坂下り
坂下り
祖父ちゃんの焼いてくれた鮎は、塩加減が丁度良い。
「こんな食べ物はドイツには無いだろう?」
祖父ちゃんも得意顔だ。
美似衣は頷き
「バーベキューは有るけどね。」
と言った。
「美味いか?」
僕が聞くと
「美味しい。」
と美似衣が答えた。
「美々も鮎が好きだった。」
祖父ちゃんは思い出を手繰る様に言った。
「坂下りは行ったの?」
美似衣が聞いた。
「坂下りは出来なかった。」
僕はそう言った後
「結果的にはな…。」
と言った。
美々を僕のモトバイクに乗せて、一軒茶屋の交差点から坂道を下る約束をした日、那須には強い雨が降って居た。
雨が降る日は、美々も外出は禁止だ。
今の美々は、風邪を引く事さえ許されて居ない。
美々の妹が産まれれば、直ぐに手術が待って居る。
近頃は長い時間外に居る事も禁止されて居た。
雨が小降りに成ったのを見計らって、僕はモトバイクを広谷地の交差点の角に有る、ファミリーレストランの自転車置き場に移動して置いた。
二人で自転車を押して歩いて居るのを、美々のママに見つかっては大変だと思ったからだ。
山の天気は変わりやすい。
それでも、明日は晴れると天気予報は言って居た。
何時も通り釣り堀で祖父ちゃんと顔を会せた後、何食わぬ顔で僕と美々は散歩に出かけた。
祖父ちゃんの耳に入れば、美々のママに今日の行動が筒抜けだ。
時にそれは、とても有り難い事では有ったけれど、今日の二人には絶対に知られてはいけない相手でも有った。
「一回だけだからな。」
僕と美々は広谷地から続く表通りを避け、一筋山側の裏道を歩いて居た。
「取り敢えずね。」
と美々が言った。
心なしか美々は何時もより赤い顔をして居る。
「具合大丈夫なの?」
僕が美々に言うと
「大丈夫に決まってんじゃん。」
と美々が答えた。
「ねえ、殺生石のお祭りってもう直ぐでしょ?」
「あと二週間くらいかな。」
殺生石のお祭りは、いつの間にか僕と美々の最大の楽しみに成って居る。
「殺生石って狐のお化けが閉じ込められてるんでしょ?」
と美々が聞いた。
「そうなんだ?」
と僕は言った。
「地元の癖に知らないの?」
美々は時々僕を馬鹿にする様な事を言う。
一つ年上だから仕方ないと思う時も有るけど、「地元の癖に…。」とか「男の癖に…。」と言う言われ方には、さすがに幼い僕のプライドが傷つく時が有った。
「殺生石は地元じゃないよ。」
と僕は反論した。
「だって那須じゃん。」
「那須は那須でも、向こうは湯本って言うんだ。」
僕の説明に
「墨田区と葛飾区みたいなものか…。」
と、美々成りの納得をした様だ。
「美々の言う狐が、九尾の狐なら知ってるよ。」
僕は那須っ子の意地を見せた。
「九尾の狐?」
「尻尾が九本有るんだ。」
オドロオドロシイ物は美々の大好物。
「どんなの、教えて。」
と美々の興味は尽きない。
「顔が白くて、身体が金色で、尻尾は九本。」
「それから。」
と美々は聞いた。
美々と話しが弾む時は、時間の経過が早い。
それなのに、僕の知って居る九尾の狐の情報は、それで御しまいだ。
「それだけ?」
「それだけだよ。」
「何か詰まんない。」
「今度調べておくよ。」
僕は自信無さげに言うと
「一緒に調べようよ。」
と美々が言った。
美々はどんな事でも僕と一緒にしたいと言ってくれる。
僕はそれが嬉しい。
「正義の味方かな?」
美々はまだ九尾の狐の事を気にして居る。
「どっちかと言ったら悪者じゃね?」
「何だ知ってんじゃん。」
「だって殺生石に閉じ込められてるんだから…。」
と僕は言った。
穏やかな日差しの中、まるで切り取った絵画の様に僕と美々は山間の道を歩いた。
モトバイクを置いたファミリーレストランの駐車場までは、美々は何時もと変わらず活発で元気な様子だった。
プロパンガス置き場の裏に隠してあったヘルメットや、スケートボードの時に着ける膝や肘のプロテクターを見た途端
