夏祭り
夏祭り
「美々と美々のママが救急車で運ばれて10日くらい経ってからかな…。」
僕はその時の事を、美似衣に話して聞かせた。
この場所で良く飲んだコーラのレギュラーボトルはペットボトルに変わり、プラスチック製のビーチパラソルもアルミ製の頑丈な物に変わって居た。
それでも美似衣と話して居ると、目の前に美々が居るようで、とても死んでしまったなんて信じる事が出来なかった。
「10日くらい経ってから如何したの?」
と美似衣が言った。
「美々のママが来たんじゃよ。」
と祖父ちゃんは言った。
「まあ、美似衣の無事が分かったって事だよな。安心したよ。」
本心だった。
「ありがとう。」
美似衣の目にまた涙が浮かんだ。
「お姉ちゃんは来なかったの?」
美似衣の疑問は当然だろう。
「祖父ちゃんから、俺が学校に行っている間に美々のママが来たと聞いて、また直ぐに美々に会えると思ってたんだ。」
「あの時は気が動転して、佐藤君に酷いことを言ってしまったってな…。」
祖父ちゃんが補足してくれた。
「それで…。」
と美似衣が話しの先を急がせる。
「美々はまだ寝込んでいた。」
美似衣が自分の口に掌を当て、涙ぐんだ目で僕を見つめて居る。
「お祭りは諦めたよ。後何日も無かったしな…。」
「でも、行ったんでしょ?」
僕は頷き
「お祭りの日、美々のママがこの釣り堀に来たんだ。」
僕がそう言った途端、美似衣が激しく泣き出した。
僕と祖父ちゃんの手に負える様な泣き方では無く、それは慟哭と呼べる叫びだった。
美似衣の涙の意味を、その時の僕はまだ知らなかった。
殺生石のお祭りの日、僕は抜け殻の様になって、祖父ちゃんの釣り堀で魂を失って居た。
美々と一緒に行く事を、楽しみにして居たお祭りに、一人で行く気にも成れない。
ビーチバラソルの下に置かれたパイプ椅子に、身体を投げ出して僕は座って居た。
「佐藤君…。」
背中から僕は名前を呼ばれた。
振り返る必要も無く、僕は直ぐに美々のママだと分かった。
美々のママは僕の肩に手を置き
「ごめんなさい。」
と言ってくれた。
僕の不安は解き放たれ
「僕が悪いんです。」
と涙ながらに謝った。
美々のママは優しく微笑み、首を横に振ってくれた。
「美々は?」
今、僕の心を苦しめて居る、一番大切な事を聞いた。
美々のママは僕の眼を見つめ、黙って頷いた。
そしてこう言ったんだ…。
「後から美々をつれてくるわ。一緒にお祭りに行ってくれる?」
経験の足りない僕の人生で、これ程大きな喜びと安心を与えてくれた言葉は無かった。
嗚咽をする程に僕は泣き出し、美々のママも、そして祖父ちゃんさえも僕を優しい眼で見つめて居た。
僕は急いで家に帰り、自慢のリーバイスと下ろしたてのオニツカタイガーのバッシュを履いた。
バッシュと一緒に買ったTシャツにも、バスケットボールを持ったオニツカのキャラクターがプリントされて居る。
僕なりのデートの準備は完璧に整って居た。
夕方、祖父ちゃんの釣り堀で、気が遠くなるほど長く僅かな時間、僕は祖父ちゃんと口を聞く事も無く、美々を待ち続けて居た。
釣り堀の入り口に、美々のママの赤いボルボが停まった。
弾かれたように僕は立ち上がり、リアシートに座って居るはずの美々の姿を探した。
アンサンブルの浴衣を着た美々が車から降りて来た。
美々は、肩で切り揃えたボックスのカツラを被っていた。
そして…。
何時かホワイトハウスの部屋を訪ねた時の様に
「へへ…。」
と笑って自分の頭を掻いた。
こんな時、どんな洒落た言葉を言えば良いのだろう…。
恋の事や、女の子の気持ちに無頓着な頃。
「似合うよ。」
それが精一杯の僕の誉め言葉だった。
今、僕の眼に映っている美々の姿が、そんな言葉では言い表せない位、僕の心をときめかせて居ると言うのに、それしか言葉が出ない自分が情け無かった。
「浴衣に帽子は変だからさ…。」
と美々は言った。
僕はただ首を振り
「本当に可愛いよ。」
と言った。
「ニクソンもカッコいいよ。」
と美々が言った。
僕と美々は、ビーチバラソルを挟み、お互いに赤くなって下を向いてしまった。
祖父ちゃんと美々のママが、少し離れて僕達を見ていた。
美々のママが
「行きましょう。」
と言った。
祖父ちゃんが、珍しく一万円札を僕のポケットに捻じ込んでくれた。
「美々の欲しい物は何でも買ってやれ。」
そう言ってくれた。
初めて祖父ちゃんがくれたお金だった。
祖父ちゃんに見送られ、僕と美々は、赤いボルボのリアシートに座った。
美々のママが運転席に乗る前に
「後でお願いします。」
と言って祖父ちゃんに深々と頭を下げた。
美々の唇はリップでツヤツヤと光って居たけど、更に痩せこけ顔色の悪さは夜目にも分かった。
「美々、大丈夫なの?」
僕は美々に聞いた。
「平気。」
と美々は答えた。
「おばさん美々大丈夫?」
僕が念を押す様に聞いた。
