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雨の日々

作者: yoichi

 雨が降っている。もう五月も末なのに、とても冷たい雨だ。

 雨が好きな人などいるのだろうか。ずっと嫌いだったけど、今の生活を始めてから、なおさら嫌いになった。今も前かごに積まれた新聞が濡れないように、気を遣いながらカブを運転している。昼過ぎから降り続けている雨は、よく舗装されたアスファルトをアイスリンクのように滑らかにしていた。うっかりブレーキレバーを強く握れば、たちまち転倒して配達途中の夕刊を派手にばら撒くことだろう。急に配達コースの変更を告げられ、さらに雨にまで降られるなんて、今日もやっぱりついてないようだ。

 雑多な繁華街での配達を終え、販売所へ引き返す途中、僕は一人の女の子を見かけた。バスの停留所を兼ねたその場所には、色あせたベンチと自販機が数台並び、屋根があって雨をしのげる。運転中だったためにちらりとしか見えなかったが、その子は寒そうに腕を押さえてベンチに座っていた。何故だかその寂しそうな様子が気になったけれど、結局そのまま通り過ぎた。

 販売所に戻ってバイクを戻すと、所長に挨拶して家路に着いた。なるべく呼び止められないように、速やかに挨拶を終えられるまでには、かなりの日数を要した。所長の人生訓や仕事への思いは、そのまま暗唱できるほど聞かせられた。良かれと思ってのことだろうけど、押し付けられるのは山のような新聞だけで十分だ。今日の仕事はこれで終わりだ。だがまた明日、早起きして朝刊の配達が待っている。新聞奨学生という方法を選んだ以上、この生活はあと三年続くことになる。

 決して今の生活が嫌な訳ではない。貧しく、狭苦しい実家に比べれば、寮での生活は自由そのものだ。しかし、金がないのに変りはない。夜のバイトもしているが、全てが生活費で消えていく。仕送りなんてあるわけもない。勉強するために進学したはずが、新聞配達やバイトが生活の中心になってしまっている。このままではいけないと思ってはいるものの、今の生活を変える訳にもいかずに、ただ漫然と日々を過ごしている。きっと楽しいことは何一つ無く、僕の学生時代は過ぎていってしまうのだろう。


 雨はまだ止まない。傘を少しずらして空を見上げると、分厚い灰色の雲だけが視界を占めた。天気予報は見ていないが、きっと当分止むことはことはないだろう。こんな日はさっさと帰って、夜までに少しでも休みたいのだが、今日はまっすぐに部屋へ帰れない。今日は毎月楽しみにしている文学雑誌の発売日だ。少しだけ遠回りして、本屋に行かなければならない。

 さっきバイクに乗って戻ってきた道を、今は傘を差しながら歩いている。同じ景色のはずなのに、スピードが違えば全く違って見える。ポスト、クリーニング屋の看板、点滅する信号。ありふれた街の色たちが、鮮明に飛び込んでくる。仕事から解放された後だからなおさらそう思うのだろうか、暗いはずの景色がやけに明るく見えた。

 そんないつもの色の中に、その白い姿があった。赤や青が並ぶ自販機の前で、一人佇む女の子。風に揺れるその白いワンピースが、周囲から浮かび上がって、とても鮮烈に感じた。配達の帰りに見たあの子が、場所を変えることなくまだそこにいたらしい。僕は引き寄せられるように、その自販機コーナーへと歩いていた。

 何気なくポケットを探りながら、自販機の前に立つ。たいして喉が渇いているわけではないが、小銭を入れてボタンを押した。ガタリと落ちてきた缶コーヒーを取り出す時、悟られないように彼女を見ると、ばっちりと目が合ってしまった。僕は平静を装いながら自販機コーナーを後にした。

「こんにちは」

 立ち去ろうとする僕の背中に、彼女は声を掛けてきた。驚きを隠しながら振り向くと、彼女は寂しげな顔のまま、僕を見ていた。

「はい、こんにちは……」

 挨拶を返した後、気の利いたことも言えずに、僕はただ彼女と見合ったまま立ち尽くした。歳は同じくらいだと感じたけど、今の自分とは相容れないような、浮世離れした印象を受けた。動かない時間の後、気まずさに包まれる直前に彼女は口を開いた。

