11.聖女のひらめき
買い出しから帰ってきたアルクの前には、眼を閉じて呼吸を整えるグランの姿があった。
同居人が増えたことで、グラン家の調理器材は着々とバージョンアップしている。
今、テラスのテーブル中央に鎮座している可搬型の巨大な長方形の焜炉もその一つで、グランが珪藻土岩から切り出してきた逸品だ。その上には、熱伝導が良いようにと、厚めに作られた銅板。これもまた、グラン自ら槌を振るった特製の品である。
いずれも、三人を喜ばせるつもりでグランがこっそり準備した道具。しかし、制作のために行き先も告げず、一週間も家を空けたグランを待っていたのは称賛ではなく受難だった。
手始めに、玄関先でアルクにたっぷり絞られ、挙げ句「反省して下さい!」と、家から閉め出された。ようやく家に入れても、ロクシオにぽかぽかと何度も叩かれ、挙げ句、何日も口をきいてもらえなかった。
無論、より美味いメシが食えると聞くと、さっと掌を返したのだが。
焜炉で熱した銅板の上に肉や野菜を並べて焼き、グラン特製のニンニクショウユだれで、炊きたての白米とともに食べると、まさに至高。
簡単だが美味く、疲れた身体に肉の脂と、滋味深いニンニクが染み渡る。部屋と吐息に芳醇な香りが一週間は残るのだが……。そんな事は、お互い罵り合って、笑い飛ばしてしまえばいい。
そんなあれこれを思い出しほくそ笑み、グランはもう一度大きく息を吸い込んだ。
「よぉし……やるぜ!」
叫び、かっと眼を見開いたグランの前には、短い間に使い込まれ、既に黒く歴戦の色となった銅板。十分に予熱されており、準備は万端だ。
夜風が焜炉の側面に開けられた空気穴を通り抜けていく。樫の炭はちりんちりんと涼やかな音を鳴らし、青いとろりとした炎を立ち上げた。
グランの手元にある陶製の器には、コムギコをカツオとコンブの出汁で溶いた生地。そこへ、宵の畑から取ってきたばかりの、夜露が煌めくキャベツをざく切りにし、山と投入。
天辺に二つ落とした卵と一緒に、木匙でざっくり混ぜていく。キャベツと生地、そして澄んだ空気が纏まっていく様子は、織物の糸が絡み合って、一枚の布を作り出しているかのよう。
すっかり姿を変えた生地を、ラードをまんべんなく引いた銅板の上へ、少し高い位置から流し入れる――
ジュワッと弾ける瑞々しい音とともにそれは、夏の夜空に打ち上げられた花火のように、綺麗なまん丸に開いた。
樫の炭火が銅板を通して生地に熱を与えると、ふわりと出汁の魚介の香りが立ち、グランとアルクの鼻腔をくすぐった。刺激を受け、自然と開く瞳孔。脳がよだれを垂らしているようだ。
生地の上には、特別な日のためにと、南方商人から大枚をはたいて買い求めた黄金豚のベーコンを惜しげも無く敷き詰め、しばし待つ――……
目線の高さを合わせ、獲物を狙うハンターの様にその変化を凝視する二人。
じゅうじゅうと、一時は賑やかだった銅板のステージはやがて、根負けしたのかのようにすっかり静まりかえった。
「勝負ッ!」
立ち上がって息を吐き、鉄製のへらを両手に持ったグランは、ひと思いにそれをひっくり返す――
初夏の小麦畑のような黄金色の、美しくまあるい花が銅板の上にぱっと咲いた。
間髪容れずに、銅板と触れた黄金豚のベーコンがじゅわじゅわと新たな音楽を奏で始める。出汁の焼けたほろ甘い香りの煙幕が去れば、いよいよ調理はクライマックスだ。
▽
「……この料理、最ッッッ高に美味しいですよ!! グラン先生!!」
どろりソースを口元に、歯に一片のアオノリを残したアルクが珍しく声を張り上げた。
フレッシュな食感を出すため、荒くみじん切りにされたキャベツに、旨味の強い黄金豚ベーコン。魚介の優しい出汁が利いた生地が大海のごとき包容力でそれら受けとめ、卵が膨らみを与えて調和を整えている。
