りんどう湖
りんどう湖
何時も通り那須街道をお気に入りのモトバイクで駆け下り、祖父ちゃんの居る釣り堀へ向かった。
美々の事を気にしながら、ホワイトハウスの前を通り過ぎる。
何時もなら僕を待ち構えて居る筈のウッドチェアーに、美々の姿が無かった。
意味も無く僕は不安に成り、祖父ちゃんの居る釣り堀まで全力で自転車を漕いだ。
祖父ちゃんと美々が、寄り添って釣り糸を垂らして居る。
僕は体中の力が抜ける様な安堵感を覚えて居た。
何故自分がこんなに美々の事で、不安に成ったり安心したりするのか不思議だった。
僕は不機嫌を装い、祖父ちゃんに声も掛けず冷蔵庫のコーラを抜いた。
何時もなら真っ先に祖父ちゃんが僕を見つけ、コーラの栓を抜いてくれるのに、この釣り堀に来て自分でコーラの栓を抜いたのは初めてだった。
たった今、美々が釣り堀に居る事で安心したばかりだと言うのに、僕の祖父ちゃんを取られたようで美々の事が憎らしく思えて居た。
「ニクソン、声ぐらい掛けんか。」
祖父ちゃんが僕に気付いて声を掛けた。
「声ぐらい掛けんか。」
美々が祖父ちゃんの声色を真似て笑った。
何が可笑しいのか、美々は何時も笑って居る。
笑って居ない時は、何かの文句を言って居る時だ。
「カールが二人でりんどう湖に行って来いって。」
美々が祖父ちゃんの年間パスを出した。
『カールって何だよ?祖父ちゃんはカレー味か?祖父ちゃんも何笑ってんだよ?』
僕は声に出さずに毒付いた。
「それを使って良いのは地元の人間だけだよ。」
僕は少しだけ焼もちを込めた言い方をした。
「固い事を言うな。」
祖父ちゃんは言った。
湖なんて名前は付いて居るが、りんどう湖は近所の農家に水を供給する為に作られた人口の溜め池だ。
溜め池の畔に大きなホテルが出来た事で遊園地が隣接され、その施設で働く人の家族や利権を持って居る周りの住人は、無料でその遊園地に入場する事が出来る。
お金の掛かるアトラクションも有ったが、小さな動物園や、園内を走る可愛い電車などは、無料で利用する事が出来た。
お金を掛けずに、子供が一日遊ぶには充分だった。
「良い物を買って置いたよ。」
祖父ちゃんはそう言って、僕の自転車の後輪を止めて居るボルトの上に、美々の足を乗せる為の短い棒を取り付けた。
つまり、僕の自転車に美々を乗せて行けと言う事だろう。
祖父ちゃんが買ってくれた自転車だから、祖父ちゃんが如何しようが僕に文句の言える所ではないが、駐在さんに見つかれば叱られるのは僕だ…。
まあ、釣り堀の孫ってだけで、この辺の事は何事も解決は付くのだが…。
初めての二人乗り…僕はヨロヨロと走りだした。
「大丈夫なのかよ。」
相変わらず美々は口が悪い。
「……。」
僕は言葉に詰まって居た。
「返事しろよ。」
美々は攻撃を止めない。
「黙って乗ってろよ。」
美々の体温が、何時もの僕の調子を狂わせて居る事は言えなかった。
「ソフトクリーム食べようよ。」
入場ゲートを越えて直ぐに美々が言った。
「金なんか無いよ。」
僕は当たり前の様に答えた。
「カールが1,000円くれた。」
美々が千円札を目隠しの様に広げて見せた。
『あのクソジジイ…。』
僕は心の中で思った。
確かに祖父ちゃんは何だって買ってくれる。
でもお小遣いは一円だってくれないのだ。
「子供が金を持つとロクな事に成らん。」
それが祖父ちゃんの口癖なのに、僅かな時間で僕よりも待遇の良く成った美々の事が、何だか憎らしく思えて居た。
