15.船旅
第二章、開始です。よろしくお願いします。
旅立ちからまる二年。
かつて大陸最強の戦士であったグランと、それを上回る三人の新たな英雄とが呼吸と力を合わせたのだから、南大陸の旅路は順調そのものだった。
一行の姿は今、北大陸に渡る小さな帆船の上。目的とする岬まであと数日と迫った、ある弓張り月の夜のこと――
「せんせ。せんせぇー……」
「オイオイ、こんな時間にどうしたってんだ、マリアリア! 今夜は俺とロズ船長が見張りの番だぜ!? お前は明日に備えて身体を休めてろって――」
海面に映る月の道にも、群青のキャンパスに散らばる満天の星にも引けを取らない美しさを湛えた秋桜色の少女が、甲板をふらつきながらグランの許へやって来た。
「せんせ……。せんせ? ……あの、ね」
「あー……そうか。寝ぼけてやがンのか、コイツ。このパターン、面倒な事にならなきゃいいが」
デッキチェアに深く腰掛け、薄く切って揚げたジャガイモをあてに、船長ロズと上機嫌にラム酒をあおっていたグラン。
そのすぐ隣に、旅の途中でグランが買い与えた花柄の、可愛らしい寝間着に身を包んだマリアリアがぴたっと身体を寄せた。
彼女が好んで付けている、森の花々から抽出した爽やかなコロンの香りが、湿っぽい海風に乗ってグランの鼻腔をくすぐった。
数週間ににわたる洋上生活でとうに新鮮味を失った潮の香りの中、それはひときわ強い存在感を示すのだ。
「おーおー。さすが、『傑剣』のグラン殿はモテますなぁ! ……ではでは、邪魔者は退散するといたしましょう――」
キャプテンハットを深く被り、夜だというのに色眼鏡。長い髭と帽子から覗く後ろ髪は白銀で、海風と日光によってすっかり痛んでしまっている。
そんな、ザ・海の男という出で立ちの初老男ロズ船長。彼は悪戯な笑みを浮かべてラム酒の瓶を左手に掴み、デッキチェアから立ち上がろうと、肘掛けに右手を突いた。
「い、行かないでくれよ、ロズ船長! マリアリアはなぁ、寝ぼけるとくせ者なんだ! 証人になってくれ、証人が必要なんだ!!」
「はて、証人……? それに、麗しの聖女様がくせ者ですってかい!?」
「ああ! マズいんだ! こいつぁ夢遊病ってか……なんでも、神様が降りてくるとかでよぉ。一度だけ、それもたった数分だぜ? こんな感じでくっついたまま、うたた寝てしちまったことがあってな――……」
「ほう、ほう。それは何ともうらやましい。つまりはノロケ話ってわけですかい!」
ロズは嗄れた声でけらけらと笑う。
「馬鹿言うなよ、船長! そン時、運悪くロクシオに見られちまってよぉ……。世にも恐ろしい目に遭ったンだぜ。それ以来、こうなった時はアルクのヤツをたたき起こして、証人になってもらうことにしてるのさ! ちっ! この俺様が、年端もいかねぇガキなんぞに欲情するかってンだ!」
「せんせ? わたし、もう、十七さい、だよ?」
「はっはぁ! 積極的な聖女様もまたいいもんだねぇ。今のうちに見直してやるのもアリなんじゃねぇですかい、せーんせ?」
「ばッ……! ロズ、こンの野郎……――って、マリアリアてめぇ、起きてやがンのか!?」
「えへ、へ」
マリアリアは白く小さな手で後ろ首をぽろぽりと掻きながら、眼を細めている。何かを誤魔化すときは、いつもこうなのだ。
やれやれとグランは首を振り、深くため息を吐いた。
「目が覚めたってンなら仕方がねぇか……。話し相手になってやるからよぉ、まずは自分の席に座るんだな」
「うん。わかった、よ」
南大陸から北大陸までの航海は長い。順調にいってもふた月はかかってしまう。
航路には、視界が極度に悪く、コンパスも役に立たない『霧の迷路』や、海底火山から噴き出す水柱が行く手を阻む『大王烏賊の監獄』。さらには、浅瀬と砂州がグラデーションを成す『浅瀬の波濤』などの難所がいくつもある上、海洋性の強力な魔物も目白押しで気が抜けない。
反面、暇な時間を長く感じるのも、航海というものである。
海を眺めて間食や読書、昼寝などが出来るデッキチェアは暇つぶしの良き戦友だ。甲板には人数分が、常に並べられていた。
「……せんせ、あのね。わたし、夢、みたの」
グランの右隣、マイチェアにちょこんと正座したマリアリアが、さっそく口を開く。
「ああ? 夢だとぉ? お前が見る夢ってと、あの……――」
「予知夢ね。聖女の特性の一つよ。神聖力で活動する聖女は、私たちとは違って、普通は夢なんか見ないわ。……つまり、マリアの夢は、神の託宣である可能性が高い」
「僕達が『勇者』として選ばれたのも、マリーの夢に、僕達の姿が出てきたからだと聞きました」
「それだ……――って! ロクシオ、アルクまで!? てめぇらも、起きやがったのか! ……大丈夫かぁ? 今日は難所を越えるんだぜ?」
いつの間にか船室から出てきていた二人も、頭を抱えるグランのことなど少しも気にも掛けず、澄ました顔で自身のチェアに深く腰掛けた。ちなみに、ロクシオはグランの左隣、アルクは更にその横である。
「不覚だったわ。まさか、マリアにポーカーで負けちゃうだなんて。……でも、勝負は勝負でしょう? それで今夜は、マリアがベッドの上の段を取ったのよ」
「かった、の。はじめて!」
「次はないわ。……案の定、降ってきたのよ、その子。猫みたいにうろうろした挙げ句、あちこちに身体をぶつけて『うみゅー……』とか『むにゃー!!』とか大声で叫ぶのよ。おかげで、すっかり目が覚めちゃった」
半月の雌黄に映える艶深い漆黒を手櫛で梳かしながら、ロクシオは大あくびを一つ。
「右に同じです。……少し早いですが、おはようございます。グラン先生、ロズ船長」
「おはよう、勇者殿! 狭い船で申し訳ないねぇ。あっしも若い頃は、相部屋の仲間に何度も蹴り出されたものさ。どうやら、いびきがうるさいらしくってね」
「……船長室の防音だけ妙にしっかりしている理由、今わかったわ」
「何なら部屋を変わろうかい、賢者殿?」
「ありがたい申し出だけど、遠慮しておくわ。四人同じ部屋で寝ることは慣れているし。それに……――」
「それに?」
「……少し、安心するの」
「だね」
指先をあわせ、頬を染めるロクシオの横顔を見、アルクは少し口端を上げて頷く。
ロズは月に向かって大口を開け、愉悦に笑った。
「それで、『目覚まし』のマリアリアさんよぉ。今夜はどんな予知夢を見たってんだ? ……ヤバいのか?」
「夢、ね。エビ、みた、よ。おっきい、の!」
「ま、まさか、デカい海老型の魔物でも出やがるってのかぁ!?」
墨染めの夜の海を見回し、グランは叫んだ。