「寒いね」

 僕には何故かその言葉が「寂しいね」に聞こえた。初めて会ったのに、彼女は僕と会話をしようとしている。慣れない出来事に、僕は大きく戸惑った。彼女が何を求めているのか、僕にはわからなかった。きっと、きまぐれに挨拶程度の会話をしようと思ったのだろう。でも、どうして僕なんだろう。

 まごつく僕に呆れたのか、彼女は言葉を続けることなく目線を外した。そして、寒そうに腕を押さえた。

 僕は自販機の前へ戻ると、缶コーヒーを一本買った。温かいコーヒーだ。

「はい、あったかいコーヒー」

 そう言って差し出したコーヒーを、彼女は不思議そうに見つめたが、笑顔を浮かべて受け取った。

「誰か待ってるの?」

 彼女が缶コーヒーに口を付けた時、僕はおもいきって聞いてみた。これはナンパになるのだろうか。でも彼女は缶に口を付けたまま、何も話そうとしない。返事が得られないことで、僕はまた何をしていいかわからなくなった。

「そうなるのかな……」

 ようやく聞けた彼女の返事は、とても曖昧なものだった。その声はとても細くて、僕にではなく、遠くに向けて言っているようだ。僕は、ひょっとしたら彼女の時間を邪魔してるんじゃないかと思い始めた。

「それじゃあ」

 それじゃあなんなのか、自分でもわからないけど、そう言って立ち去ることにした。ずっと人見知りだと思っていたけど、こんなにもひどかったのかと、自分自身に失望した。小さくない悔しさを感じながら歩き出すと、彼女が僕の傘の中に入ってきた。

「傘、持ってないんだ」

 僕と歩調を合わせながら、彼女は言った。そうか、彼女は傘が欲しかったのか。話しかけてきた理由がやっとわかったけど、でも、進行方向はこっちでいいのだろうか。

「どこに行くの?」

「えっと……」

 また、彼女の目的がわからなくなった。僕の質問に答えないまま、彼女は僕と一緒に歩いている。彼女の沈黙が終らないまま、進む距離は伸びていく。いよいよ答えが知りたくなった僕は、足を止めて彼女に聞いた。

「こっちでよかったの? 良かったら、この傘……」 

 そこまで言って気付いた。立ち止まったところは、繁華街の外れにあるラブホテルのまん前だった。ホテルから彼女に視線を戻すと、彼女は何も言わずに、ただ僕を見つめていた。その濡れた肩から、かすかに下着が透けていることに気付いて、思わず息を飲んだ。

 衝動は突然だった。僕は彼女の手首を握ると、早足にホテルへ向った。そして、中に入ると、いつかドラマで見たように、部屋の写真が並ぶボードのボタンを押して、案内に促されるまま部屋へと入った。その間、彼女の手首は握ったままだったが、一度も顔を見れなかった。

 部屋に入ったはいいものの、次に取るべき行動が知識の中になかった。彼女を見ると、ぼんやりと部屋の内装を眺めている。

「怒ってる?」

 とんでもないことをしてしまった。きっと彼女も急な出来事に戸惑っているのだろう。そう思った。でも彼女の返事は意外なものだった。

「どうして?」

 問い返された僕は、その言葉に驚いた。そして、次の瞬間には彼女をベッドに押し倒していた。そんな自分にも驚いていた。


 数時間後、僕達はホテルを出た。雨はあがっていた。初めての経験は、とてもぎこちのないものだった。よく初体験の後は大人になった気がするというけど、そんなことに思いが及ぶことなく、罪悪感と所在無さで逃げ出したいほどだった。

 横を見ると、ホテルに入る前と全く変らないように見える彼女がいた。もう傘は要らないのに、今も並んで歩いている。彼女は、セックスに慣れているように思えた。積極的だったわけじゃないけど、戸惑いも、恥じらいも、彼女からは感じられなかった。あんなことをした後だと言うのに、僕はまだ彼女の本心が解らずにいた。

「僕でよかったの?」

 その質問に対して、彼女は微笑みを返した。その意味はわからなかったけど、笑ってくれたことで、許してもらえたような気がした。安心ついでに、僕は独り言のように疑問を呟いた。

「自分でもわからないんだ。何故こんなことになったんだろう」

 すると、彼女はあっさりとその疑問に答えた。

「雨が降ってたから」

 全く答えになってない。なっていないけど、彼女が言うとそれが真実のような気がした。僕と彼女が結ばれたのは、雨が降っていたからだ、と。

 僕は、あの自販機前のバス停まで彼女を送ると、少しだけ話をして別れた。少し歩いて振り向くと、彼女はいたずらっぽく言った。

「それじゃあ」

 僕は苦笑いしてそれじゃあを返した。それじゃあの後には何が続くのだろう。「またね」なのか「また今度」なのか。わからないけど、きっと前向きな今後を示す言葉が続くはずだ。