僕達は濃厚ソフトクリームを舐めながら、湖へと繋がる遊歩道を下った。
美々が僕の手を取った。
「止めろよ。」
僕は恥ずかしく成り美々の手を振りほどいた。
「迷子に成ったらどうするんだよ?」
美々が立ち止まって文句を言った。
『迷子?釣り堀からここまでは道路を一回しか曲がらないんだぞ!』
僕は紅い顔をして美々を見つめて居た。
「ほら。」
美々が手を出した。
僕は美々の差し出した小さな手を見つめて居た。
「ほら!」
もう一段大きな声で言う美々に、僕は溜め息を混ぜながら自分の手を差し出した。
僕と美々は、おとぎの国へ向かう様なメルヘンチックな電車に揺られ、動物の居るエリアに向かう事にした。
電車に乗る時に、係りのおじさんが
「ボク、足元に気を付けるんだよ。」
と美々を気遣った。
「有難う。」
美々もこんな所では素直に成るらしい。
産まれたばかりの子牛を見ていると、飼育係りのお兄さんが
「ボク、ミルクあげて見る?」
と話し掛けて来た。
その目は僕にでは無く、美々に向けられて居た。
「ウソッ!上げて良いの?」
美々は大喜びだ。
誰もが美々を男の子と思って話し掛けて来る。
美々もそれを気にしている様には見えない。
僕はそれが許せなく成って来た。
「女なんだけど…。」
美々と飼育係りのお兄さんが同時に僕を見た。
「女なんですけど!」
僕は怒鳴って居た。
「やめろよニクソン、そんなの何方でも良いよ。」
「良く無いよ!」
僕は如何してこんなに怒って居るのだろう?
「ゴメンね。」
取り繕う様な飼育係りのお兄さんを無視し、僕は早足で歩き出した。
「ニクソン、待てよ。」
美々が追いかけて来る。
「美々もそんな言葉使いだから男に間違われるんだよ!」
美々にさえ僕は苛々して居る。
「だって…女子は友達になりたく無いんだろう?」
と美々が言った。
「もうとっくに友達だろ?」
僕は興奮のドサクサで、何時もなら言え無いことを言った。
「ゴメンね。」
美々は素直に謝った。
それからの美々は人が変わった様に素直だった。
喋り方も何処かしおらしい。
「ニクソンの所為で子牛にミルク上げ損ねた。」
美々が恨み言を言った。
「俺の所為にするなよ。」
僕の喋り方にも遠慮が消えた。
本当は女子となんか口も利きたく無いのに、僕も美々と居る居心地の良さを感じ始めて居た。
自分の庭の様なりんどう湖の遊園地を、もっと沢山美々に案内して上げたかった。
それなのに…。
美々の足が段々と遅れる様に成る。
明らかに息が上がって居た。
「大丈夫?」
僕は立ち止まり美々の顔を覗いた。
「少し休みたい。」
美々が呟いた。
それはそうだ。
都会のもやしっ子の様なガラッパチな上に、美々は病気なんだ…。
「俺こそゴメン…。」
僕達は、放し飼いにされたウサギを眺めながらベンチで休む事にした。
美々の為に何か飲み物を…とポケットの中の小銭を数えて見たけれど、自動販売機のジュースを買える程の小銭も、僕は持っては居ない。
「これ。」
と言って美々がソフトクリームを買ったお釣りをくれた。
僕はそれを受け取り、自動販売機に向かった。
「ニクソン、私ミルクティー。」
と美々が言った。
僕はコカコーラとミルクティーを買って、美々の座るベンチに戻った。
美々にミルクティーを手渡すと
「開けてくれる?」
と言った。
如何やらプルトップを開ける力も美々には残ってい無いらしい。
少し調子に乗り過ぎたかも知れないと、僕は自分を責めた。
「私…本当は炭酸苦手。」
と言って美々が笑った。
