【75】皇帝という男 sideアダム
【アダム(皇帝の側近)視点】
俺が陛下に初めて会ったのは、俺が十六、陛下が十二歳の時のことだった。
「―――グァッ!!」
ちょうど日が暮れた頃、俺は魔獣の一撃を浴びて吹っ飛ばされ、背中を木に打ち付けた。
その時の辺境は今よりもずっと魔獣が多く、そして強かった。
当時、自分には剣の才能があると信じて疑わなかった俺は、自分で志願して辺境に向かった。辺境の魔獣退治で手柄を立ててやろうと思ったのもあるが、帝都の汚い貴族のやつらにうんざりしたのもある。
俺は綺麗なものが好きだ。それは人間でも物でも同じ。だから、性根の醜い貴族達が大勢いる帝都にいるのは耐えられなかったんだ。
だが、逃げた先の辺境もそこまでいい場所ではなかった。
場所は辺境の森の中。
木に背中を打ち付けたせいか、痛みで上手く呼吸ができない。だが今は魔獣との戦闘中、呑気に呼吸を整えている場合じゃない。
死に物狂いで肺に空気を取り込む俺の上に、巨大な影が差し迫った。
―――ああ、俺、死ぬのか……。
自分の死を覚悟しつつも、俺の手は無意識に自分の剣を握りしめていた。その時何を考えていたかはあまり覚えていないが、まだ生きている仲間達のために目の前の魔獣に一太刀でも浴びせられたらと思ったんだろう。
次の瞬間、俺の前を何かが横切ったと思えば、今にも俺を襲わんとしていた魔獣が地に伏していた。
「……へ?」
「あはは、なに間抜けな声出してるの? 天国にいる気分になるのはまだ早いんじゃない?」
目にもとまらぬ速さで魔獣を下したその少年は、満月をバックにし、天使のような顔で毒を吐いた。
その姿は余りにも綺麗で、実は俺はもう死んでいて、天国に来てしまったんじゃないかと錯覚するほどだった。
そして、少年はそのまま俺達が苦戦していた魔獣をバッタバッタとなぎ倒していく。
まだ身長は150cmを少し超えたあたりといったところか。それに、そのスラリとした体付きのどこにこんな力が眠っているのかと思うほど、少年の力は圧倒的だった。
「―――はい」
近くにいた魔獣を数体連続で葬り去った少年が、そう言って手を差し伸べてくる。
未だに座り込んでいた俺に手を貸してくれるつもりなのか。そう思って少年の手を取ろうとした俺の手は―――見事に空を切った。
「え?」
俺の手を見事に避けてくれちゃった少年を見上げると、少年は「何してんだこいつ」とでも言いたそうな顔で俺を見下ろしていた。
いやそれ俺のセリフなんですけど!?
そして、少年はハァ、と溜息を吐いてから言った。
「誰が『お手』をしろなんて言ったの? 剣だよ剣、どうせ動けないんだからその剣貸してくれる?」
「あ、はい……」
綺麗なものには滅法弱い俺。気付けば少年に騎士の命とも言える剣を手渡していた。
まあ、未だに動けない俺が握りしめているよりは少年に使ってもらった方がいいだろう。この少年がいる限り、俺の所まで魔獣は来なさそうだし。
―――そして俺の予想通り、周囲にいた魔獣達は全て少年によって駆逐された。
目にも留まらぬ速さで動き回る少年を見て、ただ呆けていた俺を回収してくれたのは俺の二つ上の先輩だ。
俺と同じく、少年に命を救われた先輩はボロボロだったが俺に肩を貸して砦まで連れ帰ってくれた。
「……先輩、あの少年は何者なんですか?」
「ああ、多分彼は我が国の第二皇子、フィズレスト様だ」
「!?」
驚いた拍子に唾が気管に入り、俺は激しく咳き込んだ。
「―――ケホッ、なんだってそんなお方がこんなところに?」
「なんでも父である皇帝陛下と折り合いが悪いらしくてな、こちらに飛ばされたようだ」
「……皇族のお家事情も色々と複雑なんですねぇ」
普通自分の子どもをこんな場所にやるか?