 寮まで帰る道すがら、ずっと彼女のことを考えていた。セックスまでしたのに、よく顔が思い出せない。何もかもが幻だったような気もするが、熱がくすぶったような、初めての性の余韻は今だに残っていた。両手に残る彼女の柔らかさを思いだしつつも、ホテル代へと消えた生活費が、思いのほか大きいことに気付いてため息をついた。


 次の日、いつものように過ごした僕は、いつものように夕刊を配った。一つ違うのは、僕は運転しながら首を左右に振って、彼女の姿を探していたことだ。だけど、見つけることはできなかった。昨日と同じコースだったけど、例の自販機コーナーには、しゃがみこんだ柄の悪い連中が、煙草をふかしながら談笑していただけで、彼女の姿は見られなかった。いつもあのワンピースを着ている訳じゃないんだろうけど、配達している間、ずっと白い姿を探した。

 配達を終えた僕は、昨日と同じように繁華街へと向った。昨日買えなかった雑誌を買う為、というのは二の次で、本当の目的はもう一度彼女を探すことだ。運転中に見つからなかった姿も、徒歩ならば見つかるかもしれない。そんな淡い希望を抱いて進むけど、自販機前にも、ホテルの近くにも、彼女の姿はなかった。それでもまだあきらめきれない僕は、キョロキョロと街を見渡しながら進み、結局本屋の前まで来てしまった。さっさと雑誌を買って外に出たとき、店の前にある傘立てを見て、彼女の言葉を思い出した。今日は雨が降っていない。雨が降れば、また彼女と会えるかもしれない。そんな薄っぺらい根拠に何故か納得した僕は、薄暗くなった街を一目散に通り過ぎて寮へ戻った。


 次に雨が降ったのは、雑誌を買ってから三日経った午後だった。パラパラと降り始めた雨はその強さを変えずに降り続き、とうとう配達の時間まで雨音を鳴らしていた。販売所に着いて合羽を着込む時も、僕の頭の中は彼女のことでいっぱいだった。今日こそ彼女と会える……、小さな根拠はいつの間にか確信にまで変っていた。

 配達が始まれば、例の自販機はすぐに現れる。期待を膨らませてその前を通過すると、本当に彼女はいた。あの日と同じように、白い服を着て自販機前のベンチに座っている。このまま配達をやめて彼女のもとへ行きたい、そんな思いを押し殺してその場をやりすごした僕は、いつもよりもずいぶんと早くコースを周った。販売所へ帰る途中も、彼女の姿は変らずにそこに在った。急いでバイクを戻した僕は、挨拶もそこそこに販売所を飛び出て、彼女がいる自販機前まで走った。肩やジーパンの裾が濡れるのも構わずに、とにかく走った。何かのために、こんなに夢中になって走ったのはいつ以来だろう。ふとそんな考えがよぎったけど、それを思い出す前に目的地へたどり着いた。急いで走ってきた僕を見た彼女は、少しだけ驚いた後ににっこりと笑った。


 僕をこれほどまでに突き動かすものは、やはり性欲だ。初めて女性を知って、さらに知りたい、さらに深く繋がりたいと思った。彼女を目の前にしても、僕はその欲望を抑え取り繕うことができなかった。虚ろな会話を交わした後、僕は彼女の手を引いてあのホテルへ向った。今回は断られるかもしれない、失礼な男だと嫌われるかもしれない、そんな思いも確かにあったが、僕の欲望はそれらを勢い良く振り払った。淫らな思いを果たすため、ただそれだけの思いで彼女の手を引き、ホテルの部屋へ入った。

 彼女の表情を見ると、少しだけ息を切らせていたが、不機嫌なものではなかった。それで十分だった。彼女の気持ちをあえて考えないように努めて、自身の欲望に従った。いきなり彼女を引き寄せて唇を重ねると、慌しく胸をつかんで揉みしだき、スカートを捲り上げて下着の中に手を入れた。彼女の口からせつない声が漏れた時、かすかに残っていた躊躇は瞬く間に霧散した。そうなった後は、理性をどこかへ投げ捨てたかのように彼女の身体をむさぼり、延々と性を解放させた。


