8 父の激怒
あのまま、ディンガ侯爵の別邸付近から立ち去り、私はラーツンド公爵領へ戻って来た。
一人で、それも徒歩で帰った私を皆はどう思うだろう。そんなことを考えつつ屋敷の門をくぐり、我が家へ。
「もうお帰りになられたのですか」
目を見開いて驚いているメイドを無視し、私は無言で自室に向かう。
今は誰とも話したくない気分だった。
やっとマーシュ様と別れることができる。そう思うと嬉しくてたまらないのだけれど、でも、やはりどうしようもない罪悪感がつきまとう。私は彼を沼へ突き落とした。後でなんとでも言い訳をするつもりだが……自分が悪事をしてしまった自覚はあるのだ。
仕方なかった、と私は自分へ言い訳してみる。だっていくら言っても別れてくれなかったのはマーシュ様の方だから。私は嫌なのに婚約させられ、数々の嫌がらせのようなプレゼントを贈られ、あのままでは精神を病んでしまっていた。そう言えばきっと皆も納得してくれるに違いない。
……彼だって私に見切りをつけてくれるはずだ。
そんなことを考えながら、その日は泥のように眠った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「デレー! デレー起きろ!!!」
ああ、うるさい。
もう少し寝かせておいてほしい。私はまだこの眠りの世界にいたいのに……。
しかしドアをドンドンと乱暴に叩く音が響き、鼓膜を叩き続ける。鬱陶しい気持ちでいっぱいになりながらも仕方なしに起床し、寝巻きのネグリジェ姿のままでドアを開けた。
「お父様、どうなさったの」
「どうなさったの、じゃないっ! デレー、こっちへ来い」
私はおおよそ何を言われるのかこの時点で理解し、ゲンナリした。時計を見るとまだ朝早くである。最悪の一日の始まりだわと思いつつ、父に逆らうことはしなかった。
父は激怒していた。
それは当然だ。私がディンガ侯爵令息、つまりはマーシュ様を突き落としたことが明らかになったのだから。
しかも都合の悪いことに、それはマーシュ様自身からの告発ではなかった。たまたま事件現場を見ていた近隣の領地にすむ貴族関係者がいたのだとか。
私は寝ぼけた頭を叩き起こして状況を呑み込む。ゆっくりと把握してから、昨日の失態を悔やんだ。
あの時は急ぎすぎていた。早く決行したい、その一心だったから、こちらを観察していたらしい第三者を見逃してしまったのだろう。
これではどうやっても言い訳ができない。正直焦った。どう言ってはぐらかせばいいのかわからない。
「わ、私はやっていないわ。そんなことをするはずないでしょう」
「証人はきちんといる。そしてディンガ侯爵令息が沼から這い上がる様を見ていた者は多いとのことだ。私もこんなことは信じたくないが、しかし信じるしかないだろう。……デレーよ、なぜそんなことをしたのだ! 我が公爵家の顔に泥を塗るつもりか、愚娘が!」
怒鳴られ、私はどう答えていいのかと迷った。
ごめんなさいと素直に謝った方が無難かも知れない。しかしそれでは気が治らないであろうことが予想できて、私はいっそのこと強く出てやろうと決めた。
「お父様のせいよ。お父様があの男との婚約解消を認めてくれなかったから」
父はますます激昂する。「なっ。馬鹿なことを言うな!」
「どうせ私は馬鹿よ。どうしようもない馬鹿だから、言うわ。……婚約は破棄。私は地下牢にでも入るわ」
あんなダサい男と結婚するくらいなら、牢暮らしの方がマシだ。
それくらいの気持ちを吐き捨てると、ぎゅっと固く口を結ぶ。
これが私のわがままだということは百も承知だ。
貴族は政略。どんな嫌な相手でも結婚するのが習わし。しかしそれが私には許せなかった。
だから逃げようと決めた。どんな形であったとしても……。
――その時のことだった。
「旦那様、大変でございます。ディンガ侯爵家のマーシュ様が!」
突然、部屋へメイドが転がり込んで来るなりそんなことを叫んだのだ。
そしてメイドの言葉の意味を理解した瞬間――私の全身からサァッと血の気が引いていくのがわかった。