後
部屋が見えた。
自分の部屋だとすぐにわかった。
六畳弱の部屋を見下ろしていた。
そして視界の端に、誰かの姿が見えた。
いや、誰かなんかじゃない。わかっている。
自分だ。
「来人さん、ごめんなさい」
死んだ鹿の声はもうしない。中途半端に低くて乾いた自分の声だ。
目の前に現れた自分の顔はさえないことこの上なくて、来人はガッカリ、どうにもこうにも、しょうもない気分になっている。
「口と口で接触すると、対象に寄生してしまうんです、私たちは」
元・死んだ鹿は来人の中に入ってしまった。
口と口が接触したから、鹿から来人へ寄生先を変えて、つまり今、来人は鹿の中にいる?
「すみません、話しておけば良かったですね」
そんな話を先にされていたらどう思っただろうと来人は考えた。
キスしたら体が入れ替わりますから、絶対にしてはいけません……。
ここで思考はストップ。これ以上考えては、死にたくなってしまう。防衛本能が脳の活動を一部停止して、来人はあやうく一命を取り留めていた。
(いや、こっちこそごめん)
ただの人間であった来人が入り込んだせいか、鹿から声は出なかった。
しかし思いは届いたようで、鹿は辛気臭い顔に微笑みを浮かべている。
「すぐに戻りましょう、と言いたいのですが、あの……」
(なに?)
宇宙入りの来人は着古したスウェット姿のままモジモジして、しばらくしてからやっと口を開いた。
「少しだけ、外の世界を見てきてもいいでしょうか?」
彼なのか彼女なのか、鹿に寄生していた宇宙からの使者の目的は、地球の視察だったと話した。
うまいこと鹿に入り込んだのに、すぐにはく製にされてしまって、目的はまるで果たされていないんだとか。
「ずっと蔵の中にいたんです。なので、ほんの少しでいいんです。来人さんの体、お借りしてもいいでしょうか」
冴えないヤツだなあ、と来人は思う。
祖父の葬式の時にひさしぶりに会った従兄弟たちはみな似たような年代の子供たちだったが、誰も彼もあか抜けない田舎者で、でも、みんなそれぞれに生き生きしていた。部活に勤しんだり、男女交際を楽しんだり、塾通いに追われたり、趣味に没頭したり……。
客観的に自分を見つめて、改めて来人はがっかりしている。
鏡を見るのが嫌いだった。冴えない男が映っているから。
ゲームをしている時には画面が暗転する瞬間が怖かった。
ディスプレイにマヌケな自分の顔が映ってしまうから。
(俺なんかの体でいいなら、使ってよ)
せっかく生まれた命だもの。
どんな風だって、生きていけばいいんだよ。
そんなことを言われても情けなさが溢れるばかりだ。
気力がわかない理由はよくわからなかった。
だけど今、鹿と入れ替わって理解できた気がしている。
とにかく冴えないから。
顔も体格も並以下。なんだかしらないけれどありとあらゆるテストで百点を取れなかった。歩いていればなにもないところで転び、両親だってちっともイケていない。可愛い妹もいないし、口うるさい姉もいない。頼れる兄貴も生意気な弟も、ほどよくキャラの立った「主な登場人物」ですら、来人の人生には一人もいなかった。
つまらない人生を、つまらないまま浪費して、ますますつまらなくなって、この深い深いつまらない沼から出る光の道が見いだせずにいた。
「本当ですか?」
でもこれは、つまらなくない。来人の人生で初めての「つまらなくない」展開だった。
たまたま祖父の蔵で見つけた鹿のはく製に宿っていた寄生するタイプの宇宙生命体が、禁断のキスで体を入れ替えてしまうなんて。
(思う存分地球の見学してきて)
死んだ鹿に封じられていた宇宙人はひどく喜んで、冴えない来人の姿で何度も頭をさげた。
持ち主の言葉を真正面から受け取って、次の日から朝早く起きて支度をし、学校へと出かけて行った。
来人は鹿の中にいるので、両親の反応はわからない。
朝から夜まで、狭い部屋の中でじっと鹿のまま過ごす。
時計の針のスピードはひどく遅いし、外から聞こえる蝉の声がやかましい。
父も母も仕事のために出かけて行って、誰も部屋を訪れない。
お気に入りの動画を見ることもかなわず、今の自分の状態が一体どんなものか、ひたすら考えては答えが出ない時空で過ごしていく。
(解脱しそう)
渇きも空腹も、尿意すらも訪れない、無の時間。
まとまりのない無味極まった雑な部屋を見るだけ。危うく自我を失うかもしれないと思いながら、悶々と。
永遠のような九時間。
夏休み前のある日の、日が暮れる前に、宇宙から来た生命体は帰って来た。
「ただいま、来人さん」
宇宙から来た生命体は、女性なのだろうか。
冴えない自分はいつにない穏やかな笑顔で、優しい声をしている。
(大丈夫だった?)
