【128】街歩きの代償
お出かけの翌日、私は朝から一歩も出ることができずにいた。
掛け布団からだらりと片腕を出し、グッタリと横たわる。そんな私の手を握るのは誰あろう、私の旦那様だ。
ベッドの横に腰掛けたフィズは、その毛穴一つない陶器のようなおでこに私の手を当てて項垂れる体勢をしている。
「姫……おいていかないで……!」
これまで引き結ばれていた唇が深刻そうに言葉を紡ぐ。
「……」
「ただの筋肉痛に何を言っておる。大袈裟な」
私の隣に寝転んでいるリュカオンが半眼でフィズを見遣りそう言った。
フィズも冗談だったようで、すぐにケロリとした顔に戻る。
フィズとのお出かけは無事に終わり、私にとっても忘れられない楽しい思い出として記憶に残った。
終始テンションの高かった私は自分の足で歩いていても最後まで全くバテることはなかったし。自分本来のポテンシャル以上の力を発揮できたと言えるだろう。ただ街を歩いただけだけど。
ただ、120%の力を出し切った私に待ち受けるものは何か――そう、筋肉痛だ。
それに加えて猛烈な疲労感が私にのしかかる。それは一晩休んでも全く解消されることはなかった。むしろアドレナリンが切れたことで、より体のだるさを感じる。
そんなこんなで、元々体の丈夫ではない私はベッドから出ることができずにいた。
動けないことはないんだけど、私は痛みにも弱いのだ。動くと痛いことが分かっているんだからわざわざ自分から痛い思いをしようとは思わない。筋肉痛が治るまでは極力安静にしておくつもりだ。
「最近は進んで体力作りにも励んでいたからな、元々疲労が溜まっていたのもあるんだろう。ゆっくり休め」
「そうだねぇ」
思えば、近頃は外に出ることも多かった。離宮と王城の往復くらいしかしていなかった私がこの短期間で二度も街に出てしまったのだ。快挙とも言えるんじゃないだろうか。
というか、そもそも離宮から出て行動すること自体、ウラノス時代の私しか知らない人からしたら驚くべきことだろう。
「フィズも、こんな早くにお見舞いに来てくれてありがとね」
「いえいえ、昨日の帰りの時からなんとなくこうなるだろうとは思ってたから」
帰り道ですでに筋肉痛の片鱗が出てたもんね。体の節々が痛み始めてたから歩き方が変になっていた自覚はある。それに気付いていたから、フィズも朝から来てくれたんだろう。ベッドでも食べやすいお菓子やフルーツなどを持ってきて。
「俺が剥いてあげるね~」
フルーツと一緒に持ってきたらしいナイフを手に取り、器用にリンゴを剥いていくフィズ。
「上手だね」
「刃物の扱いは得意だからね」
「ああ……」
なんか納得だ。
リンゴをウサギの形にしたフィズは、「あーん」と私の口元に差し出してきた。私は遠慮なくそれを口にする。
至れり尽くせりだ。
シャクシャクとリンゴを咀嚼すれば、口の中いっぱいに甘い蜜が広がる。たぶんとてもいいリンゴなんだろう。さすが皇帝の差し入れ。
「あはは、小動物がごはん食べてるみたいでかわいい。あ、正しくその通りか」
違うでしょ。私小動物じゃないし。
だけど、ものが入った状態で口を開くことはできないので黙っておく。
「一応聞くけど、フィズは疲れてない?」
「全く以て」
「だよね」
知ってた。
超人的な身体能力を持つフィズのことだから、昨日のお出かけなんて私が部屋の中を歩いたくらいの体力しか消費していないのだろう。
スリを捕まえたり、三階から落ちそうになった子どもを助けたりちょこちょこトラブルには見舞われたけれど、それでもフィズの体力を消費するには至らなかったようだ。
「クラレンスも元気にしていたよ。ちょうど俺がここに到着した時、どこからの侵入者もカバーできるようになるとか言って屋根裏に入っていくのが見えたからね」
「……クラレンスは何を目指してるんだろうね」
屋根裏に忍び込んだりするのはもはや騎士じゃない気がするけど。
「まあ、姫を守ろうって気概があるのはいいことだよ。思わぬ拾いものだったかもね。俺が直々に鍛えてあげるのもいいかもしれないなぁ」
柔和な微笑みを浮かべたフィズがそう言うと、天井からガタッと物音が聞こえてきた。うちの自慢の使用人達によって整備されているこの宮殿にネズミなどいるはずがない。
「動揺で音を出すようじゃまだまだだね」
天井の方には一切視線を向けずにフィズが肩を竦める。
どうやら、フィズの合格点はもらえなかったようだ。
さっきの話がクラレンスを動揺させるためだったのか、本気で彼を鍛えようとしているのかは不明だ。
クラレンスは撤退を選んだらしく、微かな物音が遠ざかっていくのが聞こえる。私にも分かるくらいだからクラレンスの隠密技術はまだ発展途上ってところかな。
というか、そもそもそんなことをする必要はないんだけど。クラレンスはなにを目指してるんだろう……。
