美似衣
美似衣
「美々は?」
僕はミニィに聞いた。
「ミュンヘン。」
とミニィは言った。
「ビール工場で働いてるのか?」
と僕は言った。
「バカじゃない?」
とミニィが言った。
余り性格の良い子では無いのかも知れない。
「ミュンヘン、札幌、ミルオーキーて、あのミュンヘンだろ?」
僕の知り得るミュンヘンの情報はそれが精一杯だった。
「緯度が同じってだけで、街を上げてビール作ってる訳ないじゃん。」
突き放すようなミニィの話し方に、『こいつは何をしにここに来たのだろう?』と疑問が湧いた。
「美々は病気治ったのかよ?」
一番知りたい事…。
「さあ?」
小首を傾げて横を向いたミニィに、僕は何か予感めいた不安を覚えた。
「さあって何だよ?」
「さあって、さあよ!」
会話に成らない。
「ミュンヘンに居るんだろ?」
「居るよ。」
「まだ病気と闘ってるのか?」
「さあ?」
僕はミニィの刺々しさを何とか出来ない物かと、大人の対応ってヤツを試みる。
「ママは?」
「だからぁ、ミュンヘンだって言ってるだろ!」
ミニィが怒りだした。
「お前もミュンヘンから来たのか?」
「だからお前って呼ぶなよ!さっきからミュンヘンだって言ってるだろ?」
「何をさっきから怒ってるんだよ!」
遂に僕の堪忍袋の緒が切れる。
突然ミニィが泣き出した。
「美々は死んだんだな…?」
祖父ちゃんがミルクティをテーブルに置いて言った。
一際激しくミニィが泣いた。
僕は愕然として、錆びたパイプ椅子に身体を預けた。
体中から汗が噴き出すのが分かった。
「祖父ちゃん悪い、氷の入った水くれよ。」
僕は漸く言った。
「自分でやれ、儂も動けん。」
祖父ちゃんは地面にへたり込んで居た。
「だって、お前…ミニィが産まれて、背中の水を貰って美々の病気が治ったんじゃないのか?」
僕はあの頃の記憶を呼び戻し、信じて居たままの事をミニィにぶつけた。
「帰る。」
と言ってミニィが立ち上がった。
「待てよ。」
と僕は怒鳴った。
「怒鳴らないでよ。」
とミニィが遣り返した。
「お嬢ちゃん、誰もお嬢ちゃんを責めないから、もう少しだけここに居て美々の事を教えてくれんか?儂らは友達だったんだよ。」
祖父ちゃんが言うとミニィも落ち着いたのか、ミルクティを一口飲んで
「本当はソーダの方が良い。」
と言った。
「ソーダ水は無いな…。」
と祖父ちゃんは言った。
「炭酸の事だよ。」
と僕が言うと
「おお、コーラでも良いか?」
と祖父ちゃんはミニィに聞いた。
ミニィは無言で頷いた。
「美々はミルクティだったからな…やっぱり美々じゃ無かったんだな…。」
と独り言を言った。
全く、ボケてるのか正常なのか判断が付かなく成って来た。
僕と祖父ちゃんはミニィが落ち着いて話せるまで、たっぷりと時間を掛けて待った。
美々が僕達の前から居なく成って、既に17年の歳月が流れて居る。
今も変わらずに美々の事は大好きだし、30歳に成るまでには他の女との出会いも有った。
他の誰かと付き合っても、何時も心のどこかに美々が居て、長続きしなかったのも本当の事だ。
でも…真実に耐えられる位の年月は、僕も祖父ちゃんも消化して居た。
本当の事を知りたかった。
手術が上手く行かなかったのだろうか?
それとも骨髄の型が一致しなかったのだろうか?
