2 『沼の貴公子』マーシュ様について
「私は公爵家長女、デレー・ラーツンドです。ティンガ侯爵令息、お久しぶりでございますっ。も、申し訳ございません」
慌てふためきながらも、私はなんとか自己紹介をした。
私のすぐ近く、テーブルを挟んで立っているのがマーシュ様なのだと思うと震えそうになった。
私はこの方が正直、とても苦手なのだ。
着ている礼服はどこか田舎臭い感じが漂い、匂いも泥臭いし、全体の雰囲気からしてパッとしないのだ。
社交界の華と呼ばれ周囲から人気の高い私にとって、いちいち彼のような男にかまけている暇などなく、いつも遠巻きに見ているだけだったが、そのぬぼーっとした佇まいを見ているとイライラするのだ。
「あれが侯爵令息だなんて、ディンガ侯爵ももう少し身なりをきちんとさせなさいよ」などといつも思っていた。
『沼の貴公子』ことマーシュ様について一言で述べるとすれば。
侯爵でありこの国の宰相を務めるディンガ侯爵家の跡取り長男でありながら、道楽者で、田舎生活に入り浸っている怠け者――以上である。
散々な評価だとは思うが、事実なのだから仕方ない。
宰相の座を継ぐのは彼だ。だのに、王太子の側近候補から辞退をし、普段は田舎の別邸に引きこもっているらしい。
女縁もまるでなく、社交界に出てくるのも稀だった。
「なのにどうして今日だけいるのよ……っ。今日はなんて最悪な日なのかしら」
口の中だけで恨み言を呟く私。
しかしそんな私の心情など考えるはずもなく、マーシュ様は言葉を続けた。
「何かお辛いことでも? もしよろしければ僕がご相談に乗りましょうか?」
私は首を振った。「いいえ、大丈夫ですわ」
もちろん皇太子ウィード殿下への片想いが破れたから泣いていただなんて言えるはずもない。泣いているところを見られただけでも死にたいくらいに恥ずかしかったというのに……。
しかし内心を隠して私は淑女の笑みを貼り付けていた。
それにしてもこの男、どうして私に話しかけたりしたのだろう? 皇太子と王女の婚約発表であちらはあんなに騒ぎになっているというのに。
「も、もしかして……私に何かご用でもございましたか?」
「あぁ、はい。いえねぇ、たまたま泣いていらっしゃるあなたを見かけたまでなんですが。でもちょうど良かった、あなたに言いたいことがあったんですよ」
もしかしてと思い訊いてみたが、やはりそうだった。
『沼の貴公子』が一体この私に何の話があるというのだろうか? そもそも先ほど『沼の貴公子』と彼は自分で言ったが、貶し文句なのだけれど、わかっていないのかも知れない。それほどの愚かな人間なのであれば、もしかするとこんな状況で「一緒に踊りませんか?」とでも言い出すつもりなのか?
しかし直後、そんな私の想像を遥かに超えた言葉がマーシュ様の口から発せられた。
「デレー・ラーツンド嬢。僕と結婚してください」
しばらくの間、何を言われたのだかさっぱりわけがわからなかった。