プロローグ
――たなつもの 百の木草も あまてらす 日の大神の めぐみえてこそ
女性は、大きく取られた窓から外を眺めていた。
木目の鮮やかなアンティークの窓枠が、温かみのある光沢を放つ。木製のもので統一された部屋の内装も豪奢であるが豪奢すぎず、ある一定の節度を持って整えられている。
喧騒などが似合うはずもなく、天井で回るファンの微かな音しか聞こえないこの静謐な空間には、どこか神聖な雰囲気があった。
いやむしろ、その雰囲気は窓際に佇む女性が醸すものだったか。
清漣のような、無限に続くかとも思われる黙。その中に溶け込む妙齢の女性。稀代の天才画家をして放っておかないだろう画が、そこにはあった。
そこに、騒擾を持ち込む人間が現れた。
節操の見当たらない大きな足音を響かせながら近づいてくる人間の正体など、女性には一人しか思い当たらなかった。
出迎える準備をする。
たおやかな右脚を引き、腰を落とす。膝を曲げて力を溜め、後は、扉を開かれた瞬間にそれを解放するだけだ。
足音が近づいてくる。止まる気配がないのもいつものこと。
だから女性は、何の躊躇いもなく床を蹴った。
部屋に似つかわしくない大きな音を立てて扉が開かれる。と同時に、開けた男の鳩尾に女性の両足が突き刺さった。
その手のプロですら惚けてしまいそうなほど、美しいドロップキックだった。
「ぐほうぁ!!」
有名高級ブランドのハイヒール。そのヒールが深々と食い込んでいた。受けた屈強な男はというと、くの字のまましばらく停止し、やがて床に倒れ伏す。
「騒々しいわよ」
「あ、姉上……。……我はまだ、何も……」
「アンタは存在が騒音なのよ。もう少し自己分析を徹底なさい」
「そ、そんなことより姉上!」
早くも痛みから復帰した男が、姉と呼んだ女性ににじり寄った。
「朗報です! ついにこの大学に」
「『猿』が来たんでしょう」
「あ、姉上もご存知で?」
「学長ですもの。それより」
と、そこで女性は笑みを浮かべた。太陽のように晴れやかで、その実永久凍土のように冷え切った、極寒の微笑。
「私はあなたがそれを知っていることの方が疑問なのだけど。まさかあなた、校内でまたアホを晒したんじゃないでしょうね。例えば……そうね、入学式準備の体を装って朔耶に近づく男子がいないかを監視してたとか。確か『猿』は朔耶と同じ、園芸学科の新入生だったものね」
「ぎくっ」
「ふふ、これは折檻が必要かしら」
「ひいぃ!」
女性は男の襟首を掴むと、引き摺りながら引っ張っていく。
向かった先は、部屋の奥にある一際重厚な造りの両開きの扉。
そこに着く頃には、男の表情は綺麗に失せていた。
「全く、あんたが廃人寸前にまで追い詰めた男子のフォローをする身にもなりなさい。お陰で変な噂は立つし、職員の目が痛くてしょうがないわ。今日だってもうすぐ入学式だっていうのに、あんたを躾けるせいで遅れでもしたら、何て言い訳すればいいのかしら」
文句のわりに弾んだ声音を隠すように、重低音を響かせて扉が開く。文字通り一寸先すら闇に包まれたその中に男を放り込み、自身も闇の帳に身を投じた。
どういう仕掛けか、自動で閉じていく扉。
それが閉まりきる直前、女性は面白そうにこう呟いた。
「さて、どうしようかしら。――いえ、どうなるのかしら、ね」
これから、とは唇の動きだけで。
――バタン。
女性の言葉がどういった意味か、誰に向けたものか、それを判じる人間はいない。
動くものは無くなり、そして部屋は静寂を取り戻す。
ふと、開け放していた窓から冷たさの残る風が舞い込む。
その風は、温もりのある部屋を踊りながら、シックな文机に到達する。
そして、とある新入生の書類を楽しげに揺らしたのだった。