後悔
後悔
たったひと夏しか居なかった美々の思い出を、僕と祖父ちゃんはもう三日も美似衣に話して聞かせて居る。
それなのに…。
美々の思い出は尽きる事は無かった。
17年の歳月で、僕の親父は病に倒れ、今は僕が「佐藤苑」を切り盛りして居た。
夜に成ると、決まって美似衣は「佐藤苑」にご飯を食べに来る。
「もっと洒落た店が有るだろ?」
僕が言うと
「ビール飲ませろ。」
と必ず美似衣は言った。
「日本は20歳からだよ、その前に何で何時もタメ口なんだ?」
と僕は呆れて仕舞った。
「ねえ、自転車ってまだ有るの?」
と美似衣は言った。
自転車…。
聞かれるまで、思い出す事も無かったが、あの自転車は確かに今も物置の中で眠って居る。
「多分有るよ。」
僕は言った。
「見て良い?」
美似衣は言った。
美々が死んだと聞いた今、僕は余りあの自転車を見たいとは思わなかった。
それでも…。
ドイツから心に闇を抱えてこの町に来て居る女の子の願いなら、ましてそれが美々の妹なら、僕はその願いを聞いて上げなくてはいけないと思った。
コードリールを伸ばし、僕は家の中から電気を引き、物置の引き戸を開けた。
埃だらけのブルーシートを捲ると、フレームは錆び付き、タイヤの空気も抜けきった僕のモトバイクがそこに有った。
美々と出会うまで、たった一つの友達だったモトバイクに、僕は美々が倒れた日から乗って居ない。
「あの日美々は、こいつに乗れなかったんだ。」
僕は吐き出す様に言った。
「その後は、お祭りの日までお姉ちゃんと会って無いの?」
と美似衣は聞いた。
「お祭りに行ったのは知ってるんだ?」
僕が言うと美似衣が頷いた。
「そうか、ボイスレコーダーか?」
美似衣は僕の呟きに答えず、モトバイクの座席に手を置いた後、
「お姉ちゃん…。」
と言った。
「馬鹿者が!」
初めて僕は祖父ちゃんに叱られた。
誰も祖父ちゃんに言葉を返せる人なんか居ない。
僕はビーチパラソルの下で小さく成って居る事しか無かった。
祖父ちゃんは忙しく煙草を吸い、貧乏揺すりを繰り返して居る。
僕に言い訳の言葉なんか有る訳も無く、かと言っていつ美々が現れるか分からない、この釣り堀を離れる事も出来なかった。
「美々の母さんに謝ってこい!」
中指を付き出した祖父ちゃんの拳骨は、僕の頭に小さなコブを作った。
凍り付くような美々のママの眼が、僕の足を重くして居た。
それでも、僕は美々のママや美々の事が心配で仕方ない。
祖父ちゃんが両手に持たせてくれたミルクティや、搾りたての牛乳を抱え僕はホワイトハウスを訪ねた。
ホワイトハウスの受付のお姉さんが、二人は黒磯の大きな病院に居ると教えてくれた。
僕は酷く落ち込んで、祖父ちゃんの元に帰った。
一度叱った事を、再び持ち出して叱る事を祖父ちゃんはしない。
僕は美々と美々のママが黒磯の病院に入院して居る事を祖父ちゃんに告げると
「お見舞いに行ってみるか?」
と祖父ちゃんは言った。
折角勇気を振り絞ってホワイトハウスに行ったのに、二人が居なかった事で僕の心は真っ二つに折れ曲がってしまい、項垂れたままただ首を横に振る事しか出来なかった。
「だらしないヤツだ…。」
祖父ちゃんの言葉は辛辣だけど、もう怒って居る時の顔では無い。
「ニクソン、お前さんだって悪気が有ってやった事でも無かろう?」
祖父ちゃんの優しい声に、僕は泣き出してしまう。
「男の癖に…。」
祖父ちゃんのその言葉に
「美々みたいな言い方しないでよ。」
と僕は精一杯の反論をした。
「本当だな…。」
祖父ちゃんは笑ったけど、僕と同じだけ美々や美々のママの事を心配して居るのが良く分った。
見た目とは違い、僕の祖父ちゃんは僕にだけは優しい。
「ほらっ。」
と言って、祖父ちゃんは僕に釣り竿を渡した。
「こんな時の為に釣り堀が有る。何が悪かったのか、釣り糸に聞いて来い。」
祖父ちゃんの言葉に、『そんな哲学的な事を言われても…。』と思ったけど、今の僕に自分の意思なんて有る筈が無い。
言われるがままに、池の中に釣り糸を垂れた。
日頃からたっぷりと餌を与えられて居る祖父ちゃんの釣り堀は、余程うっかりした魚が居ない限り針に掛かる事も無い。
どんなに美々が我がままを言っても、僕は美々のママとの約束を守らなければいけなかったんだ…。
昨日美々と初めて会った時、何時もより赤い顔をして居ると気が付いた。
一番側にいる僕が、もっと美々の体の事を考えなければいけなかったんだ…。
美々が倒れたから美々のママが倒れた。
救急車で運ばれた美々のママは、苦しそうにお腹を押さえて居た。
