9 逃がしてはくれない
「まあっ、なんですって!?」
マーシュ様が、この屋敷に。
沼に突き落としたのだ。ただじゃ済まなかったはず。マーシュ様が話していたところによると沼の中には魚などがたくさん生息しているらしく、当然ながら襲われたに違いない。だというのに当たり前のように私のところまでやって来るだなんて。
背筋がゾッとした。
私は父が何か言い出す前に、ネグリジェ姿のままで走り出す。
行き先なんて決めていない。とりあえず屋敷から逃げよう、ただそれだけ思っていた。
誰かの呼ぶ声がする。でも私は決して振り返らなかった。
……考えてみればもうこれで二度とここへ戻れなくなるかも知れない。先ほどは牢屋に入っても構わないとは言ったが、やはり嫌だった。でも、逃げた先で平民として生きていくのもいいかしら。
でも私は年頃の娘。それも貴族ともなれば、襲われることがあるかも知れない。そんな時私はどうしたらいいのだろう。
逃げるという選択が正しいのかは正直わからなかった。
マーシュ様が一体私に何を言いに来たのか。彼にとって私はとんでもない女のはずなのに。
理解できないから、私は彼のことを恐ろしく思った。とりあえず窓から飛び出し、屋敷の庭へ転がり込む。驚く庭師におはようの挨拶すらせず、裏門をくぐり抜ける。
駆け続けながら、彼女はふと気がついた。
このまま逃げて何になる? 私は、何もかも失ってしまったのに。
私はそもそも、『沼の貴公子』と結婚するのが嫌で、嫌われようとしていたはずだ。
逃げるなら最初から逃げていれば良かった。どうして地位を失い、自分の華を捨ててまでこんなことをしているのだろう。
なぜ、今まで逃げなかったのだろう。
それではまるで、マーシュ様との駆け引きを楽しんでいたかに思えてしまう。しかしそんなはずはない。私は単にマーシュ様が諦めてくれるだろうと舐めていたのだ。それがいけなかった。
もうこうなった以上は仕方ない。あの男だけは嫌だ。あの男と離れるなら、平民に落ちぶれたっていいわ。
ごちゃ混ぜになった感情のまま、公爵邸から最寄りの街へ降りて来た。ここに紛れればなんとか身を隠すこともできるだろう。
だが、じきに公爵家の使いがやって来る。その時までに変装をして誤魔化さないと……。
と、そう思っていたその時のことだった。
嗅いだ覚えのある汚臭が鼻をくすぐったのだ。
すっかり慣れてしまったその匂い。それすらも心地よく思えてしまう私はどうにかしている。
だって、だって……。
「デレー、見つけましたよ」
私は堪え切れず、背後を振り返る。
そこにはやはり『沼の貴公子』が立っていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
逃げなくてはならないはずなのに私の体は動いてくれなかった。
灰色のボサボサ髪から汗を滴らせ、緑色の縁の眼鏡を傾かせている彼は、明らかに私の婚約者で間違いない。いつもの田舎臭さだけでなく、汗臭さと泥臭さを足した、完全版『沼の貴公子』といったところか。
結局の話、私の逃走劇には何の意味もなかったというわけである。
「追いつかれてしまいましたわね」
今までの必死さが馬鹿らしくなってしまい、私は笑いを堪えながら言った。
彼はずっと私を尾けていたのだろうか。そんなことはどうでもいいが、よくもまあ逃げ切れたなどと勘違いをしたものだ。
「私を捕まえに来たのですね? なら、早くしてください。あなたの顔を見ていると嫌な気持ちになりますの」
そう言いながら弾む胸に気付きたくない。
この男を汚泥に沈めたのは私だ。当然ながら恨まれている。そうに違いない。だから――。
「面白い人ですね。そういうところ、好きですよ」
やはり彼は私を逃がしてくれなかった。