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「わたしを罰してください、隆志さん」

「……おれは隆志じゃない」震える声でおれは言った。

「わたしにできることは殺すことだけ。神はわたしをそうおつくりになったのです。それはわたしの罪ですか」

「……いいや」

「この世でわたしを罰することができるのはあなただけなんです。わたしを罰してください」

 おれは茫然としたまま、おれの手に彼女がナイフを握らせるのを見ていた。

「できない……」

「わたしは殺人者の死刑囚です、何の遠慮もいらないんです。世界に対する怒りを、わたしにぶつけてください」

「……んな、むちゃくちゃな」

「世界が憎くないんですか」

 おれは湧き上がる恐怖をはね返すように、ナイフを握るとほうり投げた。

「憎い。だが、こんなものはいらない。おれに何も強要するな!」

「じゃあどんな方法でもいいからわたしを」

 おれは彼女の細い小指を握った。

「グダグダいうな。それ以上しつこいと指をへし折るぞ」

「どうぞ」

「本当に折られたいのか」

「そうしてください」」

「どれだけ痛いかわかってるのか」

「どうぞ存分に味あわせてください、わたしはそれに値します」

 怒りと焦燥がはらわたから駆け上がった。おれは彼女の小指を握った拳を彼女の手の甲に無理やり曲げていった。一体何をしているんだ、おれは。どうしてこんなことになったんだ。彼女は真っ直ぐにおれの顔を見ている。逃げ場はない。額から脂汗が流れ落ちる。

「無理だ……」

 そのとき、おれの拳を上から彼女が握った。そしてすごい勢いで力を加えた。自分の小指を巻き込みながら。

「わたしを、海原奏だと思えばいいんです」

「やめろ!」

「途中でやめたら駄目」

「やめてくれ!」

 それからのことはよく覚えていない。おれはくぐもった悲鳴を上げ、彼女は一言も声を発さず、おれの胸に顔を押し付けるようにしながら、自分の指を、おれの拳の下で折り続けた。小指だけではない。鈍いぼきぼきっという音がおれの胸に響き、おれはたまらず彼女を突き飛ばした。

 ゴミの中にバウンドしたので、大した音はしなかった。彼女は苦痛に顔を歪めながら、ゴミの中からおれを見上げていた。左手の指はばらばらにあらぬ方向に曲がっていた。おれは肩で息をしながら、呆然と膝立ちで彼女を見ていた。酷い吐き気がこみ上げてきた。

「……出ていってくれ」

 それだけ言うのがやっとだった。彼女は幽かに首を振ると、右手で左手を包むようにし、やがて上半身を起こして、おれの前に顔を持ってきた。

「どんなに世界を憎んでも、指一本折ることができないのね」

「……」

「あなたには、人を憎む資格なんてない」

「……」

「何一つ憎まなくても、わたしは人を殺せるのに」

 肩で息をしながら、おれは言った。涙声なのが自分でもわかった。

「お前とおれは違う。悪いか。お前は狂人でおれは人間だ。おれは人間だ。それでも憎い。そうだ、本当に殺したいのは、彼女じゃない」

「では誰を殺したいの」ミナは顔を近づけて問うた。

「おれの周りにいておれに話しかけず、おれを笑う連中の全部だ。腹の中でおれを笑いながらおれにフラッシュをたく人間どもだ。どいつもこいつも死ねばいい」

 黄川田ミナは一度、子どもにするようにおれの頭を撫でた。

「忘れなさい。あなたはただ、愛していればいいのよ」

 おれは頭を上げた。彼女の口元にうっすら浮かぶ微笑の、その言葉の、意味がわからなかった。ミナは立ち上がり、黒いコートを片手で羽織った。そして大きなポケットから取り出したタブレット端末のようなものをテーブルの上においた。

「テレビが壊れているようなので、これを置いていきます。常にあなた関連の報道をしているチャンネルに合わせてあるわ。

 世界を見なければ、世界と戦えないわよ」

 そして何事もなかったかのようにコートのすそを翻しながら、玄関に立った。

 こちらに背を向けたまま、彼女は言った。

「さよなら、可愛い人」

 がちゃんというドアの音を聞いた後、おれは口元を押さえると、トイレに駆け込んで嘔吐した。

 便器のふちにつかまったまま、おれは胃が空になるまで吐いた。

 そのままぐったりと便器を抱えて、どれだけ時が過ぎただろう。

 トイレから出ると窓の外はもう薄暗かった。

 口元をゆすぐと、よろよろとテーブルに戻り、おれはタブレット端末を見つめた。そしてそっと灰色の画面に指で触れた。すると勝手に画面が明るくなり、「認証」という表示が出て、いきなりニュース画面が始まった。

 カメラが映しているのは、どこかの警察署の前だった。テロップには、『衝撃の事実。阿川聖氏の担当者は、あの連続殺人鬼、黄川田ミナだった!』とでかでかと出ていた。

 字の向こうで、仕事を終えていつものように刑事と手錠でつながれて帰るミナの後姿が映っていた。

 ……今まで報じられていなかったのか。まあ、警察側が発表しない限り、帽子にサングラスじゃ面は分かるまい。あれじゃまるで……

 そう、画面の中で、黒い帽子とサングラス、黒いコート姿で歩いていくミナは女囚さそりそのものだった。その後ろ姿にフラッシュをたく報道陣が叫ぶ。

 ミナさん、あなたは黄川田ミナさんなんですね? 彼と今までどういう話をしましたか?

