143.「矢代さん! いたんですか?」
カラオケ大会は夜中まで続いた。
もちろんあのヒーローの曲は全員で歌いましたよ。
迫水くんが張り切って一人で男性パートを歌いきっていた。
声量が凄い。
まあ人数が多すぎてマイクが行き渡らず、ほとんどの人はアカペラだったからね。
ちなみに僕も。
女性パートでは炎さんがマイクを握って迫水くんと息の合った合唱を繰り広げていた。
ていうかもうほとんどこの二人の声しか聞こえなかったけど。
その後もデュエットやトリオの歌が頻出したし、ソロだと物凄く上手い歌が流れた。
みんな本気だった。
機会があれば練習しているのかもしれない。
信楽さんはなぜか昔のアイドル曲ばかり歌っていた。
最近のアイドル曲はみんな大人数の合唱なので合わないそうだ。
「なぜアイドル?」
「矢代興業の宴会でぇ歌わさせられるんですぅ。
歌いたくないと言ってもぉ承知してくれなくてぇ」
矢代興業の役員の人たちってパワハラしてない?
いや役職としては信楽さんの方が上だからパワハラじゃないだろうけど。
それでも晶さん辺りが迫ってきたら拒否しにくいよね。
「他の分野の歌が好きだとか言えばいいのに」
「それがぁ、声質やぁ歌い方を考えると私ぃに一番合うのはアイドル歌謡という結論になりましてぇ」
まあ本人も17歳なんだからどんぴしゃか。
20世紀のアイドルは大抵そのくらいの歳だったらしい。
昔のアイドルの写真見たことがあるけど、正直言って今の信楽さんの方が可愛かったりして。
まあ基準が違うからね。
今ならそこら辺を歩いている女の子の大半はアイドルレベルに綺麗で可愛い。
その上で歌って踊って芝居が出来ないとやっていけない。
恐ろしい世界だ。
おつまみやドリンクを補充しながら3時間くらい騒いだらさすがにみんな疲れたのかお開きになった。
途中からストレス解消のためか全力で歌う人が増えたからね。
比和さんとかはその最たる者で、終わった時には魂が抜けたような表情をしていた。
悟ったというか。
最前線で働いているからストレスが物凄いことになっているんだろう。
本当ならこうなる前にガス抜きしなきゃならないよね。
それって僕の役目か。
決意を胸にパーティ会場を後にする。
といっても全員、とりあえず自分の部屋に戻っただけだ。
女の子たちはみんなで示し合わせてお風呂に行くらしかった。
いい露天風呂があるとか。
問題は男パートだ。
僕は迫水くんに絡まれないうちに逃げたから彼が何をする気なのかは知らない。
正直、テンションが高すぎて疲れるんだよ。
一人になりたい。
ということで暇になったけど僕としても温泉は大賛成だ。
さっきは部屋でシャワーを浴びたけど、やっぱりお風呂は別格だよね。
ちなみにここは有名温泉地じゃないけどボイラー炊きじゃなくて一応本物の温泉が出るそうだ。
もっとも温度が低くて追い炊きしているらしい。
それでもホンマモンであることには違いないので手ぬぐいとスマホ、カードキーなどを持って出掛ける。
というのは部屋で案内図を調べているうちに面白いものを見つけたんだよ。
このホテルには付属? の温水プールがある。
全天候型で、つまり室内に作られているらしい。
もちろん普通のプールもあるし、そもそも海岸沿いでホテルの前は海水浴場なんだけど。
クリスマスなので当然そっちは閉めてある。
でも温水プールやジャグジーは一年中使えるとガイドに書いてあった。
僕はまずフロントに向かった。
当たり前だけど全裸でプールに入るわけにはいかない。
案内書に書いてある通りフロントでは水着を借りる手続きが出来た。
普通の宿泊客なら有料なんだけど僕たちはVIPなので無料だ。
ラッキー。
フロントの人にプールへの行き方を教えて貰って進む。
結構広いんだよ。
僕たち以外にもお客さんがちらほらいるけどアベックばかりで他のことは目にはいらないみたい。
こんな日に一家でリゾートホテルに来るような家族はいない。
従って僕たちも目立たずに動ける。
護衛の姿が見えないんだけど、そもそもこのホテル自体が矢代興業系列だから誰かの手の者が入り込んでいるんだろうな。
特に信楽さんは厳重に守られているはずだ。
僕と違って(笑)。
渡り廊下(屋根付き)を通って別の建物に入るとそこは体育館だった。
いやそんな風に見えた。
温泉やリゾート施設に加えて一通りの遊興設備が整っているらしい。
卓球とか。
僕はもちろん真っ直ぐ温水プールに向かった。
受付の所でカードキーを出して水着とキャップを貸して貰う。
全部オンラインで繋がっているからね。
紐付きのカードキーを入れるケースも渡された。
万一の事を考えて常に携帯してくれということだった。
なるほどなあ。
つまりこれって自己責任だから無くして悪用されてもホテル側は知りません、ということだね。
経営上のリスク回避が見事だったりして。
さて。
スマホとかをカードキーで使えるロッカーに仕舞って早速プールに行く。
25メートル級のプールの他に子供用やジャグジーもあった。
その他にも打たせ湯とかサウナとか。
ガラス張りの向こうは外で寒そうだ。
夏は扉が解放されていてそのまま外のプールや海岸にも行けるらしいけど、今はもちろん閉めきってある。
ていうか気温は別にしても外は真っ暗で怖くて出て行けない。
ちょっと準備運動してから水に入る。
そういえば僕、今年になってから泳ぐのって初めてかも。
夏は暑かったけど何せ近くにプールがないし、埼玉は海無し県だから泳ぎに行く機会がなかったんだよね。
そんなに泳ぎたいとも思わなかったし。
て言うか僕、考えてみたら夏休みもなかったような。
ずっと仕事だったりして(泣)。
とりあえず平泳ぎでプールを往復してからクロールに切り替えたらすぐに息が上がった。
運動不足なんてもんじゃないよね。
そもそも僕、体育は苦手というよりは嫌いだったし。
出来ないわけじゃないけど得意でもないんだよ。
勉強もそうだけど僕は努力すれば出来ます、というレベルだから。
天から才を与えられた人とは違う。
(そうか?
俺からみたら矢代大地って天に愛されているとしか思えんけどな)
無聊椰東湖の目が曇ってるだけでしょ?
内心でそう愚痴った時、立ち泳ぎする僕のそばを何かが通り過ぎた。
速い!
ていうかほとんど波も立てないけど、イルカか何かなの?
あっという間に5メートルほど進んだその影は唐突に止まると水面から顔を出してこっちを向いた。
「矢代さん!
いたんですか?」
静村さんかよ!




