9.賢者の迷推理
「ロクシオ・レンデル。……南大陸中央、至大図書館の司書長を代々務めるレンデル公爵家の末子。現当主ラルフ・レンデルと元図書館司書でエルフの、トロネリア・シュメリーとの子。妊娠発覚後、トロネリアは至大図書館を追われ、お腹のロクシオと共にスラムへ……――!? オイオイオイ!! 典型的な駄目親父じゃねぇか!!」
四人が共同生活を始めてからおよそ半年。春の涼しさが名残をとどめる初夏の夕暮れ。
茜色の西日が差し込むリビング・ルームで、グランはとある調査の報告書に目を落としながら、それを一枚、また一枚とめくっては、いちいち大袈裟に反応していた。
「……あら? 読書だなんて珍しいわね。グラン師は、どういう類いの本がお好みなのかしら?」
「うぉおお!!」
集中していたグランの背後からぬっと顔を出してきたのは他でもない、ロクシオ当人。
「噂をすれば影」とは、ドワーフにも伝わる格言だが、いざ現実のものとなると、そのインパクトは強烈である。慌てて閉じた冊子が、グランの手の中でぴょこぴょこと踊った。
「おぉいロクシオ! 家の中で隠微魔法は使うなって、あれほど……――」
「失礼ね。私は、師の教えには従順なの。グラン師、少し耄碌したのかしら? さっきの模擬戦でも、アルのフェイントに釣られそうになってたし」
「奴も確かに腕を上げたが、まだまだだ。あン時は、ちと考え事をしていてな」
「戦闘中に考え事? ……つまり、その本の事よね?」
「な、何だってんだ! 俺が本を読むのが、そんなにおかしいってのか?」
「……そうね。少なくともこの半年、グラン師が文字に触れているのを見たことはないから」
「う、ぐぐ……」
「タイトルの無い薄い本。過剰な集中力に、大袈裟な反応……。概ね理解したわ」
知識の宝庫たるロクシオの洞察力は並外れた物がある。
どうやって取り繕おうかあれこれ考えながら、グランはゴクリと唾を呑み込んだ。
「エロ本ね」
「は?」
鼻先をひくりと動かすロクシオの口から飛び出したのは、意外な単語。グランは下顎が抜けるほどに口をあんぐりと開けて応じた。
「読書中の男がそういう反応を見せる時、手元にあるのは決まってエロ本よ」
「いや、ちが……――」
「言い訳は無用よ! 至大図書館にも春画やそれに類するもの……それに、古代から現代まで官能小説が蔵書されているわ。文化の研究に必要なんですってね? だけど、そのコーナーで夢中になっている男に声をかけると、決まって声を裏返して取り乱して、慌てて本を隠すのよ。何も聞いていないのに『コレハチガウンダー!』って言いながらね。薄ーい人生の中で、一番集中している瞬間だもの。隠微魔法なんて使う必要は無かったわ。バカ共を次々驚かせてやるの。全員同じ反応をして、滑稽極まりなかったわ。……そう、今のグラン師と瓜ふたつよ!」
興奮した様子で、ロクシオは一気に捲し立てた。いつもクールなロクシオにしては珍しく上気し、少し、息も上がっている。
「ロクシオ……さん? 結構なご趣味をお持ちなようで」
「論拠はまだあるわ。中には、タイトルや装丁を偽っているもの、カバーが白紙のものも多かった……。今、グラン師が手にしている物と同じ様なね。生理的なことだから、仕方が無いとは分かっているわ。けれど、うら若い男女が三人もいる家で、堂々そんなものを読むだなんて……軽蔑に値するわ! マリアにも、気をつけるように言っておかないと……」
「い、いや、だから! これは、ちが、ちがうんだぁ!」
「なら、それは何? やましいことが無いなら、私にも見せることができるはずよね?」
「うぇぇ!? おぉ、えっと……だな。それは出来ないというか、なんというか……――」
他でもない、ロクシオに関する調査資料である。
気高くミステリアスで、自身の事を語りたがらないロクシオのことだ。こっそり調査していたと知れれば、十中八九、彼女の逆鱗に触れてしまう。
強敵に挑む前のように、眼を閉じて大きく一呼吸。落ち着きを取り戻したグランは、ある考えに至る――
エロ本と誤認してくれているのなら、かえって好都合だと!
