第三百八話 憤怒の懐柔
『つまりだ。俺は生まれながらにして憤怒、抑えきれないほどの強い怒りに支配されていたわけだ。
というより、俺そのものが憤怒という感情でできているのだから当然と言えば当然なのだが……』
「……まあな」
俺は、いったい何をしているのか。
晴れ渡った青空。
爽やかな風が吹き渡る草原。
自由に飛び回る鳥たち。
そんな場所に寝転がり、気持ち良さそうに空を見上げながら語る憤怒。
討つべき敵の横に座り、その語りに耳を傾ける。
これに、いったい何の意味があるのか。
『そもそも俺たち原罪龍は生まれてすぐに封印されたわけなのだが、それでも俺は宙から月としていろいろな世界を見てきた』
「……」
たしか、コイツらは今ここにいる個体が全てではなくて、さまざまな世界で同一精神体として同時に、かつ別々に存在しているんだったか。
自分が同時に複数の世界に存在するというのはいったいどんな感覚なのだろう。
というか、憤怒も傲慢同様、封印の中にありながら意識はあったわけか。傲慢と違ってあれこれ暗躍することはできなかったようだが。
『……まあ正直、こんなクソみたいな世界は滅んじまえばいいと思うことの方が多かったな』
「……否定はできないな」
『ははっ! おまえならそう言うと思ったぜ』
俺も、人間のいろいろな面を見てきた。
この世界においても、貴族連中のクソみたいなお遊びを見たこともあったしな。
憤怒が月としてさまざまな世界を見てきた結果として、総合的にそう断じてもおかしくはない。
『だがまあ、それだけでもないことも分かっている』
「……」
『俺も一応は神の一部だったもんだ。世界の善し悪しに理解はある。
だが、とはいえ俺は憤怒だ。目に映る全てが怒りの対象として映るように出来てやがる。
頭では理解していても、心が、体が、魂が、世界に怒れと言ってくるんだ』
「……存在理由か」
『ま、そんなところだな』
憤怒という感情の化身であるがゆえに、そうであらねばならない。望むと望まざるとに関わらず……。
『で、どんな世界を見ても、どんな光景を見ても、結局俺が抱くのは憤怒のみだ。
そんなの、飽きるなと言う方が無理というものだろう』
「……たしかに」
彼らが生まれてからどれだけの年月が経過しているかなど分からないが、おそらく100年1000年などというレベルの話ではないのだろう。
そんな途方もない期間、ずっと同じ感情だけを抱き続けるのは化身といえども難しいのだろう。
『そこである時から、俺は世界を見るのをやめた。この、俺の中の世界に閉じこもることにしたんだ』
憤怒は右手を空に伸ばし、広げた手のひらを太陽に透かした。
『ここはいい。
俺は俺に憤怒しない。
俺の心の風景であるここに、俺は憤怒することはない。
俺はここが好きだ。ここにずっといたい』
「……」
そう語る憤怒は本心を吐露しているように感じた。
憤怒しなくていい世界。コイツは、それを望んでいる。
「……!」
『どうした?』
「……いや」
『そうか』
気のせいか。
いま一瞬、黒影刀が動いたような……。
『だから、俺のことは放っておいてもらいたいというのが本音だ。
俺はただの月として無為にここにいる。
そして、俺は俺の中にいる。
俺はこの憤怒することのない世界で、ただ穏やかに、静かに生きていたいのだ』
「……」
コイツの言うことの、どこまでを信じて良いものか。
相手は憤怒だ。
世界に対する怒りを、自らの中に引きこもることで見なくする。それで満足するとは思えない。
だが、この穏やかな表情に嘘があるとも思えない。
『とはいえ、久しぶりの来客だ。
俺の中にいるからか、おまえには憤怒することがない。
どうだ?
せっかくだし、もう少し俺の話し相手をしてはくれないか?』
「……そうだな」
ーー血を。
「!」
『どうした?』
「いや、いま……」
ーー血を、もっと……もっとだ。
……声が。
これは、黒影刀?
『……ああ。その刀だな』
「聞こえるのか!?」
どうやら俺だけの幻聴ではないようだ。
『その刀の前の持ち主の幻影、残存意志。まあ残りカスみたいなものだな』
「……闇の帝王の」
憤怒は黒影刀をじっと見つめる。
『……ふむ。そいつは怨嗟か』
「……えんさ?」
『イリスが捨てた感情のひとつ。原罪龍として形を得ることもなかった憐れな感情の一塊のひとつ。
とはいえ怨嗟は強い感情だ。
神への恨み、人々への憎しみ、世界への怨嗟。
きっと、コイツに憑かれたヤツはさぞ苦しい思いをしたことだろう』
「……闇の帝王に、イリスの悪感情が?」
『形を得なかった悪感情は本来ならば霧散するはずだが、よっぽどその闇の帝王ってのと波長が合ったんだろう。
そいつが神に対して恨みを感じた瞬間に、きっと2つは1つになったんだ。
それが本体が消えたあとも残り、その刀に感情だけが残った。
おまえも、その刀の激情に身を任せたいと思ったことが何度かあったんじゃないのか?』
「……」
言われてみれば、物事にそこまで感情を動かすタイプではない俺が、頭が真っ赤に染まるほどに何も考えられなくなるときはあった。
連れ去られたフラウを救出に向かったときに地下で悲惨な光景を見たときや、桜との戦いで暴走したときなんかも。
『そのタガを外しやすくしていたのは、その刀の中にあるイリスの怨嗟だ』
「……」
『俺ならそれを取り除いてやれる。少しその刀を貸してくれないか?』
「!」
上半身を起こした憤怒がこちらに手を伸ばす。
そんなことが出来るならそれは非常に助かる。
「……頼む」
俺は腰から刀を抜いて憤怒に託そうとした。
そのとき……、
『……マ、スター。そ、れを、渡して、は、駄目、です』
俺の頭に、声が響いたのだった。