 冷静さを取り戻した時には、ずいぶんと時間が経っていた。隣で寝そべる彼女の肢体を見ても、もう欲情は湧き上がってこない。体力も精力も、全て彼女の中に発散させたのだ。彼女の腰を指でなぞり、滑らかな起伏を楽しみながら、僕は充足感のようなものを味わっていた。僕の体の下で何度も声を上げ、きつく抱きついたその反応を思いだし、何か彼女を征服したような、支配したような気もしていた。そんな満足気な僕を見つめた彼女は、優しく笑いかけて起き上がり、シャワーを浴びた。そのシャワーの音さえも、自分のもののような気がした。

 シャワーを終え、鏡に向って髪を整える彼女に、僕は連絡先を聞いた。この充足感を手放したくない、そう思ったからだ。だけど、彼女は自分の連絡先を教えようとはしなかった。また会いたいから、と何度言っても取り合ってくれない。落胆する僕を見た彼女は、僕の頬に手を当てて優しく言った。

「雨が降れば、きっとまた会えるわ」

 その表情は、わがままを言う子供をたしなめる母親のようだった。


 彼女の言葉は嘘ではなかった。あれから、雨が降る度に彼女は現れ、その都度僕達はホテルへ入った。梅雨に入り雨の日が続くと、その頻度も一気に増えて、連日愛し合う日もあった。確実に二人の身体が馴染んでいく思いがしたが、彼女は頑なに連絡先を教えてくれなかった。彼女の思いを尊重して引き下がっていたけど、それも徐々に限界に来ていた。彼女の全てを知りたい、常に一緒にいたいと思うようになっていた僕は、次に雨が降った時、必ず聞き出そうと心に決めていた。最初は性の欲望のみだった僕の心は、いつしか沸き立つような恋心へと変っていた。

 

 そんな思いを抱えたまま、僕は悶々としていた。そうさせる理由は、梅雨の晴れ間だ。梅雨だというのに雨が降らない日が続き、結果彼女と会えない日も続いていた。そんな日々を過ごす中、僕は一緒に田舎から出てきた友人に合コンへ誘われた。彼女と会えないことでいろんなものが鬱積していた僕は、半ばやけになってその誘いを受けた。それまで、合コンどころかまともに女子と話したことがなかった僕が、二つ返事で合コンに訪れるということで、友人はとても驚いたようだ。意外に受け止められるのは尤もだけど、女性に対してどこか自信が持てた気がしていたし、合コンぐらいなんてことないと高をくくっていた。

 結果は散々なものだった。会話をしようにも、共通の話題が全くない。どこそこのショップの、ヘンテコな名前のブランドがどうだとか、最近できたお洒落なデートスポットの感想だとか、流行のテレビドラマに出ている俳優がかっこいいだとか……。何一つ会話に入れないまま時は過ぎて、合コンはお開きを迎えた。友人からはノリが悪いと指摘され、全く成果がなかったのはお前のせいだと冗談まじりになじられた。

 全く女子と噛みあわなくても、友人に非難されても、僕は平気だった。彼等は知らないんだ。僕は、美しい女性を何度も抱いて、数え切れないほど喜ばせているということを。合コンでのくだらない話しの数々は、全て遠回りな求愛行動だ。自らを飾るため、かっこよく見せるために、たいして意味のない情報を披露するその目的は、つまるところ異性の身体しかない。セックスをしたいがために虚勢を張る友人の姿は、今の僕から見れば滑稽だ。僕には、そんなことをしなくても、思うが侭にできる女性がいる。僕には、たった一人、彼女だけがいればいいんだ。

 

 なんとか二次会にこぎつけようと食い下がっている友人をよそに、僕はさっさと家路についていた。こんなくだらない集会に、なけなしの金を払うのは馬鹿馬鹿しい。星空の下、どこか優越感さえ感じながら歩いていると、目の前にはあのホテルが見えてきた。今日は雨は降っていないから利用することはないが、そのホテルに近づくと、徐々に喜びがこみあげてくる。このホテルはいつしか、僕にとって大切な場所になっていた。彼女との関係を深めてくれる場所、僕を成長させてくれる場所だ。夜空を見上げ、明日こそは降ってくれよ、と願った後に視線を戻すと、信じられない光景が飛び込んできた。


