5 嫌われたいのに
「マーシュ様。今日も臭いですわね」
「はははっ。そうですか?」
「そのヌメヌメした視線、やめてくださる?」
「貴女が可愛くてつい」
……私は正直困惑していた。
嫌われるため、婚約破棄されるためと意気込み、出会い頭からそうやって悪意ある言葉を浴びせかけてみたのだが、『沼の貴公子』は全く気にしていない様子で笑うのだ。
普通、婚約者であったとしてもこんな口を利くのは無礼にも程がある。後で父親から叱責されること覚悟で言っているというのに。
「どうして笑ってらっしゃるんです、不快です」
「ああ、すみませんすみません。いやあねぇ、露骨に僕に嫌われようとしてるから……」
湿地帯のような滑り気のある視線を受け、私は思わず息を呑んだ。
……まさか、一瞬でバレるとは。驚きというかなんというか。でも確かに、態度を急変させすぎたかも知れない。これは失態と、慌てて取り繕った。
「いいえ。今日はどうやら機嫌が悪いようです。申し訳ございません、失礼なことを言ってしまって」
「……いやぁ、構いませんよ」
しばらくの沈黙。
これからはもっとうまいこと嫌われるようにしなくてはならない。あまりに彼のことが嫌すぎて、露骨にしたのが失敗だった。次からは細心の注意を払って行動を起こさなくては。
唇を噛み締める私を感情の見えない目で見つめるマーシュ様。油断ならない男だと思った。
あまり悠長にはしていられない。
このままでは結婚させられてしまう。私の心が動かないと知ったら、彼は強引な手を使って来るかも知れない。
その予想は的中し、次第にプレゼントなどを渡されるようになった。
しかしその全てにセンスのカケラも感じられない。たとえばドレスは汚い苔色だったし、それを贈られたところで一緒に夜会に出るわけでもなし。マーシュ様はずっと我が家とディンガ侯爵家を行き来するのみで、あれ以来社交の場に出てくれないのだ。
つまり、私はエスコートされることなく一人。
……マーシュ様は「社交は苦手なんだ」と笑って言う。
しかし私はパーティーが好きだし、エスコートもしない婚約者を到底認められるはずがない。何度か「一緒に出てください」と言ったが、彼は申し訳なさそうにするばかりだった。
――我慢の限界だわ。
嫌われる努力を重ねてみた。
たとえば、お行儀悪くお茶を飲んでみたり。
たとえば、使用人の口から仕入れた下町の下品な情報を話したり。
なのにマーシュ様は全く反応を示さないのだ。
『沼の貴公子』の粘着力は凄まじいもので、一番嫌がらせとして効果があるかと思い、「あなたのことは一生愛しません」と断言した時ですら、彼の余裕の笑みが崩れることはなかった。
嫌われたいのに嫌われない。今まで貴族としての駆け引きをしたことは多々あれど、こんな経験は初めてである。
厄介な男を婚約者に持ってしまったと、私は今更後悔した。
「最悪でしょう? 本当にあの方、噂には聞いていたけれどどうしようもない物好きだわ」
私は今日も今日とて女友達の前で愚痴をこぼし、「はぁ」とため息を吐く。
他の令嬢たちは憐れむような視線で私を見つめてうんうんと頷いていた。