【86】反射神経を鍛えたい!
―――なんか、怖い夢を見た。
包丁を持ったお化けに追いかけられる夢だ。最終的に崖みたいな所から落ち、ビクッとして目が覚めた。
目をぱちくりさせて隣を見ると、リュカオンがスヤスヤ寝ていた。そうだった、リュカオンとお昼寝してたんだよね。
よかった、夢で。
ホッと胸を撫で下ろす。怖い夢を見たせいで若干目元が湿ってるよ。
「シャノン様? どうしましたか?」
ちょうど私の布団を掛け直そうとしていたらしい侍女のラナが私の顔を覗き込む。
「らなぁ」
手を突き出すと、ラナはヒョイっと掛布団ごと私を抱き上げてくれた。
「どうしましたシャノン様、怖い夢でも見ましたか?」
「うん、包丁を持ったお化けに追いかけられる夢」
「それはまた、お化けの割に随分現実的な凶器を使いますね」
ポンポンと私の背中を撫でて落ち着かせてくれるラナ。
「こうしてるとシャノン様のお小さい頃を思い出しますね。昔はしょっちゅう怖い夢を見たと私達のベッドに潜り込んできていましたから」
「そんなこともあったねぇ」
そういえば、昔はぴぃぴぃ泣いてはしょっちゅう誰かに抱っこされてた気がする。
人のベッドに潜り込んでたのは怖い夢を見たのもそうだけど、単純に誰かと一緒に寝たかったんじゃないかな、昔の私。
そんなことを考えているとラナが私の目元を拭ってくれた。そしてそのままむぎゅむぎゅと抱き締められる。
「うふふ、シャノン様は今日もかわいいですね」
そう言ってラナは私の髪の毛に顔を埋めた。
……おお、吸われておる。
吸われるのは久しぶりかもしれない。最近は私がリュカオンを吸う側だから。
昔は分からなかったけど今は分かるよ、癒されるんだよね。存分に吸っていいよ。
されるがままになる私。
ラナに抱き締められていると、次第に怖さが薄れてきた。
うんうん、皇妃たるものお化けにびびってちゃだめだよね。お化けくらい自力で撃退できるようにならないと。お化けなんかに負けてられない。
「ラナ、私頑張るね」
ラナはきょとんとしてたけど、すぐに「はい、頑張って下さいまし」と応援してくれた。
体力の伸びしろはゼロだけど、反射神経はまだ鍛えられるはずだ。
なので反射神経を鍛えたいとリュカオンに言うと、微妙な顔をしつつも頷いてくれた。
「まあ、この先何があるか分からぬし訓練をしておくに越したことはないだろう」
「……リュカオン、どうせ無理だろうって顔してるよ」
「……シャノンの絶望的な反射神経が今更鍛えられるとは思えない」
「正直だねリュカオン。私も正直ちょっとだけ思ったけど言わなかったのに」
何事もやってみないことには分からないからね!
と、いうわけで、まずは私の反射神経がどんなものかを、私考案の方法でテストしてみることになった。
「セレスお願い」
「む、無理ですシャノン様、シャノン様に向けてボールを投げるなんて……!」
若干涙目のセレスがフルフルと首を横に振る。
う~ん、こんな光景を見られたらセレスのお兄ちゃんズに怒られちゃいそうだ。幸いにも今はルークもオーウェンもこの部屋にはいないけど。
でもこんなに嫌がっているセレスに無理強いをするのは可哀想だ。
「リュカオンの手じゃあボールは投げられないしねぇ」
「旦那に頼め旦那に。シャノンの頼みなら喜んで聞いてくれるだろう」
「えー、でもフィズって笑顔で剛速球投げてくるイメージない? ゴムボールとはいえ、当たったら私一溜まりもないよ?」
「シャノンの中で奴のイメージはどうなってるんだ……」
「……」
「黙るな」
フィズは私の中でフィジカル最強の人だ。
ただ、別に私だってフィズが本気で私の首を獲りに来ると思ってるわけではない。こんなことに忙しいフィズを付き合わせるのが申し訳ないっていうか……。
むぅ。
黙っていると、先にリュカオンが折れてくれた。
「……仕方がない、じゃあ暇でいつでもシャノンの相手をしてくれそうな奴のところに行こう」
「そんな都合のいい人いる?」
思いつかないけど。
そんな私に「いる」と自信満々に言うリュカオン。
そんなリュカオンがバケツに入ったゴムボールと私を携えて向かった先は―――神聖図書館だった。
