37.聖女のお目覚め
「せんせ。とっても、久しぶり、だね?」
賢者ロクシオが死んでから十年。南大陸から北大陸への定期便が運行されはじめたから随分経つというのに、開拓の足音は未だグランの許には届かない。
そんな、開店休業状態な料理宿への久々の来客は、聖女マリアリアだった。
「久しぶりなんてもンかよ! 前に会ってから十五年だぜ? 生きてんなら、たまには手紙の一つでも寄越せってンだ」
「ごめん、ね。せんせ。わたし、ずっとねてた、の」
「……らしいな。ま、とりあえず入れよ。長旅で疲れただろ?」
気候が改善し、少しずつ人が流れてきたとはいえ、百年以上も魔王の支配圏であった北大陸はまだまだ危険の多い土地だ。最近になってようやく港と、その近くに小さな拠点が整備されたのだと聞く。
ロクシオ亡き今、超高難度である大陸間転移魔法の使い手は世に存在しない。北大陸の中央、秘境とも言える場所にあるグランの料理宿までの旅は、かなりのリスクをはらんでいる。
全盛期であれば、天界から天使を喚び、その背に乗って悠然と来店することも出来ただろう。が、神聖力もほとんど尽き、一線を退いたマリアリアにその力はもう無い。
此度は、聖女を守護する神教会の精鋭騎士を大勢伴っての行軍だ。
マリアリアのすぐ後ろには、白銀フルプレートの騎士達が剣を掲げ、整然と隊列を組んでいる。
「せんせ。少し、待ってて、ね」
「ん? ああ」
マリアリアはグランに背中を向け、騎士達にたどたどしくも事情を説明し始めた。
見た目は随分大人びたマリアリアだが口下手は相変わらずで、ついつい心配になってしまうグランである。
「聖女マリアリア様! かように怪しいドワーフと密室で二人になるなど、うらやま……――こほん! 司教様が決してお許しにはなりませぬ!!」
説明を終え、マリアリアがグランに向き直ったその瞬間、若い騎士が一歩踏み出し、納得のいかない様子で怒声を上げた。
「くっく。……ドワーフ呼ばわりとは久しいぜ。アルクが『平等』を呼びかけてからは初めてか。マリアリア? どうすンだ、あれ?」
「むぅ……。わたし、怒った、よ」
眉間に皺を寄せたマリアリアは、両手を前に突き出す。
「えっ! えぇっ!?」
何も無い空間に生まれた神聖力の光の鎖が瞬く間に男の四肢を絡め取り、その自由を奪った。
「が……ぎぎ……動け、ない……だって? この、僕が――……!」
「せんせと、アル君の、こと。悪く言う人、大っ嫌い!!」
珍しく声を荒らげてそっぽを向き、マリアリアは大股でグランの店にずんずんと入っていく。
「はっは! 悪くない余興だぜ! ……姫君はご立腹ってわけだ。あンたらはしばらくこの辺で時間を潰しててくれ。なあに、心配いらねぇよ、お前達の大切な聖女様を取って食おうなンて気は、さらさらねぇからよ」
「むー……。せんせ、無いの? 残念……」
グランの肩口から、頬を膨らませたマリアリアがひょっこりと顔を出した。
「ば、ばかやろっ! 何度も言ってあるだろぉ! 俺は、ガキには興味が無いってなぁ!」
「わたし。もう、小さく、ない、よ?」
その通り、である。見た目とはまだかけ離れているが、マリアリアも四十を過ぎた。
神聖力の底が見えたことで、停止していた時が動き出したとでもいうのだろうか。グランが唯一勝っていた身長も、いつの間にかすっかり追い越されている。
「……ちっ! 俺の中じゃあ、お前達はガキのままなんだよ」
人差し指で、膨れたマリアリアの頬を押すグラン。ぷすりと、尖った口から空気が抜ける間抜けな音が鳴った。
「アルクのヤツが死んで十年、ロクシオが死んで五年も経つってか? ……ったく、信じられねぇな」
「こられなくて、ごめん、ね。せんせ、寂し、かった?」