「そういえば、コンラッドも顔を出すと言っていたからそろそろ来る頃じゃないかな」
フィズがそう言った直後、部屋の扉がノックされた。図ったようなタイミングだ。だけどこれはフィズの勘が鋭かったということだろう。
返事をすると、コンラッドが入室してくる。
「皇妃様、失礼いたします」
「いらっしゃ~い」
お行儀は悪いけどベッドに横たわったままコンラッドを迎える。掛け布団から出ている手をヒラヒラと振れば、コンラッドが眉を顰めながらこちらに歩いてくる。
「皇妃様、寝床から出ることができない程体調がお悪いのですか? そこまで深刻だとは思わず……」
「ううん、全然深刻じゃないよ。疲労と筋肉痛で動けないだけだから気にしないで」
「……」
私の言葉にポカンと口を開くコンラッド。眼鏡の奥の瞳もまあるくなっている。
「シャノン様はお体が弱いのです」
コンラッドを案内してきたらしいセレスがヒョッコリと顔を出す。そしてコンラッドの横を通過して私のもとへとやってきた。その腕にはフカフカのクッションが抱きかかえられている。
「お客様もいらっしゃってますし、体を起こしましょうか」
「うん」
セレスは慎重な手つきで私の上半身を起こすと、背中に持ってきたクッションを挟んでくれる。
フィズが来た時にこれをしなかったのは、フィズは既に私の身内枠として認識されているということなんだろう。まあそれもそうか。
「……手厚いですね……」
体勢を整えた後に私の近くに控えたセレスを見てコンラッドが呟く。
「シャノン様のお世話はお仕事であり私の生きがいですから。手がかかればかかる程もえる質なんです。なのでシャノン様は最高の主ですね」
すがすがしい顔で微笑むセレス。だけどむしろ暗に貶されてるよね? これ。
いつもお手数をおかけします。
「さすが皇妃様、く……忠誠心の強い侍女をお持ちですね……」
「無理に褒めなくていいよ」
絶対癖の強いって言いかけたでしょ。
たしかにこの離宮の人達と私は一般的な主と使用人との関係とは少し異なるからね。普通の距離感の主従をたくさん見てきたであろうコンラッドが違和感を覚える気持ちも分からないではない。
「――とまあ、私の状態はこんな感じだから今日の授業はお休みでもいい? もう連絡したとは思うけど」
「はい、ご連絡受け取りました。私が来たのは皇妃様の体調伺いです。虚弱体質だとは耳にしていましたが、どの程度なのかは実際に確認しなければ分からないところがありますので」
「それもそうだね」
「特に、皇妃様に私の常識は通用しませんから」
どこか遠い目をするコンラッド。苦労をかけるね。
「でも、まだ熱を出してないからマシな方だよ」
「……一日出かけた程度で発熱する可能性があるんですか?」
「姫ならなくはないね」
そこでフィズが口を挟んだ。
「なるほど、やはり皇妃様は私の予想を軽々と超えてくるようですね。これからは皇妃様の体の弱さも考慮していくことにします」
「ありがとう」
素直にお礼を口にする。
「それでは、長居しても皇妃様の体調を悪化させるだけですので私は失礼します」
「俺もそろそろ仕事に戻るよ」
コンラッドに続くようにフィズも席を立った。
ずっとベッドの中にいるのもなんだし、せめてお見送りには行こうかな。
「セレスだっこ」
「はいシャノン様」
サッとこちらに歩み寄ってきたセレスは、嬉々として私を抱き上げてくれる。
軽々と私を持ち上げたセレスを見てコンラッドがギョッとする。
「力持ちですね……」
「うふふ、意外ですか? これでも、シャノン様をいつでもお運びできるように日々鍛えてるんです」
「……一体どこを目指してるんですか」
侍女には貴族の令嬢もいるので、基本的に力仕事などはしない。筋肉がついて腕が太くなるのを嫌がるお嬢様が多いこともあるだろう。
「でも、抱っこなら俺がするよ?」
「ううん、フィズとコンラッドの見送りに行くためだから。フィズに抱っこされちゃったら意味がないよ」
「なるほど」
私を受け取りたそうに構えていたフィズはあっさりと腕を下ろした。
なにも、ただ甘えたくて抱っこをねだったわけではないのだ。
セレスに抱っこされたまま、玄関でフィズとコンラッドを見送る。
すると、フィズがクルリとこちらを振り返った。
「姫、俺は姫を二十四時間抱っこしてても疲れない自信があるからね」
「え? う、うん」
私が首を縦に振ると、フィズもコクリと頷いて踵を返していった。
……何に向けての対抗心なんだろう……。
二人の後ろ姿が見えなくなると、私を抱きかかえているセレスが口を開いた。
「シャノン様、私も一日中シャノン様を抱っこしていても平気なくらい鍛えますね!」
「ええと、セレスはこれ以上鍛える必要はないと思うよ?」
それとなく諫めるけど、セレスはやる気満々だ。
――フィズといいセレスといい、謎の対抗心を燃やしてるなぁ……。