「そうさぁ! コイツはお子様には見せられねぇンだ!」
この場を切り抜けるには、開き直って笑うしかない。そう、できるだけ高らかに。
「……幻滅ね。いえ、元々グラン氏に幻想なんて抱いていないから、ただの滅ね。滅よ。外に葬送の火の術式を用意してあげるわ。その忌まわしい本を抱いて、今すぐそこに飛び込みなさい。そして、ご飯を作るときだけ蘇るといいわ。……私、冴えているわ。最高じゃない! そういう魔法を、今から開発すればいいのよ!」
そう叫ぶとロクシオは、グランに一瞥することも無く背を向ける。
どんどんと床を踏み鳴らして大股で自室に入ると、わざとらしく大きな音を立てて扉を閉め、普段使わない鍵をしっかりと掛けた。
「もの凄い音が聞こえましたが……何事ですか、先生?」
嵐が去り、奇妙な程にしんと静まりかえった空間に、夕方の鍛錬を終えたアルクとマリアリアが戻ってきた。タオルを首にかける二人は、身体から仄かな汗の湯気を立てている。
「おぉ、アルクに、マリアリアか。……その、ロクシオに少し誤解されてしまったというか、何というかな」
「けんか、だめだ、よ!」
右の拳骨を腰に当てた真っ赤な顔のマリアリアが、グランの鼻先に左手の人差し指を突きつけた。
「ああ、すまねぇ、マリアリア。ロクシオには後で謝っておく……――って! 一体俺は何をどう謝ればいいんだぁ?」
グランは困惑していた。少なくともエロ本は読んでいなかったし、何がロクシオの癇に障ったのかよく分からない状況だ。
ロクシオの、あまりの剣幕に呆気にとられ、なんだか謝った方がいいのではという雰囲気に吞まれていただけである。適当に謝ったところで、ロクシオはそれで手打ちにしてくれるような、柔らかい頭を持ってはいない。
「エロ本読んでてごめんなさい……かぁ? いや、別に悪いことじゃないし、そもそも俺はそんなの読んでねぇぞ? 思い込みで言いがかりを付けられたワケだけだから、謝るのはむしろロクシオの方じゃねぇ? 俺を殺して生き返らせる魔法を作とかって、恐ろしいこと言い捨てて行きやがったしなぁ。いや、ここは大人の懐深さを見せる絶好のチャンス……――」
頬杖を突いてブツブツと。思考を纏めようとするグランだが、どうにも上手くいかない。
「この書物は……ああ、そういうことですか。理解しましたよ、グラン先生。先生はロクシオの事を調べていたんですね」
机に置きっぱなしになっていた例の、タイトルの無い薄い本をペラペラとめくり、アルクは一人で頷いていた。
「あいつは自分の事を語らねぇだろ? だから少し……な」
「確かにこれが知れれば、ロクシーは家出してしまうでしょうね」
「だろ?」
「それを誤魔化す過程でロクシーを怒らせてしまったと、そういうわけですか」
「くっく……傑作だぜ? ロクシオの奴、そいつをエロ本だと勝手に思い込みやがってな」
戯けるように、グランは小さく肩をすくめた。
「せんせ……そんなの、好き?」
マリアリアは口元に両手を添え、青ざめたまま一歩、二歩と後ずさりしていく。
「ち、違う! 誤解だって言ってんだろぉが! アルクの言った通りさ。俺は、ギルドのバビルスに調査を依頼したのさ。……ロクシオの情報を集めてくれってな」
「せんせ。どうし、て? ロクちゃん、いい子、だよ?」
「よーく知ってるさ。何かを疑っているわけでもなけりゃあ、別に出自やらなんやら、そんな事を調べたいわけじゃねぇ」
「なら、どうして?」
「……あいつの誕生日とか、好物とかを知りたかっただけなンだ。ずっと悲愴感ただよわせてやがるから、肩の力を少し抜いてやれたら……ってよぉ」
グランは後ろ首に手を添え、恥ずかしさに二人から顔を背けた。
「せんせ。やさしい、ね」
「そ、そんなんじゃねぇ! 単なる気まぐれだ」
「そういうことにしておきますよ、先生。ですが、それにしては大仰な資料に思えますが?」
「調査ってと、バビルスの奴は腕ブン回しやがるンだ……。嫌な予感はしていたが、案の定だぜ。野郎、どうでもいいような情報ばかり載っけて、こんなに分厚い報告書を送りつけてきやがった!」
手にした報告書を、怒りのままグランはテーブルに叩きつける。
「王宮でもよく耳にしました。南大陸全土に広がる冒険者ギルドの、裏の顔……」
「情報屋、だな。依頼という体で、ありとあらゆる情報が勝手に集まってきやがるからな。この報告書ににゃあ、ロクシオの出自はもちろん、得意魔法、身長に体重、服や靴のサイズ、好きな色に好きな本、何を何ページまで読んだか……そんなことまで網羅してあるんだぜ? ロクシオは、ギルドに所属してないだけマシだろうな。俺の調査をしろって頼んだら、飲んだ酒の種類に量、誰にどんな悪態を吐いたかまで、きっちり記録されているだろうぜ!」
腹を抱えて豪快に笑い、グランは続ける。
「……だが、もう十分だ。欲しい情報は手に入ったからよぉ。ほらアルク、今日最後の鍛錬だ。お前の木剣で、こいつを木っ端微塵に切り裂いてやれ」
「本当に良いのですか、グラン先生? ギルド主体の精密な情報調査ともなれば、費用は高額でしょう?」
「ガキがンなこと気にすんな。俺はお前達の事を、一緒にメシを食ったり、鍛錬したりしながら理解してきた。それは、これからも変わンねぇよ。考えてもわかんねぇ部分や、あいつ自身が覚えていない事を少し知りたかった。……ただ、それだけなンだ」
「そういうことなら……。承知しました。先生」
アルクがゆっくりと頷く。
鼻をすんと鳴らしてグランは、少しの躊躇いも無く報告書を宙に放り投げた。
冊子が放物線の頂点で動きを止めた僅かの間。アルクは、薄氷のように薄い加護を纏わせた木剣を幾重にも入れる。
床に降り注いで円錐型の雪山を作ったそれは、もはや一文字も判別できないほどに細断されていた。
「……高級な焚き付けの出来上がりだぜ。ありがとよ、アルク」
「お安いご用です」
「ねえね、せんせ? ロクちゃんの、たんじょび、わかった、の?」
「ああ、バッチリだぜ。本人だって知らねぇだろうな。ロクシオの誕生日は、雨神の月二十七日――」
「えぇ!? ぐ、グラン先生、それって……」
「わ、わ。すごい、ね。ロクちゃん!」
グランが振り向くと、アルクとマリアリアは、目と口をぽっかり開けていた。
その口には拳大のトマトがまるまる入りそうだし、瞼からは空色と翡翠色の眼球がこぼれ落ちてきそうである。