美々のママは曖昧に微笑んで、前を見つめたまま頷いた。
「具合悪くなったら直ぐに帰るからね。」
と僕は言った。
「うるさい。」
と美々は僕を叩いた。
「佐藤君、お願いね。」
美々のママが言った。
殺生石の駐車場を越え、短い橋を渡った所で僕達は車を降りた。
「ここで待ってるから、二人で行ってらっしゃい。」
美々のママの言葉に
「ありがとう。」
と美々が言って、僕達はお祭りに向かった。
橋の上を歩いて居ると、美々のママが駆け寄って来た。
「ねえ、写真撮らせてくれる。」
そう言って僕達にカメラを向けた。
美々は僕の腕に手を回し、まるで大人のカップルの様に頬を寄せた。
カメラのフラッシュが殺生石の岩肌をバックに、僕と美々を夜空に浮かべた。
「ママ、もう一枚。」
そう言って美々は自分の携帯電話を、美々のママに渡した。
最新式の美々の電話には、デジタルカメラも付いて居る。
僕達は神社の境内に上がり、夜店を冷やかして歩いた。
綿菓子を買い、白い顔をした狐のセル面を買った。
金魚すくいに挑戦したけど、僕も美々も一匹もすくう事が出来なかった。
「祖父ちゃんの釣り堀の祟りだな…。」
僕が言うと、弾ける様に美々が笑ってくれる。
飴細工の職人に美々の名前を書いて貰った。
小さな神社のお祭りは、直ぐに境内を歩き尽くす。
一粒雨が落ちて来た。
夏の揺り返し、昼間の蒸し暑さが降らせた通り雨に違いない。
「帰らなきゃ。」
僕は直ぐに気付いて美々に言った。
「走れないよ。」
と美々は言った。
一瞬で雨脚は強まり、僕と美々は吾妻屋に避難する事にした。
風邪を引くことも出来ない今の美々の不安が、僕の腕にしがみ付く美々の体から伝わって来た。
僕は美々をただ安心させて上げたかった。
「少しギター上手くなったよ。」
美々の好きそうな会話を、僕は探しながら話した。
美々は返事をしない。
小刻みに震える美々の身体を包み込んで上げたい気持ちに成った。
「ねえニクソン、キスしようか?」
美々が突然言った。
僕はその意味が分かって居るのに、返事をする事が出来なかった。
美々の顔を見る事さえ出来ず、俯いて美々の足元を見て居た。
美々が鼻緒を摘んでいる指先に力を入れた。
美々の下駄の踵が浮いた。
つま先立ちになった美々と、僕は柔らかい初めてのキスを交わした。
神社の石畳の上から続く吾妻屋で、僕と美々はお互いの心臓の高鳴りを気にして居た。
この気持ちが気まずいのか、それとも嬉しいのかも良く理解できなかった。
『何か話さなきゃ…。』
僕はそう思った。
「メロディを作ったんだ。」
最近覚えたギターのコードを駆使して、作り掛けたメロディが有った。
「聴きたい。」
美々が言った。
僕は鼻歌でそのメロディをなぞった。
「何か綺麗な感じ…。」
と美々が言った。
僕は美々に笑われなかった事だけで、とても嬉しかった。
「ねえ、雨が弱まるまで二人で歌詞を考えよう?」
小刻みに震えて居た美々の身体に、温もりが加わった様に思えた。
美々の提案に、僕は素直に賛成した。
美々が携帯電話を取り出し、ボイスレコーダー機能を呼び出した。
「今日は殺生石のお祭りです。今からニクソンと歌を作ります。」
美々はそう言って携帯電話のマイクを僕に向けた。
「早く。」
「そんなに直ぐ出来ないよ。」
「お祭りの歌にしようよ。」
何処か沈んで居た美々が、今日一番の笑顔を見せた。
僕は今日の殺生石のお祭りの事を考えた。
「この夜が明けりゃ今年も夏が終わりそうだよ、つぶやいたいつかの夏祭り。」
僕は頭に浮かんだままの言葉を、自分で作ったメロディに合わせた。
「ニクソン凄いじゃん、天才かも?」
と美々は僕を褒めてくれた。
僕はもうそれだけで頭が真っ白に成り、次の言葉が浮かばない。
「ねえ、次は?」
美々は僕を急がせる。
「そんなに直ぐに出来ないって。」
僕は正直に言った。
「じゃあ美々が作る。」
「良いよ。」
と僕は言った。
美々は一瞬考えて
「祭りの後の静けさはとても淋しすぎるよ、口づけた神社の石畳み。」
そう歌って、美々は僕の腕に回した手に少しだけ力を込めた。
「恋」が幼い「愛」に近付いた。
僕と美々は、それ以上の言葉を交わす事さえ息苦しく成って居た。
激しかった雨が、少しだけ小降りに成る。
僕と美々は、急ぎ足で石段を降りて行った。
殺生石の駐車場に、祖父ちゃんが軽トラに乗って待って居た。
美々のママがその横で傘をさして待って居た。
『同じ様な場所に帰るのに、何故だろう。』
その時、僕はそう思った。
美々は美々のママと手を繋ぎ、短い橋の向こうに歩いて行った。
「さよなら。」
と美々は言った。
雨に濡れた美々の頬に光って居た雨の雫が、僕には涙の様に見えて仕方なかった。
「それじゃね。」
僕はそう言って祖父ちゃんの車に乗った。
お祭りの渋滞の中、僕と祖父ちゃんを乗せた車が、先に帰路に就いた。