仕上げに乗せたグラン特製どろりソースのコク、誘うように踊り舞うカツオ節の香ばしさ、海を思わせるアオノリの爽やかさにほろ苦、紅ショウガの酸味が合わされば、まさしく渾然一体の美味。
「ああ。我ながら上出来だぜ。だが……少し、少し違うんだ」
「違う……ですか?」
「食感だ。言ったろ? 外はカリッと、中はもっちりしていたってな……。味は、超えたといってもいいほどだぜ。だがコイツは、オルサックで食ったものとは、明らかにちげぇンだ」
ぺろりと一枚平らげ、オルサック料理のお供として欠かせない冷えたエールをきゅっと飲ったあと、グランは両肘を突いて頭を抱えた。
「そう……ですか。納得できないなら、出すべきではありませんね。ロクシオはこだわりが強いですから」
「あいつは、一匙の醤油の増減だって見逃してくれねぇンだ! ……ちくしょう! もう一回だ!! おぉい、アルク! 氷室からありったけの食材を持ってきてくれぇ!」
「はいっ! わかりました!」
姿勢を正し、戯けて敬礼などしたアルクは、微笑みをこぼしながら氷室へ向かうのだ。
▽
すっかり日は落ち、三日月が西に、群青の空を引き連れて姿を現した。
コムギコや卵、出汁の種類や量はもちろん、キャベツの刻み方や具のバリエーション、ひっくり返すタイミングなど、グランは何度も試作を繰り返していた。
「だぁー!! これも違うぜ! 味は文句ねぇんだがよぉ!」
もう、何枚食べたか分からないほどだ。
幸いグランもアルクも大食漢で、加え、今日の訓練はハードだった。二人の胃の容量には、まだまだ余裕がある。
「ごちそうさま。ねえ、グラン先生。……何かヒントはありませんか? 一口に食感と言っても、色々ありますよ」
「ぐぅう……。上手くは言えねぇが、生地の膨らみとか柔らかさが違ぇンだ」
「もちもち、ふっくら……それに、表面の僅かな焦げ。焼きたてのスポンジケーキを想起しますね。王宮のキッチンで、兄とつまみ食いした事を思い出します」
「おぉ! 確かにそうだ! 王都のケーキに似てやがったンだ! だからこそ、俺はこの料理が、ロクシオの誕生日に相応しいって、ピンと来たのさ!」
「けーき? メレンゲ。ふっくら、おいしい、よ?」
「ぅぉお!!」
ぽそぽそと言葉を紡ぎながら、秋桜色のマリアリアが、グランの肩口からひょっこりと顔を覗かせた。
「……なんだ、マリアリアかよ、脅かすんじゃねぇよ」
「えへ、へ。せんせ、びっくり。だいせい、こう!」
「お帰り、マリー。スズランの花は見つかったかい?」
「うん。ばっちり。あと、ね。すてきなの、みつけた、の。ロクちゃん、たんじょびに、ぴったり!」
誇らしげに顎を上げ、マリアリアは蓋の閉じられた竹の網カゴを両手で掲げてみせた。
「素敵な物、だとぉ……? なんだ、そいつぁ? 中から、ガサガサって不穏な聞こえるが――」
そのカゴに耳をピタリと付けたグランの耳には、聞き慣れない小さな音が聞こえてくる。
「ないしょ、だよー。ロクちゃん、みんな、おどかす、の」
慌ててマリアリアは籠をひょいっと取り上げ、小さな胸にそれを抱いた。
「……お、おい、マリアリア。お前、さっきなんて言ったンだ?」
「ロクちゃん、おどかす、の?」
「確かにそうも言った。だが、もっと前だ」
マリアリアの小さな両肩に、ゴツゴツの手を添えるグラン。彼女は翡翠色の瞳をまん丸にして、一生懸命に思考を巡らせる。
「……え、と。メレンゲ。ふっくら、おいしい、よ?」
「それだぁあ!! メレンゲ!! 最後のピースはそいつだぜ、マリアリア!! おめぇ、最高じゃねぇか!!」
