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第3節 「ヘル。刃沼」

◆地下研究所の一室

 誰か、長電話をしている。

研究員「え? ヘルさんですか。はいご存じです。確かちょっと前に失敗した被験体ですよね。え、それから変になったって? いやいや違いますよ。反対ですよ。以前から人殺しの癖があったんです。そりゃマズイってわけですので、私どもの持っている技術で何とかなりそうだな、と初めは思っていたんですよ。ところがうまくいきませんでね。

 心を壊した? ご冗談でしょう。そちら方面には効果が出なかったんですから。一部の研究員にも狂人化現象が表れているようですが、そのパターンですよ。今どき珍しくも何ともありません。まだ若い子ですからね、精神の変化も激しいのでしょう。ええ。相手を狂わす能力? いやそれほどでも……何か勘違いをなされたんでしょう。そういう特殊能力の類はなさそう……ううん、まあ、人間にも訳の分からない部分が多いですからね。だったら誰しもあるのかもしれません。私たちがいつも云っているじゃありませんか。『現代科学というのは、自然法則全体のうち、ごく数パーセントを解明したに過ぎない』って。

 え? 違って、って何がです? そうじゃなく、化け物を操る力、です、と……? いやはや、それもまた安易な誤解であります。化け物だって生物の端くれでございますよ? エサやったり、うまい具合に調教して、上手い人は心をつかませることもできましょう。そんなもんです。素晴らしい道には、つまらない現実が答えなのでありました。……はい、ええ……なるほど、できません。ほら、勉強がすぐ出来る人もいれば、出来ない人もいる。人それぞれですよ。私には化け物の調教する才能はありませんなぁ~。調教しようとも思いませんし。危なくなれば弱点を調べ、薬品を散布しての一掃が良いのではありませんか? まぁ人の健康体もゴミになりそうですが。はっはは。

 おっと、長話をしてしまって。貴方もお忙しそうなのに。失礼。ではこれで。はいはい、貴方には感謝しておりますよ。ええ。ではまた」

 研究員は電話を切った。そして誰に向かう訳でもなく合掌し、礼をした。

「ええ。感謝しておりますよ。口だけじゃありません。人を改善する研究をさせて頂き、私は満足です。ちょっとたくさんの人数を犠牲にするのが玉に傷ですが……まぁ、仕方ないですよね。未来の人々のためと思って、その命を頂きます。ありがたく頂戴いたします」


◆広間 夜

 刃沼はデガラシと一緒に、みそ汁と沢庵たくあんを食べていた。向こうにヘルが見える。相変わらず、数人の生徒と一緒だ。

刃沼(あれ。今日もサユリとか云う二人はいないんだな。仲違いしたのかな)

デガラシ「ここしばらく、レッドパスさん、見かけなくなりました」

刃沼「へぇ」

「前は毎日のようにホテルを徘徊してらしたのに。――あ、沢庵残すんですか、もったいない」

「沢庵は大根の日干しだ」

「干すんですか? 漬けるのでは――じゃなくて、なんで残すんです? 嫌いなんですか大根」

「みそ汁の大根はおいしい。おでんの大根はまだ苦手」

「おでんの大根の良さは、歳をとると、分かるそうですよ」

「ふーん」


◆丘 夜

 夜風に当たろうと、外へ出て、近くの丘へ歩いた刃沼。

ヘレネー「よ! こんな夜更けに」

刃沼「うん」

 しばらく沈黙したのちヘレネーが話し出す。

ヘレネー「ヘルがよ、このところ、よそよそしいんだ」

刃沼「怒鳴りつけた?」

ヘレネー「してねえ。……オレが近づくと、ささっと逃げ出しちゃうんだわ。この頃はオレ、ちゃんと風呂も入ってるし、洗濯もしてるし、臭くて避けられてる訳じゃなさそうだ」

刃沼「どうだろうね。やりすぎて漂白剤だか消毒剤の匂いがプンプンしてくる」

ヘレネー「あ、話は変わるけどさ。オレは民宿に泊まってるだろ? レッドパスもそこに泊まってるはずなんだけど帰ってこないのヨ」

刃沼「また行方不明者発生かな。もう数えてない、行方不明者数。何人目?」

ヘレネー「違うだろ。普通の人間じゃねえんだ奴は」

刃沼「その油断が大敵だったりして」

ヘレネー「う~ん……」

刃沼「ああ、これ返すね。妹さんの落とし物だから」

 刃沼は小刀を、ヘレネーの手の上に置いた。ヘレネーはそれを、まじまじと見つめるばかりだった。「ヘル……のもの、なのか……」ぼそり云う。色々、悩み込んだ様子でもある。


◆909号室

 ヘレネーが去って行ったのを頃合いに刃沼も帰る。化け物騒ぎでボロボロになった部屋909号室に戻る。ドアを開けると正面に、ヘルがちょこんと座っていた。

刃沼「デガラシ、は――」

ヘル「デガラシ姉には、少し出てって、ってお願いした。 刃沼と二人で話したい、って」

刃沼(雰囲気がやや違う――。それにしても、なんでこの人は私にしつこく関わる?)