「大丈夫ですよ」
(大丈夫だった)
「はい」
そんなわけがない、と来人は思う。
入学式にいたようないなかったような程度の印象の人間が急に姿を現して、大丈夫なわけがない。
けれど自分は幸せそうに微笑んで、今日の思い出を朝から順に、丁寧に話していく。
「朝、ご両親に挨拶をして一緒にご飯を食べました」
その間に流れていた、朝の情報番組。悲惨な事件も、誰かの快挙も、ほほえましい動物たちの映像も、すべてが興味深かった。
「学校に行くと話したら、とても喜ばれました」
外へ出て、歩いて、バスに乗って。どこも混み合っていて、様々なエネルギーに溢れていた。
「教室へ着くと皆さん声をかけてくれて、すべての授業を興味深く受けました」
どうして?
「明日から期末試験だそうで、帰る時間が早いらしいですよ」
そうか、と来人は思う。
試験前だから、他人に構ってなんかいられないのだと。
「来人さんはどうでしたか」
なんにもなかった。本当にただ、なにもない、時が流れるだけの一日で、素直にそう話すしかない。
体の持ち主のこんな愚痴を、鹿はどうやら理解できなかったようだ。
「あの、体、明日もお借りしていいでしょうか?」
(試験、受けられるの?)
「よくわからないので、体験してみたいのです」
こんなに前向きな考え方があるのかと来人は感心していた。
試験なんて面倒で、緊張するし、結果によっては屈辱にまみれる可能性だってある。
「どのようなものかは理解しています。それと、きっとですけれど、ご迷惑はおかけしません」
冴えない自分の顔が朝と違うことに気が付いていた。
顔立ちはそのまま、変わりようがない。でも輝きが違う。口元は常に微笑んだ形で、時折ディスプレイに浮かんでいたうつろな表情が打ち消されていた。
(いいよ)
ぼんやりとしたまま、来人は答えていた。
瞳は更に輝きを増して、その瞬間、自分の体は完全に別人に変わったように見えた。
「ありがとうございます!」
宇宙生命体はもしかしたら、とんでもない野望を持っているのかもしれない。
善良なふりをして、地球を征服する足掛かりを得ているのかもしれない。
でもそれも、関係ない。ただただ他人の作ったものや地球からの贈り物を浪費するだけの人生だったんだから。
世界がどうなろうと関係ないのだから、自分の体だって、どうなったって構わないはずなのだ。
だから体を貸し出して、宇宙の生命体の動向をただ見守っていく。
夕方に帰って来るたびに輝きを増して、来人の冴えなさは消えていく。
階下からは楽しげな家族の笑い声が聞こえてきて、罪悪感はすっかり解消されている。
「すみません、来人さん、お体を借りっぱなしで」
(いいんだ)
そう、いいのだ。なにもかもが前よりもいい。
無気力で挑戦する心がなく、定番しか愛せない狭量な自分よりも、宇宙生命体に任せていた方がみんな幸せなのだから。
(ディアに使ってほしい)
宇宙人入りの来人はそれは嬉しそうに笑って、鹿に入っていた来人はそれに打ちのめされたような気分になっている。
感情はすっかり複雑で、自分がどんな気分なのか正確にはちっともわからなかったのだが、どちらかといえばポジティブに寄っているという確信があって、来人はそのまま体を宇宙生命体に貸し続けた。
(これでいいんだ)
この魂では、今の時代、人間に生まれても、命をうまく使いこなせないのだから。
それをもっと有効に使いこなせる存在がいたんだから、使ってもらえばいい。
同級生たちはクラスがいつも誰か欠けていると考えなくていいし、学校も余計な手間がなくなる。
家族は明らかに幸せになった。悩みが解消された、現在も、未来についても。
「来人さん」
学校が夏休みを迎えても、宇宙生命体はアクティブに活動していた。
家や学校の周囲を散策したり、部活動の見学をしたり、地域のイベントに参加したり、短期のアルバイトまでこなしている。
(なあに)
充実した毎日の最後には必ず、体を返そうか確認される。
来人は断って、宇宙生命体はにっこり。明日の予定を語られる。
「今日、少し帰るのが遅かった理由なんですが」
(うん)
ああ、キラキラしているなあ、と来人は思う。
「同級生の女子生徒に交際を申し込まれたんです」
衝撃だった。
あの冴えない自分が。
中身を入れかえただけで?
