな。このサークル、意外と前評判でも良かったのだろうか?
「二人とも、今日入学したばかりなのにもう入会を決めてるのか?」
「私たちは付属高校からのエスカレーター組なのよ。だから、ここの活動には高校生の時から参加してたわ」
「へぇ、そうなのか」
今でも何の活動してるのかイマイチ分からないけれど、という告白は聞かなかったことにした。
「で、でも高校の校門にイツキ先輩が仁王立ちしてた時はミオ、驚きました」
「あの人は高校生の時からそんなことしてたのか」
「はい。一年生だったミオとちづるちゃんを問答無用で捕まえて、大学に連行していった時のイツキ先輩はもう凄い剣幕で、ミオたち宇宙人に改造されちゃうんじゃないかとヒヤヒヤしてました」
アブダクションを怖がる夢見がちな高校生か。
宇宙人なんてこの世界にいない、という現実を教えてあげるべきか。
「…………、……そうなんだ」
純真無垢な彼女を見ると結局、口には出せなかったが。
「ごめんなさいね。この子、こういう子なのよ」
「ど、どう意味ですかちづるちゃ……っけほ、こほっ」
「あーはいはい。興奮しないのよミオちゃん。向こうで日向ぼっこしましょうねー」
ちづるさんに背中を支えられ、窓際へと連行されていく保宜の背中を見送った俺は、山積している疑問を解消していく作業に移ることにした。
「ところで、いくつか質問があるんですが」
話しかけるのは、ここの代表者らしきフレイ氏だ。
「どうぞ」
「あなたがLDK同好会とやらの会長ですよね?」
「違うよ」
「それじゃあ活動内容を教えてくださ…………い……?」
ちょっと待て。俺は当然の流れとして今の質問をしたんだが、どうも否定の言葉が聞こえた気がした。
「……今、なんと?」
「違うって言ったんだ。ボクはここの顧問だよ。一応、フィン語を教える先生です」
「……。……なら、会長というのは……」
「会長はあたしだ」
例の先輩が挙手した時は本気で殴り飛ばそうかと思った。
「…………なんかさっき、会長は別にいるような口ぶりだった気が、しないでもないんですけど」
「趣向だ」
「……先輩に今度、ささやかなプレゼントを贈ろうと思います」
「ほう、何だ?」
「国語辞典です」
ぜひともそれで日本語を勉強してください。
「分かった、楽しみにしていよう」
皮肉で言ったはずなのに、存外に嬉しそうなのが気になった。
とまあ、こんな調子で会長であることが判明した先輩だが、この人に質問をしていっても明後日の方向からさらに空間転移して地球の裏側にまでテレポートしてしまうだろうことは目に見えているので、俺は顧問であるフレイ氏に目標を定めた。
元々この人に質問するつもりだったんだ。会長から顧問へ、ちょっと肩書きが変わっただけだ。
「それで先生。LDK同好会の活動内容とは?」
「それはね、部屋の間取りについて熱く議論すること」
「…………………………はぁ」
「ウソ。油揚げを世界に広めること」
「…………………………ふぅ」
「それもウソ。日本を救うこと」
「…………………………ほぉ」
「どうでもいいじゃないか、そんなこと」
「投げたな」
「大学のサークルの活動内容なんてあって無いようなものだよ」
「あるのにもかかわらず無いものにしているだけとしか思えません」
「佐田彦名君」
「はい?」
なぜにフルネーム?