「ダサッ!」
と言って美々は着けるのを拒んだ。
「じゃあ坂下りは行かない。」
僕には、何が有っても美々を守らなければいけない責任が有る。
美々は不承不承プロテクターを着ける事に応じた。
「ニクソン、私の事好きじゃ無いでしょ?」
時々、美々はドキッとする事を突然言う。
「何だよ?」
「だって…普通好きな子にこんなカッコさせる?」
「別にカッコ悪く無いよ、むしろカッコイイし…。」
「ゲッ、これが?」
プロテクターを着けた自分の姿を指さし、美々は小首を傾げた。
「悪く無いよ。」
僕の言葉に嘘は無い。
「かぜだいざいもん。」
美々は捨て台詞を言って、ファミリーレストランの駐車場の中を逃げる様に駆け出した。
「いなかっぺって事かよ?」
僕はそう言って美々の後ろを追い掛けたけど、別に怒って居る訳でも何でもない。
そして僕は気付いてしまう…。
美々は都会の女の子なんだ。
病気が治ると言う事は、美々がこの街から居なくなると言う事でも有る。
僕の心の中に舞い降りた、この虚無感を如何にか出来るほど、僕はまだ大人には成れては居なかった。
僕は美々を追い掛けるのを止め、その場に立ち尽くすしか無かった。
「如何したんだよ?」
美々も気付いて振り返る。
「何でも無い。」
僕は今思った事を口には出せなかった。
『美々の病気が治らない方が良い。』
口が裂けても言える訳が無い。
那須街道の坂を、僕は自転車を押しながら登った。
寄り添う様に歩いて居る美々は、興奮して居るのか何時もよりお喋りだ。
殺生石のお祭りの事を頻りと聞いて来る。
「一緒に行くでしょ?」
「行くに決まってんじゃん。」
「浴衣着て行こうかな?」
美々の浴衣姿…。
見て見たいと思った。
でも…。
「浴衣なんて誰も着ないよ。」
美々が言って居た様に季節は秋、殺生石のお祭りは夏の終わりを告げるお祭りなのだ。
この辺りの人達は、農作業や観光シーズンの谷間に、夏服と冬服を入れ替える日でも有った。
それに、夜祭りは寒くて浴衣どころでは無い。
「寒くても良いから浴衣を着たい。」
美々の意思は固いらしい。
坂道が段々ときつく成る。
那須分岐点から自転車を漕ぎ続ける事に比べれば、僕にとっては別に苦しいとも思わない。
だけど…。
病気の美々にとっては如何なのだろう?
「大丈夫?」
僕は何度も問いかけた。
「頑張る。」
と言う美々の答え。
今思えば、それは「大丈夫。」でも無ければ、「平気。」でも無く、「頑張る。」だった事に心が痛む。
美々の口数が減った。
一軒茶屋まではまだもう少し距離が有った。
「この辺からにする?」
と僕が聞くと
「一軒茶屋まで行く。」
と美々が言った。
突然自転車が重く成る。
僕は弾かれた様に振り返った。
美々が膝から崩れる様にぶら下がって居た。
「美々!」
僕の絶叫が、静まり返った那須街道の森林の中に木霊した。
僕は自転車を放り投げ、美々の身体を抱きかかえた。
火の塊の様な美々の身体の熱に、僕は一瞬で怯えてしまった。
弾む美々の息遣いが僕の不安を煽る。
「休めば治る。」
と言った美々の言葉も、僕の耳には入って来ない。
りんどう湖の事が蘇った。
『美々のママを呼ばなきゃ。』
僕の中の選択はそれ以外になかった。
僕は美々のウエストポーチのファスナーを開け、携帯電話を取り出した。
「電話しないで…。」
美々は言葉では抵抗しても、僕から携帯電話を奪う力は残って居ない。
使い方は知って居る。
「1」のボタンを押して緑のボタンを押すだけ。
「プ、プ、プ、プ」と言う音の後に呼び出しのコール音が聞こえた。
美々のママが直ぐに電話に出た。
僕は何も説明する事が出来ず
「美々が、美々が…。」
と繰り返した。
「何処に居るの。」
美々のママの声も切迫して居る。
「那須街道に居ます。」
僕は如何にか、今いる場所を美々のママに伝える事が出来た。
「ごめん。」
と美々が力無く言った.