 ホテルが立ち並ぶその中を、大柄な男と並んで歩く彼女が見えた。何がなんだかわからずに立ちすくむ僕に気付かず、彼女はその男と共にあのホテルへ入っていった。

 気が付くと僕は走り出していた。彼女を追って訳もわからないまま走ると、自動ドアの手前にいた彼女に追いつき、その肩を掴んで振り向かせた。

「何なんだよこれは! どうして今いるんだ!? この男は誰だ!?」

 彼女の両肩をつかんで、強くゆすった。一瞬でも早く、この禄でもない事実を振り払らおうと、二度三度とゆすった。だけど、それはすぐに制止させられた。男が僕と彼女との間に割り込み、威圧するように睨みつけたからだ。

「お前、この子の何だ? 男か?」

 上から睨みつけながら、男は僕に聞いた。僕は負けずに睨み返して詰め寄った。

「そうだ! 彼女は僕のものだ! あんたこそなんだ? なんで彼女とこんなとこにいるんだよ!?」

 僕は、今まで出したことのないような、叫びにも似た声を張り上げていた。だけど、必死な僕とは対照的に、男は意外そうな顔をした後、呆れたように笑った。どういうことかわからない僕は、側で立ち尽くしている彼女を見た。困惑している彼女は、僕と目が合うと何故かすぐに逸らした。その態度に余所余所しいものを感じた時、男から嘲笑まじりに問いかけられた。

「お前なあ、本当にこの子の男なら、なんでその商売を知らないんだ?」

「……商売? 商売ってなんだよ」

 混乱する頭で、必死にその言葉の意味を探った。それも無為に終った時、男は今度は彼女に向けて問いかけた。

「おいネエチャンよ、こいつは何か勘違いしてる客か? それとも娼婦だと言わないまま付き合ってんのか?」

 ショウフ……、男が発したその言葉の意味が解ったとき、僕の頭は真っ白になった。呆然としたまま彼女を見ると、悲しそうに顔をうつむかせている。男の言葉に応えることなく、ただうつむいている。

「冷めちまった。今日はやめとくわ」

 この状況に飽きたように言い捨てた男は、僕達を残してホテルの外へ歩き始めた。その余裕ぶった背中に我慢ならなかった僕は、雄叫びを上げながら駆け寄り、背後から殴りかかった。思いっきり男の背中を殴ったけれど、痛めたのは僕の手首の方だった。男はゆっくりと振り返って息を一つ吐くと、僕の左頬をぶん殴った。派手に吹き飛ばされた僕は、立ち上がる気力さえも奪われて、無様に転がった。

「ガキが。腹立てる相手が違うだろうが」

 そのがなり声の後、遠ざかる男の足音が聞こえた。


 僕は、駐車場に繋がる通路に横たわりながら、どこか自分を客観視していた。何故寝転がっているのか、何故頬が痛いのか、何故涙が出るのか。口の中に広がる血と、夜空に浮かぶ星々、漂う排気ガスの匂い、冷たい石畳。そして、言い様のない悔しさ。そんなことをスライド写真を見るように感じながら、体中の力を抜いて起き上がることを放棄した。

 そんな僕に駆け寄ってきたのは、悲壮な顔をした彼女だった。側に膝を付いてハンカチを取り出し、血が流れ出す僕の口にあてた。彼女の手は小刻みに震えていた。

「ごめんなさい……」

 力なくそう言う彼女に、僕の心は掻き毟られた。謝るということは、彼女は僕に対して罪の意識があるということなのか。あれほどまでに恋焦がれた彼女は、本当に金の為に誰とでも寝る売春婦なんだと思い、混沌としていた感情が黒く染まっていくようだった。

「どうして、僕からは金を取らないんだ」

 その質問を受けて、彼女は押し黙った。寝転がったまま、真上の空を見上げていた僕は、視界の外にある彼女を見る為に、少しだけ頭を傾けた。彼女は僕の口にハンカチをあてたまま、まぶたを押さえることもできずに涙を流していた。

「……本当にごめんなさい」

 彼女は、その言葉とハンカチを残して僕の側から離れていった。僕は追いかけることもせず、しばらく横たわったまま、その場から動かなかった。


 翌朝、僕は配達を休んだ。左頬は大きく腫れあがり、見慣れた顔をマンガのように変化させていた。そして、右手の手首も痛みが引かず、まともに動かすことができなくなっていた。これではカブの運転もできない。販売所に電話を掛けて、所長に酔って転んだと嘘をついて、なんとか休む事ができた。久しぶりに休暇を取ることができた僕は、しばらく眠ることにした。