「全然、といいたいところだが……正直、寂しかったな。だが、お前達が魔王とやり合ってた十日間に比べれば、ずっと短く感じたぜ?」
店にどれほど閑古鳥が鳴こうとも、彼らの来店を待ちわびる日々をグランは、僅かな時間に感じていた。アルクが魔王に挑むと宣言してからの十日は、出口の見えない迷路のようにすら思えたのに。
「せんせに、いっぱい心配、かけちゃった、ね」
「ああ、一生分だ。あれから時の流れが早いったらねぇぜ」
「わたし、ね。もう、ほとんど、起きて、られない、の。だから、かな? せんせの、ぐちゃぐちゃな、かお、しっかり、覚えてる、よ。きのう、みたい、に」
「ちっ! そういうことは最初に忘れろってンだ」
照れてそっぽを向くグランの視線を追い、マリアリアはくすりと笑った。
聖女は、神聖力の集合体だと言われている。生まれ持つ神聖力が回復することはなく。魔王との戦いで多量の神聖力を行使したマリアリアに、生きるエネルギーはもう殆ど残されていない。
今では、重大な裁定を下す際に司教に起こされ、僅かの間活動するのみだ。
「……魔王と取り引き、か。お前達らしいっちゃあ、らしいがな」
「盟約、だよ?」
「だったな。口約束をきっちり守るとは、お互い律儀なもンだぜ」
戻ったアルク達は口を揃えた。魔王エリシスはあまりに強かったと。本気で戦ったのなら、自分達は数分も保たなかったのだろうと。
なんでも、エリシスは人類史上三人との戦闘すら、一種のコミュニューケーションとして楽しんでいたそうだ。
「お前が言い出したんだったか? 魔王城での……ピクニック」
「負ける、って、わかったら、ね。せんせの、笑顔、ね、思い出し、たの。えへ、へ。そしたら、ね。お腹、すいちゃった、の」
勇者一行が敗北するという予定調和を壊したのは他でもない、グランが持たせた弁当だった。
「最後の記憶が、ひげ面おっさんの笑顔になってたかもってかぁ!? そンなの、悪夢そのものじゃねぇか!」
「あく、む? どうし、て?」
頬に手を添え、たおやかに首を傾げるマリアリア。疑うことを知らないその翡翠色の瞳は、幼い頃と同じように澄み切っている。
「調子狂うぜ……。なンでもねぇよ」
「エリちゃん、ね。優しかった、よ。……いちばんに、仲間の浄化、望んでた。空から来た神様達が、ね。エリちゃんの、かぞく、ともだち……たくさん、殺した、から」
「……どっちが悪者か、分かりゃあしねぇな」
「うん。わたし、ね。眠りながらいっぱい、いっぱい考えた、よ。あのね、せんせ。答え、ない、みたい。みんな、生きたかった、だけ、なの」
「お前達が納得したンなら、それが答えさ。だが、俺は悔しいぜ。あいつらがこんなおっさんより早く逝っちまいやがるとは」
グランは顔をしかめた。
「アル君、ね。聖剣、で、エリちゃんの核、刺す、とき、泣いてた、の。きっと、ね。器に、すきま、出来ちゃった」
「さまよえる魔族の魂を、不完全な器に収めやがったのか。惚れたばかりの女を手にかけたンだ……仕方ねぇ。つまりは、それが『呪い』の正体、だな」
「……うん。でも、ね、アル君、まよわ、なかった、よ」
「アイツらしぃぜ。……だが、ロクシオの事は、俺が気付いてやれなかったせいだ! 今でも俺は悔やんで――」
「せんせ、知ってる、くせに。ロクちゃん、ね。せんせ、守った、の。大好き、だから。わたし、も、ね。止められ、なかった、の」
珍しく、マリアリアがグランの言葉に蓋をする。
「バカ、ヤロウ……。本物のバカヤロウ揃いだぜ、俺の弟子はよぉ」
「ごめん、ね」
二人が押し黙ったまま、時が流れる。
淹れたばかりのハーブティーから立ち上っていた湯気だって、とうに消え去った。