 彼女は振り向くと、右手でサングラスをとって笑って見せた。隣の刑事が咎めるように手錠でつながった右手で彼女を引っ張ろうとした。

 その瞬間、彼女の左手は手品のように、するりと手錠から抜けた。

 あ、とおれは叫んだ。

 モノのようにぶら下がる、もう骨が機能していない指……!

 刑事は呆気にとられたように手元を見た。彼女はコートの裾を翻すと刑事の顔を鮮やかに蹴り上げ、よろめいた刑事の腰のホルスターからさっと銃を引き抜いた。

 それからあとはまさに映画のようだった。

 だらりと左手を伸ばしたまま、ミナは右手に銃を持って振り向くと、パンパンと立て続けに背後の報道陣と野次馬に向かって銃を撃った。

 悲鳴とわめき声が飛び交い、何人かが吹っ飛ぶように後ろ向きに倒れた。スローモーションのように回転してゆく彼女の黒いシルエットはまるで優雅なダンスのようだった。さらに銃声が響き、周囲の人間が倒れてゆく。

『誰を殺したいの』

 ミナの声が教会の鐘のように頭の中で鳴り響く。おれは白昼夢に見とれるように、彼女のダンスを凝視し、口を半開きにしたまま陶然と銃声を聞き続けた。

 帽子が宙に飛び、何人もの警官が彼女の上に覆いかぶさっていった。

 やがて連中の尻の下から、靴の脱げたミナのつま先が天を向いているのが見て取れた。

 つま先はもう動かなかった。

 怒号とフラッシュと、確保確保、救急車、という声が響き、周囲で倒れている野次馬のほうにカメラはパンしていった。

 おれの視界には、茶碗を持ったまま画面を指さし、嬉しそうに見て見てすごいよ、と叫ぶ平和な家庭の子どもたちの顔が幻のように浮かんだ。

 そして幻影のこちら側で、目に突き刺さるようなフラッシュをたかれながら、ついさっきまでおれと口をきいていたミナの体は、血の筋を地面に残しながら、粛々と引きずられて行った。

 おれは端末の電源を切った。


 滝になぞらえるならナイアガラではなく、華厳の滝のようなまっすぐな一つの流れが、おれの中に生まれていた。

 天空から出でて、奈落へと落ちかかる一筋の流れだ。轟音けたたましく流れ落ちる、野太い一本の流れだ。高揚感と絶望が同じぐらいの色合いでないまぜになった、どす黒い奔流だ。

 おれは無意識に壁に取りつけた棚のラジオのスイッチを入れていた。

 クラシックアワーの時間だったからだ。体が覚えていたのだろう。

 すると唐突に、ラジオからあの哀切に満ちたメロディが流れ出したのだ。

 バッハのマタイ受難曲の中の、突き抜けるようなアリア。


 Erbarme dich, mein Gott,   憐れみたまえ わが神よ

 Um meiner Zahren willen ;  滴り落つるわが涙のゆえに

 Schaue hier, Herz und Auge  此を見たまえ、心もまなこも

 Weint vor dir bitterlich   御身の前にはげしくもだえ泣く

 Erbarme dich, ernarme dich. 我を憐れみたまえ 憐れみたまえ

  

 おれは泣くようなアルトのアリアを聞きながら、しばらく縛り付けられたようにその場から動けずにいた。

 やがて膝に手を置くと、おれは立ち上がった。

 テーブルの上の封筒を掴むと、札束を取り出し、窓辺に寄った。

 カーテンを開けて下を眺める。

 例のニュースを聞いた野次馬が、窓の下にぞろぞろ集結し始めている。

 おれはラジオのボリュームを上げ、掃き出し窓を開けた。アルトのアリアも、夕闇迫る外気の中に流れ出ていった。

「おうい」

 おれはベランダに出ると、眼下に集まってきた野次馬に向かっていった。

「もう少しこっちに来てくれ」

 野次馬と報道陣は、幾分戸惑いながらもこちらを見上げ、マンションのすぐ下の道路に集まってきた。

「おれの言葉が聞こえるか?」

 幾人かが頭の上で丸を作った。

「そうか、じゃあ答えてくれ。おふくろは無事か? 生きてるか?」

 皆きょろきょろと顔を見あわせ、それからまた幾人かが頭の上で丸を作った。

「どこの病院に入院してる」

 また皆きょろきょろし始めたが、報道関係者と思われる人間が紙を持ち出してマジックで病院名を書き、こちらにかざした。

 いくつかあげられたそれは、みな同じ名前だった。どうやら間違いはなさそうだ。

「わかった、ありがとう。あとな、今からいいものをやるからもっと近くに来い」

 みなぞろぞろと、上を見上げながら窓の真下まで来た。素直なもんだ。

「ようし。偽物じゃないからちゃんとゲットするんだぞ」

 そして手の中の百万円の束を一気にばらまいた。

 下の連中は紙吹雪のように舞い降りてゆくそれらを少しの間呆気にとられたように見ていたが、アリのように右往左往したと思うと一気にわれ先にたかり始めた。

 いい動きだ。その衝動には芝居も嘘もない。

 おれは手すりの上に乗った。バランスをとりながら、狭い手すりの上で両手を左右に広げ、胸を張る。

 もう誰もおれを見ていない。おれは暮れてゆく蒼穹を見上げた。


「かなで!」


 大声で叫ぶと、おれは手すりを蹴った。

 鱗雲の広がる夕暮れの空の下部は帯のような夕焼けに染まり、巣に帰る鳥の群れが一列になって横切っていった。


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