 喉の渇きをおぼえて起きると、いつのまにか夕方になっていた。トタンの屋根がおかしなリズムを取っていることに気付いた僕は、カーテンを開けて外を見た。雨が降っていた。あれほど待ち望んでいたにも関わらず、今はこの雨音が鬱陶しくて仕方なかった。昨日の出来事をすぐにでも忘れたいのに、雨音が彼女の顔をちらつかせる。薄暗い部屋で一人、うずく頬と手首、そして昨夜の残像に苛まれて、今にも気が狂いそうだ。冷蔵庫から牛乳を取り出して一口含むと、切れた口がひどく痛んだ。

 口の痛みは、彼女の涙を思い出させた。今頃、彼女は何をしているのだろう。雨が降る今日は、いつものようにあの自販機の前に佇んでいるのだろうか。いや、仮にいたとしても、もう関係のないことだ。彼女は売春婦、誰とでも寝る女だ。僕から金をとらなかった理由はわからないけど、おそらくはただの気まぐれだろう。いずれにしても、もう彼女と関わることはないんだ。


 その翌日もそのまた翌日も、街には雨が降っていた。ずっと同じ調子で、強くもなく弱くもなく、まるでその雨音が街の声のように、しとしとと降り続いた。のらりくらりと所長の詮索をかわし、配達を休み続けていた僕は、一歩も外に出ることなく寮で過ごしていた。何もする気が起きず、ぼーっと外を眺めていると、いつの間にか彼女のことを考えてしまっている。もう関係ないはずなのに、気がつけば彼女の声や匂い、そして寂しげな笑顔が浮かんできた。すぐには忘れることができないほど、彼女は僕にとって大事な存在になっていたんだと思うと、胸の奥を複雑な感情が行き交った。悔しさや恋心の混濁は、僕の気力を根こそぎ吸い込んで、眠たくもないこの体をふとんへと誘った。

 正午を過ぎたころ、寮に所長がやってきた。僕のことを心配になって来たのだという。そして僕の顔を見るなりおおげさに驚いて、急いで病院に行けと命令した。確かに、片側の頬だけがいびつに膨れたこの顔を見れば、これくらい驚くかもしれない。


 しばらくぶりに外に出てみると、全身にまとわり付いていた淀みが、スーッと浄化されるような感じがした。気が滅入るには十分の経験をしたけれど、それ以上に、室内にい続けたことが心を濁らせていたのだろうか。雨は変らずに降っているものの、少しだけ心が晴れた僕は、病院へ向うためにバスに乗った。

 おかしな顔を見られることに少し抵抗があったけれど、誰一人として僕に関心を持つ者はいなかった。少しだけ拍子抜けして座席に納まると、ぼんやりと窓の外に目を移してバスの振動に身体を預けた。

 

 のんびりとした虚脱感に包まれていた僕は、これからバスが通るルートをなんとなく確認した。そして、もうすぐ例の自販機前に停車することに気付いた。夕方にはまだ時間がある。雨は降っているけれど、彼女がいるはずはない。あんなことがあったのに、あっからかんと同じ場所で客を探すことはないだろう。仮にいたとしても、自分には関係のないこと、どうでもいいことだ。

 あきらめにも似た心境のまま、バスが停まるその時を待った。


 スピードを落としたバスは、例の自販機前の停留所でゆるゆると止まった。彼女はいた。いつものように寂しそうに、自販機前のベンチに座っていた。白いワンピースではなくジーパン姿だけど、間違いなくそこにいる彼女を見つけた僕は、張りぼての達観をあっさり脱ぎ捨て、せわしなく料金を払ってバスを降りた。僕を見た彼女は、いつものような微笑を見せず、表情を変えないままゆっくりと立ち上がった。


 腫れた頬を見た彼女は、「大丈夫?」と聞いた。僕が小さく頷くと、彼女はまたベンチに座り、固い表情のまま語り始めた。

 本当に身体を売っていたこと、半年ほど前から客を取っていたこと、主な客は日銭を持った肉体労働者で、あの時の男もそうだったこと。警察や、街娼を管理するヤクザらの目から逃れるために、ホテル街から少し離れたこの場所で客を探していたこと。雨の日にだけ現れる理由は、雨が降ると建築現場が休みになるため、夕方からここへ来て早めに客を探していたということ。彼女は、悲しい事実を淡々と語った。意識的に感情を抑えたようなその喋り方が、余計に胸につかえた。