もしこれで赤ちゃんに迄…何か有ったとしたら…。
美々の病気が治らない。
僕の所為だ…。
全て僕一人が悪いと自分を責めて居た。
僕は池の中にただ投げ込んだ、釣り糸の先のウキを見つめて居た。
涙が止まらなかった。
いくら泣いても、何の解決にも成らない事を理解して居たとしても、今の僕にはただ泣く事しか出来なかった。
「いい加減にしろ!」
今日、二発目の祖父ちゃんの拳骨を貰った。
祖父ちゃんの釣り堀は笑ってしまう位、魚は食い付かなかった。
「こんな時は風呂にでも入るのが良かろう。」
祖父ちゃんは早々と釣り堀を閉め、僕を鹿の湯まで連れて行ってくれた。
鹿の湯は、殺生石の駐車場の先の小さな橋を渡ると現れる。
四人入れば一杯の小さな木造造りの桝が幾つか置かれて居り、温めの湯から熱めの湯へと順々に分かれて居る。
家族で祖父ちゃんと温泉に言った事は有ったが、二人っきりでお風呂に来るのは初めての事だった。
祖父ちゃんと並んで湯船に入ると、少しだけ大人に成った自分を感じた。
「僕の所為だ…。」
先程から僕の心を苦しめて居る言葉を吐き出した。
「二人でやった事は、二人に責任が有る。」
と祖父ちゃんは言った。
「美々のママとの約束を破った。」
「なにも守る事ばかりが約束じゃ無かろう?だからと言って破って良い物でも無いがな…。」
僕がどんなに自分を責めても、祖父ちゃんは禅問答の様に僕の後悔を否定した。
この鹿の湯に辿り着く前、通り過ぎて来た殺生石までの遠出の日を思い出した。
あの日の美々の元気な姿が有ったから、美々があんな風に崩れる様に倒れるなんて想像も出来なかった。
「祖父ちゃん、美々の病気ってどんな病気なの?」
毎日美々と過ごし、やって良い事や悪い事は覚えて居ても、美々の病気がどう言う物かを良く理解できて居ない。
「儂も医者では無いから良く分らん。」
祖父ちゃんはそう言った後、祖父ちゃんの知って居る知識を僕に伝えてくれた。
「お前さんもケガをすれば瘡蓋くらいは出来るだろう?」
僕は噴き出す汗を手拭いで拭い頷いた。
「血液って奴は赤血球と白血球と血小板が有るらしい。」
僕は大きく頷いた。
「白血球は人間の身体の中で、外敵をやっつけるそうだ。その白血球が増え、血小板を外敵と間違えて攻撃してしまうらしい。その結果、瘡蓋が出来ずらく成ってしまうそうだ。」
「美々が言ってる背中の水って?」
「骨髄には髄液と言うのが有るらしい…儂も骨髄と脊髄の違いを、美々のママから教わったよ。」
「何が違うの?」
「血液を作る処か、脳に繋がる中枢神経かの違いだそうだ。」
祖父ちゃんの額にも汗が噴き出して居る。
「それ以上は儂にも分からん…もっと知りたかったら、図書館にでも行って来い。」
と祖父ちゃんは言った。
1300年も前、矢を射られ傷ついた鹿が自らの傷を癒したとされるこのお湯は、祖父ちゃんの言う通り、僕の凝り固まった心の傷を少しだけ解き解してくれて居た。
「祖父ちゃん、殺生石に閉じ込められてるのって九尾の狐?」
と僕は聞いた。
「良く知ってるな。」
と祖父ちゃんは言った。
「美々が狐のお化けが閉じ込められてるって…。」
祖父ちゃんは「うん、うん。」と二度頷いた。
「地元の癖にそんな事も知ら無いかって美々に馬鹿にされた。」
僕は美々との見解の違いも含め、祖父ちゃんに話した。
「まあ、美々も都会の子だからな…那須町と湯本の違いは分からんかもな。」
と祖父ちゃんは言った。
今日、初めて祖父ちゃんと意見が一致した。
一日中、僕は美々の事ばかり考えていた。
美々や美々のママやお腹の赤ちゃんは無事だったのだろうか?
なんの情報も無いまま、僕の不安だけが空回りしながら時を重ねて行った。
学校の帰りには必ずホワイトハウスの前を通り、美々のママの車が動いて居ないか確認した。
一センチでも動いて居たら、僕はもう一度ホワイトハウスを訪ねて見ようと思って居た。
枯れた木の枝を、後ろのタイヤの直ぐ下に置いて目印にして居た。
もう一週間もそのままにして居ると言うのに、動いて居る様子は無い。
僕は学校が終わると「佐藤苑」の手伝いをする事も無く、祖父ちゃんの釣り堀でギターばかりを弾いて居た。
どんなに練習しても、ネックの反り返ったギターを使いこなす事は出来なかった。
GmやFm等は、人差し指の上に中指を重ねれば如何にか音が出たけど、BmやCm等は幾ら頑張っても音を出す事が出来なかった。
僕は簡単に出せるGやEm、Amを駆使しながら、頭に浮かぶメロディを作り掛けて居た。