「先に言えよ。」
僕の人生に初めて女の子と言う存在が居座り、か弱き者への思い遣りが生まれた。
陽が暮れたと言うのに、美々の体調は良くなる所か、益々グッタリとしてくる様だった。
「誰か大人の人を呼んでくるよ。」
僕が言うと
「お願い、何処にも行か無いで…美々を一人にしないで。」
と美々が僕にしがみ付いた。
その頼りなさに、僕の心は経験の無い痛みに囚われ、美々の側を離れる事が出来なかった。
気が付くと、美々は僕にしがみ付いたまま寝息を立てている。
夏と言っても山間の夕暮れ、僕は美々を温める方法を探して居た。
「美々ちゃん!」
悲鳴の様な叫びが聞こえた。
僕を責める様な大きなお腹のその女の人の目に、僕は完全に射竦められて居た。
「ゴメンなさい。」
僕はそんな言葉しか浮かばない。
それでも…美々が助かった事や、涼しさを増したこの夕暮れに、美々を温めてくれる人の出現を素直に喜べる僕が居た。
「貴方のお祖父ちゃんから聞いて来たの。会えて良かったわ。」
オバさんは言った。
それが美々のお母さんである事は聞か無くても分かる。
美々と同じ匂いがして居たから…。
誰も僕を叱らなかった。
僕はもっと叱って欲しかったのに…。
僕が叱られる事で、美々の病気が少しでも良くなるなら、どんなに叱られても、殴られても良いとさえ思って居た。
「ママ、ゴメン…。」
美々がか細い声で言った。
美々のママは、大きなお腹を両手で押さえ
「もう大丈夫よ。」
と言った。
遊園地の中の、荷物を運ぶ電機自動車に乗せられ、美々は帰って行った。
一人取り残された遊園地のベンチで、僕は小屋に帰って一匹も居なくなったウサギのエリアで、絶対に泣くもんか…と拳を強く握りしめて居た。
「ボンバー、ボンバー、ボンバー!」
と大声で叫ぶと、自分が少し強くなれた気がした。
それから何日か美々は釣り堀に現れなかった。
病気が余程悪いのかと、僕は心配で仕方なかった。
僕は日課の坂道を自転車で登る事も忘れ、祖父ちゃんと美々の噂話しに明け暮れた。
コーラよりミルクティーが好きな美々の事や、本当は見た目より女らしい事を何度も祖父ちゃんに話して聞かせた。
「もうここに来ないのかな?」
「分からんな…。」
「まだ具合悪いのかな?」
「分からんな…。」
僕と祖父ちゃんは、答えの無い質疑応答を繰り返しながら、持て余す時間をやり過ごした。
学校の帰り道、少し遠回りをしてホワイトハウスの前を歩いて帰る様になった。
主人を失ったウッドチェアーが、雨上がりの雲の切れ間に照らされ、取り残された様に浮んでいる。
美々…。
僕は立ち止まり、美々の部屋がこのホワイトハウスの何処にあるのかを聞いていない事を、後悔して居た。
何時もの様に「佐藤苑」の横に有る物置からモトバイクを取り出し、祖父ちゃんの居る釣り堀に駆け出した。
道路に出る手前で左右の確認をする。
再び駆け出そうとして自転車のペダルに力を入れた。
ドスンッと誰かが自転車の後ろに飛び乗った。
確かめる必要なんて有るはずが無い。
僕には友達と呼べる相手は一人しか居ないんだ。
「しゅっぱ〜つ!」
美々が祖父ちゃんの釣り堀を指差した。
言葉に出来ない安堵感と、僕の中に芽生えた気持ちが恋で有る事を知った。
僕は振り返る事が出来なかった。
溢れて零れ落ちそうに成った僕の涙を、美々には見られたくなかった。
だって…僕は本当の男の子なんだ。
たった一つの友達だったモトバイクが、大切な友達を乗せて祖父ちゃんの待つ釣り堀へと走り出した。