「どうして、どうして君が、そんなことをしなくちゃならないんだ?」

 僕は聞かずにいられなかった。こんなにも美しい彼女が、何故自分を傷つけながら街に立たなければならないのか。返ってきた言葉は無情なものだった。

「お金が要るの。今付き合ってる人には、どうしてもお金が必要なの」

 僕は何も言えなかった。彼女は僕ではない誰かと付き合っていた。その驚きはすぐに悔しさに変り、やがて疑問に変った。恋人のためとはいえ、売春なんかできるものなのか、金のために恋人に身体を売れと言えるものなのか、そこまでして必要な金なんてあるのか。彼女の言葉をそのまま受け入れることが、僕にはできなかった。

「彼は悪くないの。この仕事は、私が望んでやってることで……」

「悪くないだって? 君は騙されてるんだよ! そんなろくでなしとはすぐに別れろよ!」

 僕が声を荒げても、彼女の心に響くことはなかった。何度か首を振った彼女は、「彼は悪くないの」と、もう一度繰り返した。あれだけ深く繋がったはずの彼女が、ものすごく遠い人のように思えた。

 彼女を抱いた後、心地よい充足感をおぼえていたあの時の僕は、一体何だったのだろう。自分のものだと確信していた彼女は実は人のもので、その男のために身体を売っていた。関係を深める? 自分を成長させる? 哀れなほど滑稽な幻だ。運命めいたものさえ感じさせた雨の日々は、普段より少ない客を探す方策の、その結果でしかなかったのだ。僕は、彼女のことを一欠片も解っていなかった。独りよがりに悦に入って、彼女を占有した気になっていた。そんな僕を、彼女はどういう目で見ていたのだろう。哀れに思いながら抱かれていたのだろうか、呆れながらシャワーを浴びていたのだろうか……。


「ありがとう」

 いきなり発せられた彼女の言葉は、とても意外なものだった。頭の中の混乱が治まる前に、彼女は言葉を続けた。

「私が決めた仕事だけど、やっぱり辛かったの。嫌なことや悲しいことが続いて、逃げ出したくなっていた時、あなたと出逢えた。初めて逢った時、少し強引なお客さんだと思ったけど、私のことを普通の女だと思ってくれてるとわかって、仕事のことを結局言えなかった。雨が降るたび、あなたと会えると思うとすごく嬉しくて、辛いことを忘れさせてくれた」

 今日、初めて彼女は微笑んだ。そのはにかんだ笑顔は、やさぐれた僕の心をなだめさせるのに十分だった。そして、次の言葉でさらに大きく揺さぶられた。

「あなたと二人で、どこか遠くへ行けたらどんなに幸せだろうって、次第に思うようになってた」

 その言葉で、僕の中の暗い部分は弾けとび、力強い希望で満たされた。そのまま勢い任せて立ち上がり、僕は彼女の手を掴んだ。そして、驚く彼女に宣誓した。

「行こう! どこか知らない街で、一緒に暮らそう! 必ず幸せにしてみせる!」

 興奮して息の荒い僕と、驚いて見上げる彼女は、しばらく手を取り合ったまま見つめ合った。だけど、彼女は目を伏せ、首を振った。どうして、と強く問う僕に、彼女は「あの人を置いていけない」とあきらめたように言った。納得できない僕はさらに強く訴えた。すると、もう一度僕の目を見つめた彼女は、しっかりとした声で言った。

「あなたはきっと、私を許せないから」

 彼女の瞳は、悲しみを隠すように強く見開かれて、青臭い僕の心を射抜いた。


 ――どうして僕からは金を取らないんだ――


 彼女の眼差しに悲しみを見取った時、僕は自分が発したその言葉を思い出した。横たわる僕に駆け寄った彼女に対して、冷たく言い放った言葉。その言葉は、彼女をひどく傷つけていたのだと、今初めて知った。辛い現実の中でたまたま知り合った僕に、彼女は救いを求めていたのかもしれない。それなのに、事実を知った僕は彼女に冷たくあたってしまった。

 違うんだ、とすぐに言おうとした。だけど、言えなかった。果たして僕は、彼女の全てを受け止められるだろうか。ついさっきまで、僕は彼女を恨み、蔑み、一切の関係を絶とうと努めていた。そんな僕が、どの口で幸せにするなどと言うのか。なんて単純で、なんて無責任なんだろう……。