「おや、シャノンちゃんに神獣様、いらっしゃい」
転移した私達を出迎えてくれたのは、神聖図書館の住人でミスティ教の教皇でもあるおじ様だった。
こんなに若々しい見た目の青年をおじ様って呼ぶのはまだ少し抵抗があるけど本人たっての希望だからね。
「おじ様お久しぶりです!」
「久しぶりですね。会えて嬉しいですよ」
向かい合うようにして両手を繋ぎ、くるくると回る私達。
「似たもの同士だのう」
そんな私達を見てリュカオンが呟く。
「お二人とも今日はどうしたんですか?」
「今日はおじ様にお願いごとがあってきたんです」
「お願い事……僕で力になれますかね。お二人を歓迎することしかできないと思いますけど」
歓迎はしてくれるんだ。
「なに、そんな難しいことではない、シャノンが反射神経を鍛えたいというので暇そうなそなたに付き合ってもらおうかと思ってな」
「こらリュカオン」
リュカオン、ストレートすぎる。面と向かって暇そうって言うなんて。一応目の前にいるのは教皇さんだぞ。
……まあ、たしかにおじ様が仕事をしてるところは見たことないけど。
「いいんですよシャノンちゃん。暇なのは事実ですから。教皇ともなると生きてるだけで尊いらしいので」
「なにそれ羨ましい」
人生の目標が目の前にいた。
思わず尊敬の眼差しをおじ様に向ける。
「おじ様、すごい……」
「なにが刺さったのか分かりませんけどありがとうございます。なにも仕事がないっていうのもやることがなくて退屈は退屈なんですけどね。だから来てくれて嬉しいですよ。では、とりあえず部屋を移動しましょう」
そして私達が移動したのは、いつもの応接室とは違う家具の少ないガランとした部屋だった。しかも応接室よりも広い。運動するならとおじ様が気を利かせてくれたのだ。
見たところ、ここはおじ様のプライベートゾーンっぽいけど、この図書館ってどれだけ部屋があるんだろう。地下に繋がる階段っぽいのもあったし、外観よりも広そうだ。いつか探検してみたいな。
「ところで、シャノンちゃんの反射神経を鍛えるって言っても僕はなにをすればいいんですか? このくらいの広さの部屋なら離宮にもありますよね?」
そう言って首を傾げるおじ様に、リュカオンはゴムボールで満たされたバケツの取っ手を口で咥えて差し出した。
「ん」
「なんですかこれ」
そのままだとリュカオンが喋れないのでとりあえす受け取るおじ様。
「見ての通りゴムボールだ」
「嫌な予感がするんですけど、一応どうやって使うか聞いても?」
「シャノンに向けてゴムボールを投げてそれをシャノンが避ける」
「うんうん」
リュカオンの完璧な説明をコクコクと頷きながら聞く。
だけど、おじ様はリュカオンが言い終わるや否や絶句顔になっていた。
「それを僕にやれと……?」
「うむ、使用人には恐れ多くてとてもできないと言われてしまってな。だから年がら年中暇してるであろうそなたに頼むことにしたのだ」
「こんなに愛くるしい生物に物を投げるなんて無理なんですけど」
「なに、シャノンが避けるための訓練だから問題ないだろう。どうせ当たらぬのだから」
「いやいや問題あるでしょう。シャノンちゃんが一つでも避けられると思いますか? というか、神獣様だって手は使えなくても魔法でボールを投げることくらいはちょちょいのちょいでしょう」
「シャノンにボールなんか避けられるわけないだろう。可愛いシャノンに物をぶつけることなど我には出来ぬ」
「言ってることがコロッコロ変わってますよ」
テンポの良い言葉のキャッチボールが目の前で交わされる。
私、おじ様にもボール一つ避けられないと思われてるんだ……。
おじ様の前で絶望的な運動神経を披露したことはないと思うけど、どうやらおじ様の中でも私の運動神経のなさは確定的なものになっているらしい。
「大体、シャノンちゃんには何でも言うことを聞いてくれそうな彼が……」
フィズのことを思い浮かべているであろうおじ様の語気が途中で弱くなる。
「……彼は駄目ですね、ボールが当たったらシャノンちゃんの頭が吹っ飛びます」
「やっぱり?」
「ええ、彼のフィジカルは本当に人間なのか疑わしくなるレベルなので」
