3 まずは婚約から
「は……?」
私ははしたなくも、そう声を漏らしてしまっていた。
『沼の貴公子』から突然、求婚されたのである。
私としては理解不能、何かの悪夢としか考えられない。
冗談だろうか、と思い、マーシュの焦茶色の瞳を見てみたが、そこからは何も感じ取ることができなかった。
沼。まさに彼の瞳の中には限りなく深い底なし沼が広がっているように思える。
「ディンガ侯爵令息、それはどのようなご冗談ですか」
「マーシュと呼んでくれませんかねぇ」彼は薄く笑った。「家名で呼ばれるのはどうも好きになれず」
なんだこの男。
私の抱いた感想はそうとしか言いようがないものだ。だってよく知らない同士の貴族が家名で呼ぶなどというのは当たり前のことだからだ。婚約者や友人であれば例外だが、もちろん私と彼に限ってそういうことはない。
……だが、私は今、『沼の貴公子』に求婚されている。なぜかはわからない。だがとにかく、『結婚してください』とそう頭を下げられたばかりだった。
彼の真意を問おうとするが、どうやらおふざけで言っているのではないようだと悟り、怒りに震えた。
私は今、失恋の悲しみを味わっていたところなのだ。なのに『沼の貴公子』がこの私に求婚などという常識外れなことをして来るなんて、正直許せない。
「本気なのですか? 私、あなたと言葉を交わしたことすらほとんどありませんのよ?」
「貴族なんて大抵がそうでしょう。それに、あなたは可愛い。以前からずっと気になっていたんです」
さらに告白までされてしまった。
なんということだろう、彼は本気中の本気かも知れない。
でもどうしてこんな場で? 婚約を発表したウィード殿下に乗じようとでもいうのだろうか。
「結婚などという重大な事柄、私一人で決められることではございません。一度持ち帰り、検討いたします」
私は『沼の貴公子』へと冷たく言い放つ。
言外に、「あなたのようなお方と結婚できますか。私が結婚すべきお相手は他におります」という意味を込めて。
私はまだ婚約をしていない。だがそれは、ウィード殿下への想いがあったからであり、『沼の貴公子』などにその座を渡してやるつもりは毛頭ない。
しかし――。
「わかりました。父に頼み込み、あなたのお父上へと婚談を持ち込むことにいたしましょう。……デレー公爵令嬢、ではまた」
まるで私の意図など汲むことなくそう笑うと、ぬかるみを歩いているかのような重たい足取りでこの場を後にするマーシュ様。
しかし彼の表情を見てすぐにわかってしまった。……この男、まるで私を諦めるつもりがない。
一体どこで、どのようにして好かれたのか。
しかし何にせよ厄介事に巻き込まれたことには違いなかった。私はドレスの裾を掴み、深くため息を吐く。
とにかく帰ろう。今はもう何も考えたくなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
私とマーシュ様の婚約が決まったのは、それからたった一日後のこと。
父からそれを聞かされた私は思わず悲鳴を上げ、その場にぶっ倒れてしまった。
宰相の息子であるマーシュ様との婚約は公爵家として望ましく、政略的な理由により私を嫁に出す決意を固めてしまったらしい。私の意向など、一切確認もせずに――。
「まずは婚約から」と、後日に顔合わせをしたマーシュ様が気持ちの悪い笑みを浮かべながら言っていた。私は吐き気すら覚えながらそれに頷くことしかできなかった。
こうして私にとって完全に不本意な、泥沼の婚約者生活が幕を開けたのである。