 言葉が見つからないまま立ち尽くした僕は、彼女の視線に耐えられずに、とうとう目を逸らしてしまった。すると、彼女は繋いでいた手をほどき、すっと立ち上がった。

「今日ここで待っていたのは、あなたと話しをする為じゃないの」

 驚く僕の目を見据えた彼女は、さらに続けた。

「私は、あなたからお金を貰わなければならないの。私を抱いた、その代金を」 

 声も出せずに、僕は固まった。冗談かとも思ったけど、そうではなかった。彼女はまっすぐに僕の目を見据えて、その返事を待っていた。呆然と彼女を見つめ返すことしかできなかったけど、彼女の瞳からこらえきれず涙があふれた時、その真意がわかった気がした。僕はポケットから財布を取り出した。きっと全然足らないのだろうけど、僕が持っている全額が入っている。その財布を彼女に手渡した。

「ありがとう」

 中を確かめずに彼女は言った。彼女が発した二度目のありがとうは、最初のものとは大きく違ったものだ。僕は彼女を買った。だいぶ支払いが遅れたうえに、ずいぶんと足らないけれど、僕は彼女の身体を金で買ったのだ。彼女は、娼婦として、客の僕にありがとうと言った。終始ぶれ続ける僕とは違い、彼女は彼女の現実に立ち返っていた。


 他人行儀におじぎをした彼女は、一切の未練を断ち切るように背を向けた。そして、初めて見る灰色の傘を開いて、雨の中に入っていった。

 その後姿に、僕は何て声を掛ければいいのだろう。行くな、がんばれ、待ってる、元気で、……どれも違う。そして何を言ったとしても、彼女には届かない気がした。錯綜する思いは、初めて会ったあの日の、わからないままにしていた言葉を見つけ出した。しかし、声を掛けようとした時には、彼女は雨の街に溶け込んで見えなくなっていた。


 夕方の陽炎が残る道路を、今日もカブに乗って走っている。ヘルメットに覆われた頭は汗にまみれ、次々にあふれて顎まで伝った。九月の半ばを過ぎても、いっこうに暑さはおさまらない。狙ってやってるとしか思えない西日とともに、毎日の配達をげんなりとさせた。

 ようやく最後の一軒を回り終えた僕は、すっかり軽くなったハンドルを大きくきって、販売所へ引き返した。毎月減り続ける夕刊の配達先は、僕の仕事を楽にはしたが、所長の機嫌を日に日に悪くさせていた。きっと、今日も愚痴の相手をさせるために、戻ってくる僕を待ち構えているだろう。でも、以前のような人生訓よりも、情けない愚痴を聞いているほうが楽だ。いつしか、所長の話を聞くことが苦ではなくなっていた。

 そんなことを考えている時、突然の夕立が街に降り注いだ。たまらずスピードを落とした僕は、目の前にあった屋根付きの停留所にバイクのまま乗り入れ、雨雲が行過ぎるのを待った。当分やまないだろうとふんだ僕は、バイクから降りて、自販機の前に立った。冷たいコーヒーを取り出した時、側に置かれたベンチが目に入った。そこは、いつも彼女が座っていた場所だった。

 あの日以来、彼女は姿を現さなくなった。晴れた日も、そして雨が降る日も。もしも僕と出会わなかったら、彼女は今日もここに座っていたのだろうか。色あせたそのベンチに、あの寂しげな姿が見えるような気がした。

 僕はコーヒーを一気に飲み干すと、また自販機に向った。そして、季節外れの温かいコーヒーを買うと、そのままベンチに置いた。

「さようなら」

 あの日、言えないままだった言葉を呟くと、僕はバイクにまたがった。そして、滝のように降る雨の中に飛び込んだ。シャツに沁み込んでべたつく汗が、この激しい雨で洗い流されるようだ。あんなに嫌いだった雨が、今はとても心地よかった。

この後書きまで読んでくださる人がいるのか、正直不安です。慣れない恋愛物で、心理描写や情景描写が多く、その内容も相まって、げんなりさせてしまったのではないでしょうか。不器用で独りよがりな主人公に、嫌悪感を感じた方もいるかもしれません。自分なりに、青年期の青臭さを描きたかったのですが、それほど成長していない自分自身を再認識しました。

最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。

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