私の旦那様、人間なのか疑われちゃってるよ……。
とにかく、おじ様が最後の希望なので断られるわけにはいかない。
断られないようにお願いお願いすると、おじ様は心底気が進まない様子ではあるけど了承してくれた。
渋々了承したおじ様が床に崩れ落ちて項垂れる。
「シャノンちゃんのお願いに負けました」
「ふん、シャノンのお願いに勝てるわけないだろう」
「……神獣様、僕がシャノンちゃんのおねだりを断れないのを分かってここに来ましたね」
なんと、策士だねリュカオン。
見事に嵌められたおじ様は、恨めし気にリュカオンを見上げていた。
「―――はい、いつでもどうぞ」
おじ様から少し離れた所で仁王立ちをして合図をする。準備は万端だ。
「……」
死んだ顔でバケツをぶら下げたおじ様がボールを一つ手に取った。
「じゃあいきますよ」
コロコロ……。
「……」
私並の鈍足で転がって来たボールをヒョイっと避ける。
「おじ様、これじゃあさすがの私でも避けられます。もっとこう、ぽーんと投げてくださいな」
「……分かった」
意を決したように一度目を閉じ、開くおじ様。そしておじ様はゴムボールを振りかぶった。
「あうっ」
弧を描いたボールが見事、私の額にヒットする。
……おかしい、ボールが飛んでくるのは見えてたのに気付いたらぶつかってた。
全く痛くないけど。ボールが柔らかいのもあるし、おじ様が大分手加減してるのもあるんだろう。
みじんも痛まない額を擦りながら考える。なるほど、動き出しがちょっと遅かったんだね。反省反省。次はもっと早く動き出さないと。
「おじ様、次お願いします! 次からは連続で!!」
「……あ、うん」
気乗りしなさそうな様子のおじ様だけど、一度了承したのだからとバケツの中が空になるまで付き合ってくれた。
ちなみに、私の戦績は全発命中。つまりは一個も避けられなかった。きっとおじ様のコントロールがいいんだろう。
避けようとしても気付けば当たってるのだ。不思議。
このままではいけないと、私はまだまだ訓練を続けるつもりでいた。だけど、私よりも先におじ様が折れた。おじ様というか、おじ様の心が折れた。
「もう無理です。これ以上シャノンちゃんにボールを当て続けることなんてできません。心が死にます」
座り込み、床に両手をつけて項垂れるおじ様。この光景をミスティ教の人達が見たら発狂ものだろうな……。
そんなおじ様の肩をリュカオンが前脚でポンと叩く。
「うむ、そなたはよく頑張った。我にもできぬことを成し遂げたのだ。誇れ、そしてゆっくり休むがいい」
「神獣様……」
……なんか感動のシーンみたいになってるけど、そこまでのことしてないよね?
言ってみれば軽いボール遊びなのに大袈裟な。
「―――でもシャノンちゃん、どうして急に反射神経を鍛えようと思ったんですか?」
おじ様に問いかけられる。
「それはねぇ……」
あれ? なんでだっけ。
ド忘れしちゃった。割とくだらない理由だったのは覚えてるんだけど。
う~ん……あ、思い出した!
「そうだ、包丁を持ったお化けに追いかけ回される夢を見たから、お化けに負けないくらい強くなりたいと思ったの」
それでまずは反射神経を鍛えようと思ったんだよね。包丁くらいは避けられるように。
そう伝えるとおじ様は両手で顔を覆って悶え出した。
「うぅ、かわいい。くだらない動機だけどお化けに負けないように鍛えようとするシャノンちゃんかわいい……!」
しっかりくだらないって言ったね。その通りだから全然いいけど。
「シャノン」
「なあにリュカオン」
真剣な顔のリュカオンがしっかりと私を見据えて口を開く。
「お化けなど我がいくらでもやっつけてやるから無謀な訓練は止めような。正直、お化けとやらが出るよりもシャノンが妙な方法で鍛えようとする方が心臓に悪いことが分かった」
「あ、はい」
訓練中静かだと思ったら、私が怪我をしそうになったらすぐに魔法を使えるように見守ってくれていたらしい。
お化けよりも私が無謀な訓練で怪我をする方が神獣様の肝を冷やすそうです。
―――これ、ある意味お化けに勝ったのでは……?