あの少年は皇帝陛下にかなり疎まれていると見た。
「だな。使えないボンボンだったらどうしようかと思ったが、あの様子だとかなり腕が立つな。……というか、俺達よりも遥かに強くないか?」
「……」
先輩の言葉に、俺は無言でコクリと頷いた。
正直、あの少年の方が自分よりも強いと認めるのはかなり癪だ。これでも剣の腕には自信があったし。だが、ここまで力の差が歴然だと競うことも馬鹿らしい。
なにせ、あの少年は俺では全く歯が立たなかった魔獣をいともたやすく伸してしまったのだ。
俺が乙女だったら即惚れてたようなタイミングだったな。
―――なにはともあれ、俺はお姫様でもなんでもないが、俺を助けてくれたのは本物の皇子様だったようだ。
それからなんやかんやあって、少年は辺境の砦のトップに君臨した。
トップの役職に就いたというわけではなく、誰もが少年を自分達の長だと認識したのだ。
まあ、そこに至るまでには本当になんやかんやあった。やはり少年のことを快く思わない者もいたし、温室育ちだろう坊ちゃんに嫌がらせをしようとするやつらもいた。
そして、そんなやつらに少年は穏便に話し合いをする―――わけもなく、力でねじ伏せていた。
芸術的なまでに美しい顔が心底不思議そうに、「どうして自分よりも強い相手に逆らうのかな」と言っていた光景が脳裏に焼き付いている。その時は常時アルカイックスマイルを貼り付けていたわけでではなかったからな。ニコニコと笑ってそう言われるのも違う気がするが。
だが、常に笑顔を浮かべているからと言えど、成長した今の方が表情が豊かというわけではない。今は貼り付けたような笑顔がほとんどだが、当時はもうちょっと感情の起伏が顔に出ていたからな。
そして、誰が呼び始めたのかは知らないが、少年のことを皆、「陛下」と呼び始めた。その時はまだ少年の父が皇帝の座に就いていたにも関わらず少年をそう呼ぶのは皇帝陛下に対する不敬だ。だが、辺境の砦にそんなことを咎めるものはいない。それに、自分達の王は少年ただ一人だったのだから。
そんな俺達の王は、俺のことを使い勝手のいい駒だと認識したらしく、俺は気付いたら陛下の側近のような立ち位置となってこき使われていた。
あまりにもいろんなことを言いつけられたので一度、他の奴らにも均等に仕事を分配してほしいと言ってみた。それに対して返ってきた言葉は、「どうして? 君は俺に命を救われたんだから俺のために働くのは当然でしょ?」だ。
見た目は天使だが、中身はしっかりと恩返しを求めるタイプらしい。
そんな風に辺境で独裁を繰り広げていた陛下だったが、兄皇子に呼び戻されて本物の皇帝陛下になっちまった。あの時はたまげたなぁ。まあ、どこか予感している部分もあったんだが。
そして、陛下が従順な部下である俺を手放すわけもなく、俺も陛下と一緒に逃げ出した筈の帝都に戻ってきたわけだ。いや~、辺境から帰ってくると帝都の便利さにびびったね。痒いところに手が届く道具が勢揃いだし、至る所に店があるから食材や道具の調達もすぐにできる。ドロドロとした貴族達に目を向けなければこんなに快適に過ごせるのかと感動したね。
そして、兄皇子の要請で帝都に戻って来てからの陛下は、常に微笑を浮かべたまま仕事をする機械のようだった。
ただ国のために淡々とすべきことをこなす、そんな存在。
だが、陛下が皇帝の座に就いてから帝国はいい方向に舵を切り出した。その最たる例がウラノス王国との和平だ。
人としては多少の問題はあるかもしれないが、陛下は他人のために行動ができる人なのだ。顔も知らぬ国民然り、砦の者達しかり。
帝都に戻る一週間前から陛下は辺境の森に潜り、それから一週間不眠不休で戦い続け、当面の魔獣の危機を排除したのは鮮烈に記憶に残っている。全ては自分がいなくなった後、砦に残る騎士達のことを案じての行動だろう。
そんな陛下だからこそ、俺達もなんだかんだ従ってしまう。つまるところ、人の上に立つ者としてのカリスマ性があるのだろう。
そして、先帝も陛下のカリスマ性に恐れをなした。だから陛下はあんな辺境に飛ばされたんだと俺は思う。
だが、陛下が他人のためにあからさまに感情を動かすことは少ない。そう思っていたから、皇妃様の使用人がいなくなった時、本気で怒った陛下に俺は心底驚いた。
多分、皇妃様の何かが陛下の琴線に触れたんだろう。
だって皇妃様と接する時の陛下は明らかに普段と様子が違うからな。
いや~、初めて陛下が皇妃様と話すのを見た時はたまげたね。
俺の知ってる陛下はこんなに温かい眼差しを誰かに向けるような男じゃなかったから。十二歳の時の陛下よりも、皇妃様と接する時の陛下の方がよっぽど人間らしい。
ウラノスとの和平云々よりも、陛下が大切にしたいと思える人を皇妃に迎えられて本当によかったと思う。
俺はただ、二人が幸せになるのをただ書類の束の影から祈るばかりだ。