ep.23 母
ようやく優太が泣き疲れ、眠りに就けたのは、日が落ちきった頃だった。
しかし目を覚ました時、外はまだ暗かった。
クビになったのに、「仕事!!」と思って飛び起きてしまった自分に苦笑いを溢し、スマホの時計を見てみると、一時十六分を示していた。
いつもなら、天もロウもマオも雪も来ている店内で、ワイワイと仕事をしている頃だ。
しかし、もうあの頃には戻れない。
そう思うと、あの日々が幻だった化のように思えた。
──皆、どうしてるのかな。
皆は、優太が辞めることを事前から知っていたのだろうか。
それとも、今日突然、優太が辞めたことを伝えられたのだろうか。
もし前者だったら、昨日、皆どんな気持ちだったのだろうか。
後者だったら驚いているだろう。いや、もしかしたら清々しているのかも知れない。
優太は、再び布団に潜った。
仲間だと言ってくれた人達を疑いたくないのに、優太の思考はマイナスな方向に引っ張られていく。
皆は……。
「……飯食べよう」
優太は体を起こし、ベッドから這い出た。
きっと、お腹が空いているからマイナスに考えてしまうのだと思った。
優太はやかんに火をかけ、ネットで箱買いしたカップ麺の段ボールを三ヶ月ぶりに開け、中から取り出した。
買ったときには余裕で食べきれると思っていたカップ麺は、しばらく見ていないうちに期限がギリギリなっていた。
でも暫く外に出る気になれないから、きっと大丈夫だろうと、優太はカップ麺を見つめながら思った。
湯をカップ麺の線まで入れて、三分待って開けると、うっかり液体スープとかやくの袋を取り出さずに湯を入れてしまっていたことに気がついた。
「あー……」
スープは液体だからまだしも、かやくは手遅れだ。
熱々になった袋たちを箸で取りだし、液体スープの袋を開けると、中からスープが飛び出して散らかった床を更に汚した。
「あーあ……拭かなきゃ……」
そう呟いたものの、拭く気にはなれず、優太は飛んだスープはそのままに、残ったスープを入れて混ぜ、麺をすすった。
しかし九条の料理に慣れてしまった優太の舌は、箱買いするくらい美味しかったはずのカップ麺を、美味しいと感じられなかった。
「……うっ」
涙はどうしてこんなにも出るのだろう、と優太は思った。
前の会社をクビになったときでも、こんなに泣いたことはなかった。
仕事を辞めて、こんなに悲しいと思ったことなんて、一度もなかった。
久しぶりに食べた塩辛いカップ麺は、半分以上残して捨てた。***
それから、何日が経ったのだろうか。
たぶん、二日くらいなのだろうけれど、優太にはそれ以上に感じられた。
Barにいた時は二日なんてあっという間だったのにな、と思いながら今日もカップ麺にお湯を注ぎ、啜った。
もうさすがに袋を取り出し忘れることも、液体スープを飛び散らす事もなくなったけれど、それでもカップ麺が不味いと感じるのには変わりはなかった。
数日前に食べたばかりなのに、九条の料理が懐かしく感じられた。
「ふぅ……」
カップ麺を三分の一ほど残し、優太はヘッドに倒れこんだ。
食べるだけ食べて、何も動いていないのに、何だか少しだけ痩せたような気がした。
優太は何となくベッドの下に手を伸ばし、最初に触れたものを手に取った。
それは一時期、とても話題になり、優太も徹夜で並んで買ったゲームソフトだった。
「……久しぶりにやるか」
テレビを点け、ゲーム機を繋ぎ、ソフトを入れてコントローラーを手に取った。
引きこもり時代は手にしっくりと収まっていたコントローラーは、今や異物のように感じられた。
ゲームが上手くいかないのは、きっとそのせいだ。
『Game over』と表示されたテレビを優太は消し、ゲームの電源もそのまま切った。
コントローラーを床に放り投げ、再びベッドの上に転がった。
本当に、何をする気にもなれなかった。
目をつぶり、何もせずにゴロゴロとしていると、不意に玄関の外から何やら声が聞こえた。
──何処かのお客さんかな。
そう思っていると、なんとそのまま優太の家の玄関の鍵がガチャリと開いた。
優太は思わず飛び起き、警戒体制を取った。
──まさか、あやかし……とか?
今までなら「不審者?」とか思ってたはずののに、いつの間にやら優太の思考はそっちの方向にしかいかなくなっていた。
やがて、ドアが静かに開いた。
喋り声と共に中に入ってきた人物を見て、優太は警戒体制を解いた。
「母さん……!?」
そこにいたのは、紛れもなく優太の母親だった。その後ろには、大家さんもいる。
恐らく、母は大家さんに言って、優太の部屋の鍵を開けてもらったのだろう。
「ちょっと、母さん! 勝手に入ってくるなよ!!」
優太は母に向かって怒った。
いくら親子だとしても、人の家の鍵を勝手に開けて入ってくるなんて、非常識すぎだ。
しかし、優太の母は優太を無視し、大家さんに「では、帰りの際は声を掛けさせて頂きます」なんて言っていた。
「母さん! 聞いてるのか!?」
優太は大家さんがいなくなったのを見計らって、母に歩み寄りながら先程よりも大きな声で怒鳴った。
しかし、やはり母は優太に見向きもしなかった。
流石におかしいと、優太は感じ始めていた。
「……母さん?」
優太は母を呼んだ。
でも、母は優太には目もくれずに、部屋の中を見回した。
「……汚いわねぇ」
母は、暫く部屋を見つめた後、ぽつりと呟いた。
「物は落ちてるし、ゴミは転がってるし、何かこぼれてるし……ああ、どうしたらこんなに汚くできるのかしら」
母は、呆れたとばかりにため息を吐いた。
「だから、独り暮らしなんて出来るのって言ったのに。こんな部屋で過ごしてたんじゃ、病気になっちゃうわよ……」
優太の母はしゃがみこみ、先程優太が床においたコントローラーを手に取った。
「母さ……」
「……優太ぁ……っ」
突然、母が泣き出した。
コントローラーを胸の前で抱き締めて。
──何だこれ……どういうことだ?
優太は呆然とした。
母が泣いているところなんて、初めて見たし、何よりこの状況を理解できなかった。
優太の姿も、声も認識していない母。
優太の名を呼び、泣き出した母。
そして偶然辿り着いた、あやかしだらけのBar。
何故かBarの光景が頭に思い浮かび、その瞬間、優太はひとつの説に思い当たってしまった。
でもそれは信じられない、信じたくない説だった。
「……泣くなよ、母さん」
優太は泣き続ける母の体に触れようと試みた。
けれどそれは、予想通り、母の体をすり抜けた。
──俺は……。
優太は空を掴んだ指先を見つめた。
『珍しいね、お客さん』
出会ったばかりの頃の、九条の声が甦る。
優太の説が正しいのならば、確かに珍しいのかもしれない。
『そうか……ユタも大変だろうが、頑張れよ』
天も、初めて会ったあの日、優太の事を見て、そう言った。
天も気付いていたのだ。優太の正体に。
もしかしたら、ロウも、マオも、雪も気づいていたのかもしれない。
──そうか。そうだったのか。
気付いてしまうと、すべてのことが腑に落ちた。
──俺は、もうきっと……。
だから、俺はきっと、あのBarに入れたのだ。