「君は、自分の名前をどう思う?」
話の流れが急すぎる気もするのだが。
それにしても、今日はやたらと名前に言及される日だな。高木さんの時といい、このフレイ氏といい。大学生の間で今さら姓名診断でも流行っているのだろうか。
ただ、そこで高木さんに言われた言葉が脳裏をよぎる。
――素敵な名前、か。
俺はこれまで、自分の名前に思い入れなど持ったことがなかった。小学生の時は他の人と違った響きの名前を茶化され、中学生になると渾名が彦根城になり、高校生では意識することすらなくなった。
どちらかというと名前に関して、いい思い出の方が少ない。
しかし今日。自分の名前を褒められた。
あの何とも言えないくすぐったさ。少し恥ずかしく、それ以上に嬉しくもあった。
世の中には色んな人がいるものだ。若干嫌いですらあった自分の名前を素敵と言ってくれる人もいる。
我ながら単純だとは思うが、好きになってもいいかも、とか考えてしまっていた。
だから、こう答えることにした。
「分かりません。でも……嫌いではない、かも知れません」
「そっか。うん、そうか。ならいいんだ」
微笑付きの頷きが返ってきて、何故かホッとしている自分がいた。
なんでだろうな。
とか考えていたら突然、
「よし、合格!」
「また言われた」
「今日から君は、このLDK同好会の一員だ! 顧問であるボクが認める!」
「まだ俺の疑問は何一つ解消していないはずなんだけど」
「気にしないで。じきに気にしていられなくなるから」
「意味深なセリフをマジ笑顔で吐かないでください! ますます入りたくなくなりましたよ!」
「はいダメー、ブブー。君に拒否権はありません」
小学生か。
「という訳で、今日これから懇親会を開きたいと思いまーす!」
どことどう繋がって『という訳で』なのか、俺にご教授願いたい。
すると、ぽんぽん、と肩を叩かれた。そちらを向くと、
「どうだ、気に入りそうか?」
先輩の笑顔があった。
「……さて、どうでしょう」
「まぁ騙されたと思って」
既に稀代の天才詐欺師にまみえてしまった気分です。
「はぁ」
理解した。この人たちと普通の会話をこなすことがどれだけ困難か。
そして、もう一つ理解したことがある。
認めたくはなかった。でも――
どうしてか居心地がいいのだ。この場所が。
御厨斎都姫という先輩は人格破綻しているし、フレイ=エッダとかいう顧問はまともそうに見えてその実標準ラインの遥か上方をかっ飛ばしていく奇人だし。
なのに、彼らと話していると、緊張を解されている自分がいる。言うなれば、途方もない長い時間を共に過ごしてきた、気心の知れた仲間に囲まれているように。
この空間は、この仲間は、楽しいかもしれない。
予感なんて高尚なものじゃなく、もっと漠然とした感覚。
「ブヒ」
そういえば腕に抱いたままだったシュールという名の豚も、いつしか獣臭さも気にならなくなり、今では温もりによるちょっとした安心感があるだけだ。
なんだろう、この気の抜ける感じ。
認めよう。悪くない。
俺だって、新しい環境に初めて飛び込んだ緊張というものは持ち合わせていた。当然だろう。人間だもの。
友達ができるだろうか。ちゃんと人と話せるだろうか。小学校入学当時に不安がっていた心配事を、大学の入学式でも律儀に持ち続けていた俺だが、きっと皆そうだったんじゃないかと思う。ただ、顔に出さない術を憶えただけで。
捨てたくても捨てられないその緊張を、新しく構築した人間関係や、自分のやりたいと思っていた活動などを通して、人は時間を掛けて消化していく。
俺の場合、それはこのLDK同好会のような気がする。
先ほど1対9で否定的な方に傾いていた心境は、既に逆転していた。
不本意ながら、俺はLDK同好会に興味を持ち始めてしまっているようだ。
いや違うな。きっとこれが本意なのだ。
「飲むぞー!」
既に若干頬の赤らんで見えるフレイ氏が、長い銀髪を振り乱しながら拳を突き上げる。
「私たち未成年ですけど」
座椅子に座っていた二人の内、ちづるさんがやんわりと言う。
「ノンアルコールビール!」
「そ、それでも未成年のミオには抵抗があります……」
こちらはもう一人の座椅子組、保宜のアタフタしながらの弁。
この二人とはまだ交わした会話が少ないが、まあこの後の懇親会とやらで話す機会もあるだろう。
「楽しそうだな」
我知らず顔を綻ばせていたところに再び、先輩が声を掛けてきた。さぞしてやったりの顔をしているかと思いきや、年長者らしい落ち着いた笑みを浮かべている。
それを目にした瞬間、ちょっと心臓が高鳴ったりしたのは秘密だ。
「さて、どうでしょう」
「はは、そうか。照れ隠しもほどほどにな」
「…………」
この人には敵いそうにない。
しかし先輩との会話は、思いの外楽しかった。
LDK同好会。少しおかしなメンバーが揃っているけど、面白そうだ。
ここにいることが面白くなければ、こんな心からの笑顔を浮かべられるはずがない。
俺には、特に大学生活を始めるにあたって決まった計画や目標があったわけでもなかった。だったら、ここに飛び込んでしまっても別にいいだろう。
気持ちが固まったなら、後は自分から動くだけだ。
「俺はソフトドリンクでお願いしますよ」
「ええー、つまらないよ佐田君!」
「法律に引っ掛かる問題を『つまらない』って理由だけで片付けないでください。仮にもあなた顧問でしょう」
「うわー、正論過ぎて冷めるよ」
「先生だけが盛り上がり過ぎなんです」
俺とフレイ氏の遣り取りに、会室の彼処から控えめな笑声が漏れる。
ほんのちょっと、自分もLDK同好会の一員になったような気がした。
……結局、活動内容は不明のままだがな。