6 ジャックポット!
スライドドアが開き、きいいからから、と音を立てて車椅子が入ってきた。
海原奏はりんごを剥く手をとめて、車椅子の上の老婦人に視線を向けた。
「あら、まあ」
老婦人は驚いたように目を見張ると、申し訳なさそうに言った。
「また、来てくださったの。おトイレに手間がかかっていたのよ、すみませんね」
「おりんごどうですか。美味しそうなので、買ってきました」
「ありがとうね」
きいきいと音を立てて息子のベッドのそばによると、老婦人は言った。
「せつないわねえ。この子が食べられたらいいのにね。目を開けて、ああ、いい匂いだなあって……。夢物語ね」
「彼、りんご、好きでしたから。匂いだけでも、感じられるかなと」
老婦人―阿川妙子のベッドは息子のベッドの隣にあった。病院の取り計らいで、同じ空間に入れてもらうことを許されたのだ。
奏はくるりと皮の剥けたりんごを細く切り分け、その一つにフォークを刺すと、目を閉じたままの聖の鼻先にもっていった。
「わかる? いいにおいでしょ」
鼻孔に差し込まれたチューブから注入される酸素がしゅうしゅうと音を立てる。ショートカットの黒髪が、青白い頬の横で揺れた。卵色のワンピースの背に、阿川妙子はそっと掌を当てた。
「きっとわかってるわ。いい匂いだなと思ってるわ。ありがとうね、奏ちゃん」
「彼は今、どこですか」
妙子のもとに奏から電話がかかってきたのは、二十日前だった。
フィレンツェの美術学校に留学中だった彼女は、「ジャックポットの当選者、四階の自宅から飛び降りる」と題された投稿動画を見て、取るものもとりあえず帰国したのだ。
各国で頻発する航空機テロのゆえに、帰国便をとるのが遅れ、聖のもとにたどり着いたのは入院して十日後だった。
衆人環視の中で四階から飛び降りた阿川聖の体は、報道のバンの上で派手にバウンドした。背中と首を強打し、目覚めても半身不随の可能性が高いと言い渡された彼は、ただ病院のベッドの上で静かに呼吸し続けていた。
「あなたが来てくれるなんて、正直、思っていなかったの。全部終わったことだと思っていたから。
……あの子、自分から別れたんだとしか言わないし、何にも話してくれずに勝手に引きこもっちゃうし」
聖の頬を撫でながら、奏は言った。
「わたし、一時期、彼よりも病んでいたんです。彼自身を離れてネットで顔の見えない人たちとバトルし続けて、くたくたになってしまって、ただただ世界が憎くて、……そのころ彼が会社を辞めたのも、みんな世間のせいだと思っていたんです。でも……」
奏は膝の上の鞄から、汚れた封筒を取り出した。
「わたしのせいだったんです。きょうは、これを読んでいただきたくて、持ってきました」
取り出した便箋は、便箋ではなく、破いたノートや広告紙の寄せ集めだった。 鉛筆の殴り書きが、叩きつけるように紙面を埋めていた。
妙子は老眼鏡をかけると、手渡されたそれに、おそるおそるといった様子で目を落とした。
『ぼくはここしばらくで、恐怖を知った。
ほんとうの恐怖だ。
闇の中に潜む気配や、壁の向こうにいるなにかではなく、未来の予感だ。過去から立ち上る未来の予感だ。
きみが滅びる。ぼくがきみを滅ぼす。自分が愛する者に値しないという確信、きみの目の前に存在し続ける限りきみの中のぼくへ愛が目減りしていくという恐怖。憎しみと怒りがきみのきれいな心を焼き尽くす恐怖だ。
ぼくはきみにとって評価しうる男に戻れるだろうか。もう一度最初の時と同じ視線で見てもらえるだろうか。
ぼくはきみにとっての恥になりたくない。どうか誰とも戦わないでくれ。ぼくのために心を病まず、誰とも戦わないでくれ。しばらく離れてくれ。ぼくを一人にしてくれ、ぼくに人としての戦いを許してくれ。
そしてきみも一人になり、世界と和解してくれ。
ぼくはきみに幸せであってほしいと願う、だから幸せになってほしい。