13歳の頃の僕とは違い、あの頃の美々がどんな病気に掛かって居たのかも知って居るし、僕自身骨髄バンクにも登録して居た。
生きて居て欲しかった。
何処に居るのか分からなくても、僕の事なんか忘れてしまっても、この釣り堀の思い出なんか無くしてしまっても良いから、美々にはただ生きて居て欲しかった。
人の居ない釣り堀の淵で、美々が釣り糸を垂れてる様な気がした。
「お姉ちゃんなんか嫌い。」
ミニィが突然言った。
姉妹の中には人に言えない蟠りも有るのだろう。
僕と祖父ちゃんは、聞き役に徹する事に決めた。
「仲良く成れなかったんだ?」
優しく聞こえて欲しいと思った。
ミニィは首を振り
「お姉ちゃんには会った事が無い。」
と言った。
僕はミニィの言葉の意味が分からなかった。
「間に合わなかったのか?」
と祖父ちゃんが言った。
ミニィは頷き
「お姉ちゃんは待っててくれなかった。」
と言ってまた泣いた。
『そんなバカな…。』
最後に美々に会った頃、美々のママは臨月に入って居た筈だった。
夏の終わりを告げるあのお祭りの後、美々は忽然と消えた。
それが美々の最後だったとでも言うのだろうか?
「ニクソンって渾名はママに聞いたのか?」
僕の問いかけに、ミニィは首を振った。
「ママはお姉ちゃんの事は話したがらないの…お姉ちゃんの事ばかり考えて何時も泣いてる。」
美々のママならそうかも知れない。
本当に美々の事を愛して居た。
「二人で歌を作った事あるでしょ?」
ミニィが言った。
「思い出橋…。」
そうだ、あの夏祭りの夜…思い出橋の最初のフレーズを二人で作った。
それを美々の携帯に録音した。
確かにそんな事が有った。
僕はそこで気が付いた。
「待てよ、ミュンヘンてドイツだよな?」
ミニィは頷く。
「随分前にドイツ人が俺のライブに来てたけど、なんか関係有るのか?」
ミニィがまた頷いた。
嘘だろ?
そんな偶然って有るのかよ?
「思い出橋」が歌として完成したのは俺が20歳の頃だぞ…最後に美々と会ってから7年も後の事だ。
それを聞いてあのヘンテコリンなドイツ人が気が付いたって言うのか?
「お姉ちゃんに会いたくて、私は毎日あの歌を聴き続けたの。」
「聴き続けたって最初の何行かだけだろ?」
「この夜が明けりゃ 今年も夏が終わりそうだよ 呟いた 何時かの夏祭り
祭りの後の 静けさは とても悲しすぎるよ 口付けた 神社の石畳。」
ミニィが歌った。
そうだ、たったそれだけだ。
「その歌が何であのドイツ人が知ってるんだよ?」
誰だってそう思う。
だって、僕は地域限定型のミュージシャンなんだ。
「私、精神的に病んでる時が有って…本当は今も病んでるんだけど…。」
ミニィが初めて笑った。
それは、悪戯を見つかった子供の様な笑いだった。
「それで?」
と僕は先を促せた。
ミニィは頷いて
「彼はカウンセリングの先生なの。」
そうだったんだ…だからあの時「思い出橋」を聞いてあんなに慌てて居たんだ。
「私は望まれて産まれて来たんじゃないって気が付いて…。」
ミニィがまた泣き始めた。
「えっ?」
僕と祖父ちゃんの声が重なった。
「お姉ちゃんの病気が分かれば分かる程、私はお姉ちゃんを生かす為に作られた存在なんだって…。」
「違う!」
「違うぞ!」
また祖父ちゃんの声と重なる。
「それは全然違う!」
僕は向きに成って言い返した。
「ニクソンに何が分かるの?私の名前は美似衣っていうのよ!美々に似る様にって…小さい頃はお姉ちゃんの御下がりの洋服を着せられて…何もかも私はお姉ちゃんの身代わりなのよ!誰も私の事なんて愛してくれてないのよ!」
悲痛な叫びに泣き崩れる美似衣を見て、僕は美似衣の17年間の苦しみを知った。
「そうか…苦しかったな美似衣…お前さん、良くここに来た、良くここに来た、美々が連れて来てくれたんだ。」
