前
あれやこれや、人生にはいろんなことがあって、それらをあいまいに乗り越えずにやり過ごしながら受験した高校なんて、行けるはずがなかった。
義務教育や住んでいる町から解放されればどうにかなるなんて、考えが甘い。小山内来人は遺影を見つめながらそんな風に考えていた。
入学式の日に行って、その後はだらだらと行こうと考えているだけ、つまり欠席を続けている高校の制服は暑苦しいばかり。詰襟の学ランなんて流行るものじゃない、旧時代の遺物だ。
けれど学生にとってはそれが正式な服装だし、陰気な喪服に比べたらマシだろう。
父方の祖父の通夜、木魚のビートに乗る重低音は気だるくて、引きこもり認定の済んだ高校一年生を憂鬱の沼に沈めようとしている。
祖父との思い出。
正月と盆に会って、お小遣いをもらった。
以上。
ぽくぽくぽくぽく、単調なリズムに意識がかすむ。
大往生の老人の葬儀は湿っぽくならない。よく生きたねえ、迷惑をかけずに立派だったねえ、なんてポジティブな言葉が溢れていて、来人は責められているような気分になって眠れない。
葬儀のためにやってきたナントカという施設では、いつものベッドじゃないのですぐに眠れない。いつものベッドでもあまり眠れないのに、葬式に来た人たち御用達の布団なんてなおさらで、名前もわからない叔父のいびきがうるさくて嫌になってしまう。
憂鬱なままぼんやりと布団の中で時間の無駄遣いをしているうちに、ふっと、記憶が蘇る。
父親の実家には古めかしい蔵があって、小さな頃、従兄弟たちと探検をしに行ったことがあった。
元気いっぱいでこんがり焼けた真っ黒な従兄弟たちは遠慮なしに蔵に入って、いくつかの品物を壊した。埃まみれの箱に入っていた掛け軸は破いたし、これでお宝鑑定の番組にいつか出たいという祖父の夢は叶わなくなった。
叔父やら叔母やらが子供たちを並べて叱り、無実の来人もとばっちりで怒られた。
その時、ふと視線を感じて顔を上げると、蔵の奥に不気味なものが置かれていた。
「わあ」
来人のあげた声に、しょんぼりとうなだれていた祖父が応える。
「ああ、あんなものもあったなあ」
被害者が歩き出して、説教タイムは切り上げられる。その後蔵に集められていたメンバーがそれぞれどんな動きをしたか、記憶が定かではない。けれど来人は祖父に教えてもらったはずだ。蔵の奥にそっと置かれた鹿の首。いわゆるトロフィーについて、祖父が仕留めたもので、飾っておきたかったのに祖母に邪魔扱いされてしまわれたのだと。孫の目がキラキラして見えたから、祖父は自分が死んだらこれはお前にあげよう、と言った。
家に飾るには確かに派手すぎる、鹿の首。角が立派な雄のものではない、愛らしさの勝る雌の鹿のトロフィーだった。
そんな約束があったと親戚一同は誰も知らなかったわけだが、来人の主張はすぐに通った。蔵の隅でほったらかしにされていたボロのはく製、しかも見栄えも良くない雌のものなんて、価値がない。両親は少しだけ渋ったものの、どうして学校に行かないのか話してくれない、無気力そのものの息子が珍しく主張したのだから、望みをかなえようと決めた。なので、雌の鹿のトロフィーは、来人の部屋に運ばれることになった。
こうして引きこもりの六畳弱の部屋に、鹿のトロフィーが飾られた。狭い部屋で派手に出っ張り、毎日強い西日を浴びて輝いているような、急激に色あせていくような。
なんとなく思い出して、なんとなく面白いような気がして、なんとなく飾ってしまった鹿を、来人はあまり気にせずに過ごしていた。
季節が移って、窓から入る西日は強くなっていく。春よりも、夏の方が強烈だ。部屋をオレンジ色に染めては熱を振りまいて、来人と鹿をホットな感じにしてくれる。
そのホットが急上昇を始める前の、梅雨の合間のよく晴れていた日。
とうとう、来人は気が付いてしまった。
西日でギラッギラに照らされた鹿。
はく製にされて随分経つ、言ってしまえば死骸のなれの果てであるはずの鹿が、あまりのまぶしさに目を細めていたのである。
嘘だ、とか、気のせい、見間違いだと思った。当然ながら。来人は特にいじめられたわけでもないくせに無気力で学校に行かなくなってしまった引きこもりだが、鹿が死んで久しいことくらいは理解しているから。え、やだ、生きてた? みたいな考えには至らない。
手で光を遮ってみれば、鹿の目はゆっくりと通常のサイズに戻った。それをぱっと元通りにすると、うわ、とばかりに鹿の目は細くなる。
