秋瀬優人
高校でも朱里は陸上部に入部することに決めた。
依子は中学と同じく吹奏楽部に入部し、詠美は中学で部活をしていなかったが、高校ではダンス部に入部した。
そして陸上部では、新入部員の歓迎会というものが開かれた。
新入部員や先輩部員がそれぞれ催し物をして、新入部員が早く部活に慣れ親しむことが目的で開かれるのだそうだ。
その歓迎会で朱里は細実という同じ新入部員の女の子と催し物のペアを組むことになった。
しかしその歓迎会で事件は起こった。
朱里と細実が出し物をしている最中、ひときわ大きな音が細実の方から聞こえた。
それは紛れもない誰もがする生理現象の音であった。
わざとでないことは朱里にはわかった。
細実はバランスを崩したとき、我慢していた腸の中のガスが出てしまったのだろう。
狭い教室内で催し物はおこなわれていて、その音は観客である部員たちにも聞こえたようで、しーんと静まり返る。
朱里と細実は2人とも近くにいたときに起こったので、観客にはどっちがやったのか判別しにくい。
司会をしていた秋瀬優人は壇上にいた2人の顔などから、やってしまったのは顔に傷のある少女ではなく、もう一人の方だということに気づいた。
予想外のことで、即座にフォローする言葉を優人は考える。
一方、朱里は何て言ってその音をごまかそうかと必死に考えたが、きつい臭いが漂ってきたことであきらめた。
細実は固まり、凍り付いた顔でいる。
朱里は覚悟を決める。
優人がフォローの言葉を思いつき、しゃべろうとした瞬間、朱里は手を挙げて口を開いた。
「すいませーん、やっちゃいました。決してわざとではなく、はずみで出ちゃった感じです。においが結構きついので、換気の方、よろしくお願いします」と、おどけて朱里は言う。
次の瞬間、大爆笑が教室内に沸き起こる。
「勘弁しろよー」
「かなり臭うな、何食ったんだよ」
笑い声とともにいろいろな言葉が飛び交う。
「卵かけご飯を食べました。さっきからおなか痛かったんですけど、必死に我慢してたんで、すいません」
朱里は笑う。
細実は信じられないという驚愕した表情で朱里を見つめる。
優人は目を見開き、驚いている。
司会としての位置からも、観客のように正面ではないので、間違いなく顔に傷のある少女がやったことではないということは優人にはわかっていた。
しかし、顔に傷のある少女が身代わりになってあげているのだ。
優人は微笑んだ。そしてフォローの言葉を大きな声で話し始める。
「はい、静粛にー!」
「みんなわかってると思うけど、誰でもする生理現象だ。今後、このことでからかったり、いじったり、噂したりするようなら最低人間になっちゃうからな」
「そういうことするやつは俺が絶対に許さないし、そんなやつは異性からも同性からもつまんない人間だと思われるぞー」
「陸上部にはそんな器の小さいような人間、最低な人間はいないよなー!」
優人は声を張り上げる。
すると、他の部員たちも口々に声をあげる。
「そうだよな。誰でもすることだもんな」
「小学生じゃないし、そんなんをネタにしないよ」
そして、優人はたたみかけるように最後の締めとして話す。
「陸上部はこういう素敵な先輩たちしかいないから、安心して明日から楽しく部活やろうな」
「新入部員たちも、陸上部に入ったからには、そういう素敵な人間になろうな」
換気のために窓を開け、催し物が再開する。
すると「ちょっと順番変えて、俺の出し物をお見せしようかな」と司会の優人が話し出す。
そして、みんなの前に立ち、マジックを披露し始める。
その腕前は相当なもので、みんなが驚きの声をあげる。
部屋の換気が終わった頃には、優人のマジックにみんなが魅入っていて、完全に興味・話題がマジックに移っていた。
歓迎会が終わり、部員たちは下校するため教室から出る。
人通りのない廊下を朱里が一人で歩いていると、後をついて来ていたのか、後ろから細実が話しかけてきた。
「佐藤さん、今日、ありがとう」
細実は頭を下げる。
「全然。気にしないで。私は顔に傷あるから、今日のことで怖がられなくてすむし、むしろよかったよ」
朱里は自分の左頬を指す。
「ありがとう」
細実はもう一度言い、その場を去っていく。
朱里は自分のクラスの教室に忘れ物をしたことに気づいたので、教室に向かっていた。
自分で決めてやったことだが、後悔がまったくないと言えば嘘になる。
今頃になって自分のやったことへのダメージが心にズシンと負荷を与えている。
朱里もふつうの女の子なのだ。ふつうの女の子と同じように精神的に傷つく。
私は恋愛をあきらめてるし、エマーだって、あの状況ならそうしたはずだ。
朱里は自分にそう言い聞かせる。
これまでも朱里は、そのようなつらい状況に陥ったら、エマーを思い出し、自分を奮い立たせてきた。
朱里は忘れ物を教室で回収し、家に帰るために下駄箱に向かう。
下駄箱に着くと、部長の優人が立っていた。
なんで1年生の下駄箱の前にいるのかと朱里は疑問に思いながら、
「今日はフォローしてくれて、助かりました。ありがとうございました」と言う。
優人は微笑む。
「あの子をかばったんだろ?」
朱里は驚き、優人の顔を見る。
優人は朱里の頭上に手をのせる。
「優しいんだな」
朱里は不意に自分の目から涙が零れ落ちたのに気づき、慌てて顔を背ける。
「あ・・・」
次に何て言えばいいのか思いつかず、朱里は焦る。
優人はその朱里の姿を見て、驚く。
精神的に強い子だから、あんなことができたと思っていたのに・・・。
優人はそう思い、目の前の顔に傷のある女の子を無性に抱きしめたくなった。
しかし、優人はなんとか思いとどまった。
いきなり抱きしめでもしたら引かれるかもしれないし、自分がタイプの男でなければ、そのような行為で傷つけてしまうかもしれない。
優人は朱里にハンカチを差し出す。
朱里は涙を止めたいのに、止めることができなく、「すいません」と言い、ハンカチを受け取る。
優人は何か言いたいと思い、素直に思っていることを口にした。
「俺は今までいろんな人を見てきたけど、君より素敵な人は知らない」
そして、朱里の腕にそっと手で触れ「じゃあまた明日、部活で」と言い、
その場から去っていく。
朱里は声を押し殺して涙を流しながら、優人の後姿を見つめていた。
優人は歩きながら回想する。
「優人、おまえ何で彼女つくんねーの?」
「この人だって思える人が現れるのを待ってる」
「とりあえず誰かと付き合ってみれば? 合わないなら別れりゃいいじゃん」
「付き合うからには自分から別れを切り出すなんてしたくない」
「だから付き合うなら、その先どんな魅力的な人が現れても、この人とずっと一緒にいたいと思えるぐらいに好きになった人がいいな」
「重いわ」
「確かに・・・重いのかな」
優人は回想を終え、空を見上げる。
顔に傷のある少女の姿が頭に思い浮かぶ。
そして、優人は思う。
この人だって思える人・・・見つけちゃったかもな。