興奮のグランは、マリアリアの身体を大きく前後に揺さぶった。
「……あわ、わ」
無抵抗でなされるがまま。マリアリアはくるくると眼を回している。
「メレンゲ……ですか。確か、卵白を泡立てたものですよね? ケーキ、膨らみ……――そうか!」
「かっか! アルクも少しは分かるようになってきやがったなぁ! マリアリアの言った通りさ。メレンゲを使えばコイツを、ふわっふわに仕上げられるはずだぜ!」
「そうだ、先生! ドッヂ・オーブンを使えば形も綺麗な丸になりますよ! それに、よりふっくら膨らむとも思いませんか!?」
「……冴えてやがンな! いいぜ、ソイツも採用だ!」
「やった!」
空色の瞳を輝かせるアルクの鼻先に、ビシッと親指を突き立てて微笑むグラン。
アルクは両手の拳を強く握って応じる。
「くっく……。甘みも色気の欠片もないケーキだがよ、記憶には残ンだろ」
「きっと、人生で一番の思い出になりますよ!」
「違いねぇ! にしても、ロクシオはツイてやがる! 今夜は珍しく雲雲鳥が卵を産みやがったンだ。ソイツを使えばきっと絶品だぜ!」
「モクモクドリ……? ああ、鶏舎に一羽だけいる、あの真っ白な鳥! 卵を産むんですか!? あの子、いつも寝いるので、グラン先生が趣味で飼っていると思っていました」
「力を溜めてやがンだよ。かっか! 隙あらば眠る、どっかの聖女様に似てると思わねぇか?」
「えへ、へ」
二人の視線を集め、照れくさそうに後ろ首をぽりぽりと掻くマリアリアの眼は、眠気で虚ろになっている。立ったまま眠ることも、ままあるマリアリアだ。
「モクモクドリは、半年に一つだけ卵を産むんだがよぉ。ソイツは黄身? まで真っ白でなぁ。俺はやったことがねぇがよ、泡立てると雲みたいにきめ細かい泡が、モクモクって、沸き立つように生まれるらしぃぜ」
「それが、モクモクドリの由来ですか。なるほど、僕達の『ケーキ』作りにぴったりですね、グラン先生!!」
「抜群だろ? ……だが、正直言うと少し惜しい」
「え?」
「モクモクドリの卵はよぉ、目ン玉が飛び出るほど高く売れるのさ。報せれば、ロームってパティシエが真夜中だろうと飛んで来やがる。金貨をどっさり持ってな」
「王都一のパティシエと名高い方ですね。王宮のパーティーで、何度かお見かけしたことがあります」
「お前達のおかげで、俺も金にガツガツする必要も無くなったからよぉ。これも一つの恩返しって割り切ることにするぜ! ……当然、卵一つじゃあ、借りたモンにはまだまだ足りねぇが!」
豪快に笑うグランはアルクの銀髪に手を置き、がしゃがしゃとそれをかき交ぜる。
「……出過ぎた真似でした。思い出すと、顔から火が噴き出しそうです。グラン先生の人柄を知りもせず、僕はただ一方的に――」
「気にすンな! 囚われていたのは事実なンだからよ。まあ、ンなこと今はどうでもいいってな! 日付が変わったら終いだ、早速始めるぜ! アルクはボウルと泡だて器、砂糖を持って来てくれ。……ああ、覚悟を忘れンなよ」
「覚悟……ですか?」
「ったりめぇだ! なんたって、メレンゲを立てるのは重労働だからよぉ。ロクシオの風魔法なら一瞬だろうが、今日ばかりは頼れねぇ。修行だと思って、気合い入れてけ!」
「はいっ!」
「……せんせ。せんせ? わたし、は?」
「お手柄だったからな。お前はちょっと寝てろ。マリアリアをたっぷり祝ってやらねぇと、だろ?」
「うん! わかった、よ」
マリアリアは、左手を握って空に突き上げ、ふんすと息を吐いた。すぐさまぱたぱたと小走りでテラスの長椅子に横たわり、敷いてある織布に包まる。
小動物のような愛らしい姿を見、グランとアルクは眼を見合わせて優しく微笑むのだった。