7 覚悟を決めて
私は今、ディンガ侯爵家の馬車にマーシュ様と一緒に乗っている。
公爵家の物と比べれば若干質素ではあるが、充分乗り心地のいいものだ。……ただし馬車内に流れる空気は決して居心地は良くなかったのだけれど。
マーシュ様は嬉々として、これから向かう田舎の領地の話をしている。
もちろんそんなことに興味のない私はと言えば、それに適当に相槌を打っていた。
……さて、そんなことより計画だ。
準備は万端。今回ばかりは私に抜かりはない。
なんとしてもマーシュ様に嫌われてみせる。そのためにどんなことをしたって構わないという覚悟はあるのだ。
これからの作戦決行がうまくいくよう、私は心から願ったのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
侯爵家の別邸は田舎臭い屋敷であった。
男爵家などの下級貴族のものではないかと思うくらいこじんまりしている。でも屋敷自体はそこまで気にならなかった。
……それよりも屋敷を取り囲む沼の方がずっと印象的だったから。
「この匂いは……」
鼻をツンとつく汚臭に、私は思わず顔を歪める。
これは間違いなくあれだ。濃厚な屁泥の匂いだった。
気遣う必要はない。露骨に嫌な顔をしてやった。
「癖の強い匂いでしょう?」
「ええ。これによく耐えられますね……」本音だった。
「そのうち慣れますよ。では、ひとまずは屋敷で荷物を下ろしましょうか」
私とマーシュ様は一緒に別邸の中へ。
執事や使用人たちの歓迎を受け、しばらく過ごすと、なるほど確かに少しずつだが匂いが気にならなくなって来た気がする。たった数十分で嗅覚がおかしくなってしまったのかも知れない。
まあ、そんなことはいいのだ。少し耐えればいいだけなのだから。勝負はこれからである。
今から沼へのお出かけが待っている。本当にこの男は、婚約者を買い物や花園に連れて行くことをせず沼に招くなんてどこまで非常識なんだろうと、今更ながら怒りが湧いた。
だから私は、笑顔を作る。
「わかりましたわ。楽しみにしておりますわね」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
私は本当なら『沼の貴公子』と穏やかに別れたいと思っていた。
しかし求婚されてからというもの、いくら言葉や態度で拒絶してもますます好かれるばかり。こちらとしてはもう我慢の限界だった。
だから、本当はいけないことだとわかっていても。
だって……政略結婚なのだとしてもこんな男とだけは嫌だから。
マーシュ様に案内されたのは、赤い草でびっしり埋め尽くされた沼だった。
まるで鮮血のよう。そんなことを思いながら、私はマーシュ様に微笑む。
「ここ、綺麗でしょう。ずっとあなたに見せたかったんです」
『沼の貴公子』が照れ臭そうに笑った。
私は彼の言葉になんと返したらいいのかわからない。だから言った。
「あなたは私と結婚したいと、今でもそう思われますか?」
「――あなたが望んでくれるなら」
「もしも望まないとしたら?」
「全力で愛を奪い取るまで」
その一言で最後の覚悟を決めた。
私は、沼を見下ろす隣の青年の背中を、思い切り押す。
女の私でも体当たりすればすぐに転げてしまうマーシュ様の軽い体が、ゆっくりと倒れ込み、赤い沼の方へ落ちていった…………。
血の池のような沼の中へ消えていく彼を見ながら、私は思う。
ああ……、たった今、取り返しのつかないことをしてしまったのだわ、と。
私はそのままその場から走り去った。