 急にヘルは泣きだした。

ヘル「貴方しか、話せる相手がいないんです……!」

 ヘルのしおらしさと対照的に、刃沼は警戒心を持った。潜在的な警戒心だった。

ヘル「今日二人を殺しました。わたしがやったんですが、わたしじゃない。わたしの中のわたしが。1つのわたしが。暴走する。助けて……!」

刃沼「ふーん……、いかにも多重人格……っぽい話だなぁ。いつもと喋り方も違う気がする」

ヘル「どうなんでしょう。分かりません。何も分からないんです。ただ人を痛めつけるのが楽しい。ただ苦しむのを見るのが嬉しい」

 ヘルの目が、少し淀んだ。

刃沼「医者に云った方がいいと思うな。私には医療の知識もなければ、精神科医でもない。ヘレネーやデガラシにも云いなよ。そっちの方がいいアドバイスをしてくれるだろうよ」

ヘル「姉は駄目です」

「なんで? その性質を知られたくない、と」

「それもあります。でも……今、姉を見ると…………」

「んー……?」

「……殺してしまいそうで」

「おーお、次は姉殺しかぁ……。何とかなんないもんかな、その多分に迷惑な性質は」

「…………」

 刃沼は銃を取り出し、ヘルに銃口を向ける。

「どうする? もういやだってんなら、自害という選択肢もあるが――」

 銃をしまう。

「正直、私はそういう役、嫌だなぁ」

「――刃沼さん。貴方も幼少時代、たくさん人を殺してきましたよね」

「ん…………」

「殺しが止められない。私と同じですよね?」

「ヘルの云う意味とは、違うよ……。ヘルは……もうこりゃ快楽殺人者に成り下がっている。そちらは一種の依存症かもしれない。――だが、私は生き延びるためには、殺すこともいとわなかった。その違いだ。――好き好んで、やる訳がないよ。痛い目を見るし。何より心身共に疲れるし」

「私だって……、私だって」

「少なくとも私は、今のヘルの、殺しが楽しいとかいう感覚を理解することは、到底できないよ。生き死にってのは辛さしかないもんだ」

「んんんん……、ううう……。じゃあ、もう、いいよ。……死んで」

 部屋の窓と、ドアが同時に開いた。そして化け物がなだれ込んできた。

刃沼「おおう……! まさにモンスターハウスって感じだな。モンスタールームかな、パニックルーム?」

ヘル「そんな余裕でいられなくなるよ、刃沼」

 ヘルは化け物に抱えられ、遠くへ去る。

刃沼「…………、運を天に」

 化け物が跳びかかる。刃沼は転ぶように避ける。隙を見て、照明を撃ち抜く。闇の中、刃沼は化け物を踏み台に、開いたままの天井の穴へ逃げ込んだ。


◆888号室

 そして隣の部屋に。今回は照明がついていた。

ヘレネー「なんだよ、この事態……!! おお、刃沼、またか! 天井から忍者ゴッコ」

刃沼(……やっぱりデガラシはここにはいなかったか。人質に取られたか、最悪殺された可能性あり……)

刃沼「ヘレネー、逃げるよ」

 ヘレネーの手をつかみ、駆けだす。


◆カフェ

 ロビーまで駆け降りて来ると、カフェの一席にデガラシが呑気のんきに構えていた。

デガラシ「慌ただしいですね、刃沼。話し合い、終わりましたか」

刃沼「デガラシ! (良かった。杞憂だった。無事だった)」

 化け物が追いかけている気配はなかったので、カフェで三人と話した。刃沼はこれまでのことを伝えた。

ヘレネー「ヘル……。ヘルが? 嘘だろ……。だってよ、ヘルは気が小せぇんだよ昔から。そんなこと出来る奴じゃあ……」

デガラシ「確かに最近様子がおかしかったですもんね」

刃沼「デガラシ、前にヘルと捕まったとき――タコヤマに人質に捕まったとき。ヘルが何をしたか、思い出した?」

デガラシ「それが……すいません。思い出すどころか、記憶がどんどん薄れていく始末でして……」

ヘレネー「ヘル……、ヘル……ヘルよぉ……」

刃沼「そうだ。大事なこと云い忘れるところだった。ヘレネー、ヘルがなんであんたを避けていたか、多分分かった」

ヘレネー「えぇ……」

「屈折した感情だけどね、ヘレネーを殺したくなかったからだと思う。もうヘルは壊れかけて……いや、もう壊れちゃったな。で、ヘレネーを次の殺人対象としている感情と、昔ながらのヘルの感情とがごっちゃになってる。そう、私には見えた。危ないよ、今ヘルに近づくのは」

ヘレネー「でもよぅ……。こうなっちまったのは、なんか……オレが、なんか……したのか? したんだろうな。でなきゃ、そんなバカみたいに狂ったりは……。なにが原因だったんだ。オレには分からねえよ。ダメだなァ……オレは。みんな死なせちまって……誰とも会わす顔ねえよぅ……」

デガラシ「ヘレネーさん」

 デガラシはヘレネーの背中をさする。

デガラシ「だったらまだ自分を責めないでください。刃沼もなんか云ってあげてください。わたしたちはどうあろうと見捨てませんから……」

刃沼「ああ、えっと……。最近多いらしいよ? 狂人化現象って、聞いたことあると思うけど、深刻化してるみたい。ヘルのようなのが、次から次へと現れてるよ。気にしないで」

ヘレネー「そんな慰められ方されてもなぁ……。けどまぁ、ありがとな……」


◆909号室

 昇り始めた朝日が、薄らと部屋を明るくする頃。刃沼もデガラシも睡眠中だ。

ヘレネー「あ、起こしちまったか?」

 ヘレネーは紙切れと鍵を、刃沼のポケットに突っ込んだ。

ヘレネー「すまねぇ。じゃあな」

刃沼「あい、あぃ……」

 寝ぼけ眼で応答して、また寝た。刃沼の寝顔を見下ろしながら、「本当に、すまねぇ。達者で」。部屋の外へ、ヘレネーは出て行った。

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