美々のママが運転するボルボの赤いステーションワゴンが、直ぐに僕達を見つけた。
スピードを出し過ぎて居たのか、僕達を追い越して停った。
美々のママは、大きなお腹を揺らして美々に駆けより、美々の額の熱を確かめ
「大変…。」
と言った。
そして…。
美々の出で立ちを見た途端
「佐藤君、あなた何をする気だったの?」
とキツイ口調で言った。
軽蔑する様に僕を睨みつけた美々のママの眼が、僕の罪悪感を増幅させていた。
僕は何も答える事が出来ず、ただ下を向いて黙って居る事しか出来なかった。
「美々が倒れると、何時もあなたが一緒なの、分かる?」
美々のママはそう言った後
「もう美々に関わらないでちょうだい!」
と言った。
僕はその言葉に愕然とし、立って居るのがやっとだった。
既に美々の意識は無く、美々のママの腕に抱き上げられ、車の中に消えた。
独り取り残され、僕の思いはあのりんどう湖の出来事と重なる。
僕はその場に座り込み、何かを叫ぶ気にも成れず、ただ放心するばかりだった。
夕暮れは迫り、何時までもそこに居る訳にも行かない。
『また直ぐ元気に成る。』
『美々は大丈夫。』
僕は自分に言い聞かせるしか無かった。
本当は、二人で駆け下りる筈のこの坂を、僕は一人で降りて行った。
自転車のブレーキを握りしめ、僕はゆっくりと坂を下った。
この坂で、ブレーキを使ったのは初めてだ。
『もう二度と、この坂を下るのは止めよう…。』
そんな事を考えながら坂道を下りて行く。
こんなにゆっくりと坂を下って居ると言うのに、広谷地の交差点は直ぐに現れた。
美々の歩いた距離と、美々の体力の無さに思いが巡り、僕はまた泣きたい気持ちに成った。
家に入ろうと言う気持ちにもなれず、僕は「佐藤苑」の入り口に置かれた大きな石の上に座って居た。
もう直ぐ父ちゃんが、店の看板を入れに来るだろう。
こんな所に居るのを見つかれば、「何故手伝いをしないのか?」と責められるに違いない。
それももう如何でも良いと思った。
僕の頭の中は、美々のママの腕の中に抱かれた、最後に見た時の美々の映像だけが繰り返し見えて居た。
部屋の明かりが灯り、暗闇の中に浮かび上がったホワイトハウスを、僕は意味も無く遠くに見つめて居た。
遠くで救急車のサイレンが鳴っている。
その音は段々と近づき、やがて辺りを明るく照らし始めた。
僕の心はザワつき、そのサイレンの辿り着く先がホワイトハウスで有る事を確信した。
僕は全力で駆け出し、救急車の後を追った。
救急車は、僕が思った通りホワイトハウスの前で停まった。
救急隊員がホワイトハウスの中に消える。
慌ただしく行き交う人と人…。
『美々だ…美々に何か有ったんだ…。』
得体の知れない恐怖に、僕は叫び出したい思いがした。
その僕の耳に飛び込んで来たのは…。
美々の絶叫だった。
「ママ‼︎」
僕は声のする方に駆け寄る。
担架の上で横たわって居たのは、美々のママだった。
苦しそうにお腹を押さえて居る。
その担架に、酸素のチューブを付けたままの美々がしがみ付いて居た。
「美々!」
僕は全力で叫んだ。
「ニクソン、ママが…ママが!」
完全に取り乱した、青白い顔の美々が叫んでいる。
「お願い、ママを助けて!赤ちゃんを助けて!」
半狂乱の美々が救急隊員を拳で叩いて居た。
「あなたも一緒に乗りなさい。」
救急隊員はそう言って、美々と美々のママを僕の前から連れ去って仕舞った。
スピードが上がる程に大きく成るサイレンの音を、力の限り僕は追いかけて行った。
どんなに力強く走っても、サイレンの音は僕を置いて遠ざかるばかりだ。
「美々ィ!」
力の限り叫んでは見ても、救急車は無情に走り去ってしまった。