きみと出会ったころの自分に戻りたいと思うけれど、世界は変わってしまった。だからぼくは世界と話し合いに行きたいと思う。そしてきみを守れるぐらい強くなる。それを許してくれ。
きみは遠いうつくしい世界に行って、たくさんのものを愛して、そしていつかぼくがきみを呼んだら、大声で呼んだら、それが聞こえたら帰ってきてくれ。
愛してる。さようなら』
読み終わった妙子は、首を振ると、顔を上げた。
「……これ、いつ、受け取ったの」
「確か、二年半ぐらい前……」
妙子はため息をついた。
「まだまだ変な薬で頭がめちゃくちゃになってた頃ね。たぶん、これを書いたことも記憶にないと思うわ」
「そうかもしれません」
そう言ってしばらく、奏は視線を落としたままだった。そして小さく息を吐くと、呟くように言葉を続けた。
「……彼はわたしを自分から離すことで、わたしの心をまともにしようとした。
わたしも疲れていたので、彼の言う通りにしようとしたんです。両親はT電の株で大損したのと世間の風当たりが強いのとで、わたしが彼から離れることを歓迎しました。
ずるかったんです。親というより、なにより、わたしが。でも……」
奏は、戻された手紙を手に取って言った。
「彼は呼んでくれました。大声で。わたしの名を」
「そうね」
妙子はそっと手を伸ばして、奏の手を握った。
「だから、帰ってきたんです」
奏は涙を浮かべた目で、眠り続ける聖をひたと見た。
「もう、離れません」
午後の日差しがゆらゆらと揺れて、白いベッドに木漏れ日の影を散らした。奏はりんごを皿にきれいに並べるとテーブルに置き、両手で聖の頬を挟んだ。そして、小さな声で何度も何度も、恋人の名前を呼んだ。
ひじり、ひじり、わたしよ。
わたしはここにいるわ。安心して、目を覚まして。
四人部屋の向かいのベッドでは、コンビニ勤務中に店舗につっこんできた暴走車に足首の骨を折られた年配の女性が、カーテンを閉めたまま棚の上のテレビを見ていた。
イヤホンを装着しているので、音は外には漏れない。
画面では、聖の次に選ばれたジャックポットの当選者が、男性インタビュアーにマイクを向けられていた。
『さて、柏崎洋介さん。時期を早めての大当たりとなったわけですが、阿川聖さんとは学生時代の友人だったとか』
『そうですね。彼は本当に気の毒だったと思います』青年は眉間に皺を寄せて暗い顔をしてみせた。
『そしてご自分がその次にあたられた。偶然ですね。
彼についてはいろいろ悲惨な噂も聞きますが、こうして自ら出てき取材を受けたいとお申し出になった、その理由はなんですか』
『それはね、こういうものに選ばれることで、彼のように引きこもっていた人間はひどく嫌な思いをしたと思いますよ。潰れる人間もいると思います。でもぼくには夢があるんです。実は株取引なんて地味なことするよりも、芸能人になりたかった。学生時代演劇部に所属していましたし、演技のセンスがあると、ずっと思っていたんですよ。このチャンスを生かして、自分が書き溜めた脚本にも日の目を見させたいし、演技も見てほしい。何でも取材受けます、どんどん来てください。負けませんよ、ぼくは。負けませんから』
『で、早速ですが、週刊誌によると中学生の時の万引き癖とかお母さんがホストに入れあげて貢いだ金額とかさっそく取り上げられているわけですがそこは』
『なに、本物の役者になればそんなの有名税ですよ。はは、ははははは』紅潮した顔で青年は言った。
『ぼく、負けませんから』
『では、カメラに向かってごいっしょに』
青年は笑顔のインタビュアーと並んでカメラの前にぐっと親指を立てたこぶしを突き出して見せた。
『ジャーック・ポット!』
老女はひきつった顔で叫ぶ青年の顔にリモコンを向け、死ななきゃいいけどねえ、とひとこと呟くと、テレビのスイッチを切った。