「どうしたらいいでしょう」
いや、違う。中身は大事だ。
卑屈で怠けもので尊大な自分じゃなくなった途端、すべてがいい方へ転がり始めた。
(どんな子なの?)
「誠実で、優しそうなお嬢さんです」
(いいと思うんだね)
「ええ、とてもいい人間だと思います」
じゃあ、付き合えばいい。
目の前にいる宇宙生命体は誠実で前向きだ。
名前も知らない同級生の女の子をきっと幸せにするだろう。
夏が過ぎて、秋が来て、ある日宇宙生命体は女の子を連れて帰った。
田中さんは特別にかわいらしくはないが、嫌な感じはしない。
無駄ないじめだとか争いをしないであろう気配で、地味な来人とはお似合いだ。
二人はベッドの上に座って一緒になって動画なんかを見て、時折見つめ合ったかと思ったら、キスをかわした。
来人は鹿の中で感動しきりだ。
一生ニートだと思っていたのに、すっかりリア充になっちゃって。
(ねえ、どうだった?)
初めてのキスって、どんな風?
「とてもとても素敵な気分でした」
ディアの感想は幸福そのものだ。言葉はなくとも、瞳でわかる。
「あの、来人さん」
(いいんだ、もう。なにも言わなくていい)
もう、その体は君にあげる。
来人の言葉に、宇宙からきた生命体はそっと黙った。
(僕はその体を上手に使えないんだ)
(君が使った方がいい)
(返せなんて言わない)
(別に本当の目的があったとしても、それでもいいよ)
(だって僕は、君以上にはやれない)
(なんにもやれない)
(だから)
目を閉じると、真っ暗になった。
以前は怖かった夜の闇。
ああ、今日もなにもしなかったという、悲しみに似た恐怖があった。
けれど今はほっとしている。
力いっぱい人生を歩む新しい住人に家を明け渡して、良かったと思っている。
なにもしない自分はおしまい。いらない。これ以上無駄にしなくて済む。
こんな幸せがあるだろうか?
来人はそう結論を出して、沈んでいく。
来人はじっと、鹿を見つめている。
もうなんの声もしない。命の転機を与えてくれた不思議な鹿のはく製は、この部屋にやってきた時よりも色が褪せたし、乾いてボロボロになったように見えた。
田中さんも「どうしてこんなもの飾ってるの?」と首を傾げていた。仲のいい家族もこれだけは、変な顔をする。
「大事なものなんだよ」
来人は必ずこう答えて、部屋の片隅に置き続けた。
初体験も見守ってもらったし、なにかが起きれば必ず鹿に報告して、このまま生きる許しを得た。
大学に通い、留学をし、就職して、結婚した。
子供が生まれて、親を失い、それでも続く人生を全うした。
鹿は来人になって、人間として生き続けた。
はく製はぼろぼろになって、最後には倉庫にしまわれたけれど、遺言により棺桶には二人で並んで入った。
(ディア、ありがとう)
焼かれる前に礼を言われ、宇宙からきた生命体は美濃橋ひまりの優しい声で静かに笑う。
最後の幸せの中で来人はすっかり充たされて、灰になって消えた。