「まぶしいの?」
どんなつもりで問いかけたかの聞かれたら、来人も困っただろう。返事があるなんて思わなかったからこそ、こんな独り言だって出てくるものなのだから。
「ええ、はい」
なのに鹿は返事をした。口のあたりをほんのりもぞもぞ動かして。
「実は」
「マジかよ」
鹿のはく製がしゃべる。死んでいるくせに。しかも人語で。
「生きてる?」
「あー。いえ、……いや、まあ、そうです。この鹿自体は死んでいるんですけども」
「え、じゃあ、なに? なんか寄生しているとか?」
鹿はしばらく黙っていたものの、逃げることができないのか、それともできるけどしないのか、壁にかかったままこう答えた。
「そうなんです」
その声は優しくて、かわいらしくて、気持ちのいい響きだった。
なので不気味でもなかったし、怖くもなかった。
むしろ大好きな声優の声にそっくりだったので、自分だけのオリジナルグッズしかも非売品を手に入れたような気分ですらあった。
「宇宙?」
「そうですね、宇宙です」
「マジで」
「この鹿に寄生していたんですが、罠にかかって……」
はく製にされた、という話らしい。鹿の肉体は死を迎えたのに、宇宙からの美声生命体は死なないようだ。
「あなたはおじいさんの若い頃に似ています」
「おじいさんって、俺の?」
「ええ。私をあなたにあげようと話したおじいさんです」
本当は突っ込むポイントが山のようにあった。来人もうすうす気が付いているのに、大好きな声優である美濃橋ひまりと同じ声でしゃべられると、なにもかもがどうでもよくなってしまう。
「あまりおしゃべりな人ではなかったけれど、あなたに似て、優しそうな感じで」
うん、いい。ひまりボイスでこんなことを言われてしまうなんて。
「優しそう?」
「ええ。おじいさんは他人の悪口を言わなかったし、でしゃばらなかった」
あなたもそう見える、と鹿は言う。
宇宙からの生命体に寄生されし死んだ鹿にひまりボイスで褒められて、来人はひさしぶりに心を温かくしている。
「あの、来人さん」
「え」
「いつも聞いている歌、聞きたいです」
「いつも聞いている歌って……」
学校に行かない時間の余りまくった十代は、とにかく動画を見る。ゲームの実況とか、バーチャルアイドルとかのやつを特に。
「音珠リリスとか? 今朝見てたやつ」
最近最もお気に入りのボーカロイドの動画を、来人はそそくさと開いた。ディスプレイにピンクと水色の甘いグラデーションのポニーテール女子が現れる。
音珠リリス。可愛いだけじゃない。攻撃的で、鋭くて、だけど繊細であったかい。
架空だけど、バーチャルじゃない。来人にとってはここ何か月か不動のナンバーワンで、人生の相棒のような存在になっている。
彼女は高らかに、「世間の称えるすばらしさ」なんていらない。
自分なりに歩き、等身大の幸せを見つけたらいいのだと歌う。
頑張ることをかっこわるいと笑うやつらがかっこわるいのだと叫び、他人の目を気にせず生きればいいさと笑っている。
「すごく素敵な歌ですね」
ズギューンと音がしたように来人は思った。
自分の理解者がとうとう現れたように思った。
誰よりも素敵な声で、責めるばかりの正論を吐かず、同意同調のハリケーンでもみくちゃにしてくれる至福の存在。
無味無臭な暮らしに、砂糖が振りかけられていく。
バベル並の高い高い生クリームのタワーに、フルーツがたっぷりとトッピングされていく。
充満していた思春期男子独特の匂いは残らずすべて払われて、桃源郷の芳香に満ちていく。
ひまりボイスの力は凄まじい。死んだ鹿をかけがえのない「貴女」にしてしまうし、ないと不便だからと理由で、「ディア」なんて名前をつけてしまわせるんだから。
自分を肯定してくれる優しい死んだ鹿と動画を楽しむ日々。
机の上に置かれていたPCはいつしか膝の上へと移動して、来人は鹿の首に腕をかけながらお気に入りのラブソングを楽しんでいた。
なぜなのか?
問われても、答えられない。好きになるってこういうことなんだから仕方ない。とか、そんな言い訳がふっと頭をよぎったような、よぎらなかったような。
音珠リリスの甘ったるいバラードにうっとりして、つい。魔が差して。
ひまりの声が吐き出される鹿の口にチュっと触れると、来人の意識はぐんにゃりと歪んで、景色は不思議な変化を遂げた。