祖父ちゃんが言って、美似衣の頭を抱きしめた。
「教えてやるよ…お前がどれ程皆に望まれて産まれて来たか…美々がどんなにお前に会いたがって居たか…。」
「ねえ、ニクソンってどんな歌を聴くの?」
美々が聞いた。
「泉谷とか…。」
僕は釣り堀に有る何時ものビーチパラソルの下で美々と話しをして居た。
「誰それ?何系?」
美々が知らないのも当然だ。
父ちゃんの影響で聞いてるけど、学校で友達が出来ないのはそれも理由だ。
学校の同級生は、セーラー服が如何したとか、パンツに象さんが付いてるとか歌ってるけど、僕には何の事かも分からない。
チューニングが有ってるのかどうかも分からないギターを掻き鳴らして、「国旗はためく下に」や「おー脳」なんて歌をがなり立てている方が余程カッコイイと思って居た。
「フォークソングだよ。」
と僕が言うと
「へー。」
と余り興味が無いようだった。
「本当は自分で歌を作ったりしたいんだ。」
僕の言葉に美々は驚いたように
「すっごーい!」
と言った。
「まだ作って無いよ…これから作りたいって思うだけ。」
「ねえ、本当は何か有るんでしょ?」
「無いよ…。」
僕は口籠る。
「絶対有る、歌って?」
「無いって。」
「有る!」
「だって笑うよ。」
「笑わないから歌って!」
美々の目はこれでもかと言う程キラメキを帯びて居る。
「絶対笑うなよ!」
「絶対笑わない!」
僕は咳ばらいを付いて歌い出した
「鼻毛、鼻毛、綺麗な鼻毛…」
美々が笑い出した。
「何それ!歌?」
「だから嫌だって言ったろ!」
僕は美々の事が憎らしく成った。
僕だって可笑しいと思って居る。
でも、可笑しい事を歌にするのがこの曲のテーマなんだ…。
「美々は何を聞いてるんだよ?」
と僕は聞いた。
「ユーミンとか…ひこうき雲が好き。」
僕も知って居る歌だった。
「何時か美似衣が歌える様に成ったら、一緒に歌うんだ。」
美々は美似衣の話しをして居る時が一番楽しそうだ。
「洋服とかもね、美似衣に上げるのにどんなのが良いか、考えてから買うの。」
「御下がりとかじゃ嫌だな。」
僕は一人っ子だけど、親戚のお兄ちゃんから貰う服は、何時も古ぼけて居て嬉しくは無かった。
「男の子は乱暴だから、直ぐボロボロにするからでしょ?美々は美似衣に上げる為に、何時も綺麗にして居るもん。」
口を尖らせた美々も可愛いと思った。
「本当はね、美似衣から背中のお水を貰うのは嫌なの。」
「如何して?」
「だって…産まれて直ぐに注射されるんだよ!絶対嫌よ!美似衣が可哀想…。」
美々が涙ぐんで居る。
「折角美似衣が出来て、私もお姉ちゃんに成れるって嬉しかったのに、私の病気でママも赤ちゃんを諦めるとか言って…産まれる前から妹に迷惑掛けるお姉ちゃんて何?」
「何って言われても、美々が病気で死んじゃったら美似衣は一人ぼっちに成るんだから仕方ないよ。」
僕だって弟が欲しいと思う時が有るんだから、一人っ子の寂しさ位は分かる。
「そうか…そうだよね…その代わり、沢山美似衣と遊んで上げるの。美似衣が欲しいって物なら何でも上げちゃう。」
病気で頼りない美々だけど、美似衣の話しをするときだけは、何だか羨ましくさえ思えて居た。
取り留めの無い会話を延々と続ける毎日も、美々と二人なら時間なんて幾ら有っても足りなかった。
「美々。」
陽が翳り出した頃、美々のママが釣り堀に迎えに来た。
美々は僕の肩にもたれて眠って居た。
僕は美々を起こしたく無くて、人差し指を自分の口の前で立てた。
美々のママが、とても優しそうな笑顔で頷いた。
「カウンターの中にお客さん用の毛布が有るんです。」
僕は声を潜めて言った。
美々のママが頷いて毛布を取りに行ってくれた。
「目が覚めたら連れて来て。」
美々のママは美々と僕の膝に毛布を掛けて、ホワイトハウスへ戻って行った。