2話
西暦1999年、ノストラダムスが真の預言者であるということは、最悪の形で証明されたことになる。
空の向こうから降ってきた『恐怖の大王』──『アンゴルモア』は瞬く間に地球を蹂躙し、人類が築き上げた文明を亡きものとした。最早、それに対抗しようという意思も力も残っておらず、ほんのわずかに残った人々は絶滅を待つだけ、のはずだった。
人類のごく一部はは、文明を見捨てなかった。生存をあきらめなかった。
じわじわと気温が上がっていた。
目を覚ますと、灰色の天井が目に飛び込んできた。金属ではなく、ざらざらとしたコンクリートがむき出しになったもの。
上体を起こせば、やや傷み綻んだ掛け布団がするりと落ちた。
ふわりと風が髪をなでる。
それには形容しがたい香りを孕んでいた。横を見てみると、きらきらと輝く青い景色が広がっている。
「海か……」
映像出力されたものではない本物の海。波が幾重にも重なり、浜辺へと打ち寄せている。プログラムされたものではなく、風と地形によっておりなされる現象にしばし目を奪われる。
かろうじて室内と呼べるような空間を見渡せば、衣類と釣り道具、桶、古ぼけた雑誌などが置かれ、雨水を蓄えられる簡易な装置もある。元々は物置か何かだったのだろうが、今では立派な住居となっていた。
タタと軽快な足音が聞こえてきた。扉の代わりなのか、立てかけられただけのトタンが押しのけられる。
逆光の中、ふわりと揺れる長い髪が見える。
「エイト、おはよう!」
「おはよう、ミライ」
健康的に焼けた頬を上気させながら、両手いっぱいに食料を抱えている。
先日案内してくれた畑から収穫してきたのだろう。
「起こしてくれれば僕も手伝ったのに」
「エイトは怪我人でしょ。治るまでは休んでていいの!」
右腕を指さされる。二の腕に巻かれた包帯を見て、ため息がこぼれた。
動かさない分には問題ないが、力仕事をこなせる状態ではない。
「……すまない」
「へいきへいき。それに、二人分準備するの久しぶりだから嬉しいんだ」
眩いほどの屈託のない笑顔で返される。
年齢的にはそう変わらないというのに、幼い印象を受けた。
「待っててね、朝ごはん作るから」
室内に並べられた調味料を回収すると、鼻歌交じりで外に向かう。キッチンといっていいのか分からないが、調理場は外にある。
ただこのまま待っているのもなんだか申し訳ないので、後を追う。
梅雨が明けたばかりの湿気に一瞬めまいがする。ふと空を見上げると、できそこないの入道雲と強い日差し、そしてうっすらと『月の破片』が見えた。
ここは、今まで暮らしていた世界とは対照的なほどに平和で穏やかで、夢の中にいるような錯覚を受ける。本当は『敵』なんていないのではないか、出来の悪い物語なのではないかと思ってしまう。
だが、そんなことはないと、空の向こうにある『破片』が告げている。
「エイトー、苦手なものある?」
「どうだろう、本物の野菜とか食べたことないから分からない」
「どゆこと?」
「サプリメントとかが基本だったからなあ」
生命を維持するうえで必要な栄養素を摂取することが、食事という行為の意味だった。娯楽とする余裕がなかったというのも大きいのだろう。
だから、好きや嫌いがわからない。そもそも味というものも、いまいちピンと来なかった。
「さぷり……? まあいいや、こんなんでいいかな?」
木材とプラスチックを組み合わせたテーブルにスープのようなものが並べられる。赤緑白と色取り取りの野菜がこれでもかと入っている。手に取るとずしりと重い。
「すごい量だね」
「そう、こんなもんだと思うけど。いただきまーす」
「? い、いただきま、す?」
何かのまじないだろうか。同じ言葉を繰り返し、スプーンを手にし、茶碗に入ったスープを口に含む。
「ぶっふっ!?」
「うぇ!? どうした、まずかった!?」
「ま、まずいというか……こ、これはっ……!」
なんだ、これは。舌がざらざらするというかちくちくするというか。喉がイガイガするというか。
刺激の強さに目がちかちかと点滅する。
「しょ、しょっぱかった!? あれ、でもお婆ちゃんはこのくらいが良いって、私も別に……」
しょっぱい。そうか、これがそういう味なのか。
「げほっ、だ、大丈夫だ。ただ初めての『味』だったせいでびっくりしたみたいだ」
もう一度、量を減らして口に入れる。舌の上でなじませ、初めての感覚を受け入れる。
ほんの少し舌が痛いが、身体が拒否しているという感じではない。飲み込んでみれば残り香というか、独特の風味が鼻を抜ける。
次いで、赤色の野菜を口に含み、かみつぶしてみると中からうっすらと別の味がしみだしてくる。
「うん、大丈夫だ。慣れた、たぶん」
「慣れ? まあ、食べられそうならいいけど」
「初めてなんだよ、味のするものって。だからびっくりしたんだと思う」
錠剤状サプリメントも水も味がしないものだ。それしか食べてこなかったものだから、どうも刺激が強すぎたようだ。
けれども三度、四度と口にしていくとしっかりと身体になじんでいく。不快感はない。きっとこれが『おいしい』というものなのだろう。
「この後はどうするんだい?」
「畑と魚獲りに行って、夕方まで図書館!」
「……それだけ?」
「他に何するの?」
「いや、たとえば」
トレーニング。彼女は軍人ではなく、そんな必要はない。
勉強。学校など存在していない。それどころか、生存するだけで精いっぱいのこの時代に何を学ぶというのか。
仕事。社会はもう崩壊しているというのに何をするのか。
整備。何を整備するのだ。
「……、……やること、ないね」
「いやいや、だから魚獲ったりするからやることはあるよ?」
なすべきことは、一日に一つか二つ。これが彼女の生き方。
退屈というべきか、平和というべきか。僕にはそれがわからなかった。けれど、ほんの少し、それを羨ましいと思った。