3 憐れみたまえ、わが神よ
振り仰げば空が高かった。すじ雲、巻層雲、鱗雲。低空飛行の飛行機が一機、白い煙をたなびかせながら飛んでゆく。
ケムトレイルとかフェイクプレーンとか集団ストーカーという単語が耳をよぎる。何の根拠もないのに追跡妄想にとらわれ続ける人々のことを、ああほんとに大変だったんだろうなと初めて思いながら、おれは袋からビールを取り出し、歩きながらプルトップを引き抜いた。そのまま目についた児童公園に入り込み、目の前のジャングルジムのてっぺんに上った。
砂場で子供を遊ばせていた二組の母子連れが、こちらを見ながらひそひそ話を始めた。尾行していた連中は児童公園の周辺でうろうろするだけだ。こちらから丸見えの状態で入ってくるならもう尾行とはいえないからだろう。
おれは携帯を取り出すと、ただ一人、覚えていた友人の電話番号を打った。暇つぶしに入っていた大学時代の演劇サークルの仲間だ。
しばらく呼び出し音が鳴り、
『……はい』眠そうな男の声が出た。
意外だ。出てくれたんだ。
「柏崎? 洋介か?」
『そうだけど…… 誰?』
「お前の知り合いのうち一番の有名人だ。それも昨日からの」
しばらく沈黙があった。
『お前、……阿川か』重々しく、声は答えた。『何か月、いや、……何年ぶりだ』
「出てくれて有り難い。柏崎、今何やってんの」
『今? 足の爪切ってた。仕事なら、まあ、自宅で株取引ってとこ』
「そうか。儲かるのか」
『カンがいいらしくてな、まあまあだ』
「役者になる夢はあきらめたのか」
『あんな夢追いかけてる歳でもないしな。お前のほうは、まだ引きこもってるのか。飽きないのか』
「うん、でも今、結構面倒なことになって」
『……わかってるよ』
「……だろうな。じゃあ現状は省く。でさ、ストレートに聞きたいことがあるんだけど」
『なんだよ』
「おれについてあれこれ聞かれた?」
『そりゃまあいろいろ取材に来たよ。過去の交友関係とかよく調べ上げるもんだな。でも全部断った。何も言ってない。金には困ってないし』
「それはありがたい。じゃあ次に、海原奏についてだけど」
『……ああ』かなり引っかかりのある声だった。
「彼女のさ、今の電話番号知らないか」
『知ってどうするんだ』
「その、迷惑かけてないかと思って」
『今さら電話する方が迷惑だと思わないか』
おれは下を向いて唇をかみしめた。その通りだ。
『もう終わった仲なんだろ。そっとしといてやれよ、何を書きたてられたってお前の責任じゃない』
「うん……。だけど、おれのせいで相当ひどい書かれ方をしてたし……」
『このプロジェクトで取り上げられた人間はみな同じだ。お前も彼女も被害者だ。それはみんなわかってるし、一時的なことだ』
「……」
『切るぞ。この通話だって盗聴されてないとも限らない。晒し者になるのも期間限定なんだから短気起こすなよ』
それきり通話は切れた。
おれはジャングルジムのてっぺんでビールを飲み干すと、公園内のトイレで小便を済ませ、とぼとぼと家に帰った。いつになく酔いが早く回っていたので、あとを何人つけて来ようともう気にもならなかった。
マンションのドアノブには、ずっしりと重い最大容量のコンビニ袋がかかっていた。中は米だの餅だの酒だの味噌だの、持ちのよさそうな食い物でパンパンだった。
……おふくろ。あれほど言ったのに。
おれはなんだか泣き笑いしたい気持ちで袋を持って入り、鍵とチェーンを閉めた。
灯り以外の電化製品がほぼ壊れているので、気を紛らわすツールがない。所在なくコンビニ袋をかき混ぜていたら、なぜか災害用のラジオが出て来た。脳天に火をつけずに聞ける局と言ったらFMのクラシックアワーぐらいしかなかった。仕方なく、おれは退屈なクラシックをつけっぱなしにした。
本のタワーによりかかっておふくろが届けてくれた日本酒を飲んでいたら、陰気なアリアが響いてきた。
これは聞き覚えがある。
たしか、タルコフスキーの映画「犠牲」で使われていた音楽だ。
ぐび、と音を立てておれは酒を飲んだ。
バッハのマタイ受難曲、第四十七曲の有名なアルトのアリア、「憐れみたまえ、わが神よ」ってやつだ。あの映画を見て気になって曲名を調べたんだっけ。
世界を破滅から救うために魔女と契り自らを生贄とした、狂った男の物語。
最後にあれを見たのはおれの部屋で。映画好きの奏と二人、ワイン片手に言葉少なに、重々しいアリアが流れ、画面が消えてゆくのを見ていた。
「わたし、もう、耐えられない」
暗い情感を込めた歌声を聞きながら、おれの脳裏には、俯きながら嗚咽していた奏の黒髪が浮かんでいた。
「ほんのふた月前までは、みんな、あなたのことを褒めていたのに。責める人なんか一人もいなかったのに」
「もうよせよ。仕方がないんだ」
静かな夜だった。窓から流れ込む夜風も遠く聞こえてくる街の喧騒もいつもと変わらない。けれど、街も風も、都会を包む空気もすべて、ふた月前とは違ったものになっていた。絶望と恐怖と不安に、日本全体が沈んでいた。あの、マグニチュード9の地震が襲った悪夢の日から。
「わたし、悔しい」
そう言って彼女はおれの胸の中で涙をこぼした。
「わたしにとっては、ふた月前のあなたも一年前のあなたも同じ、阿川聖くん。どこも変わらない。でも、T電力で働いてるっていうだけで、あの日から世間はあなたを極悪人扱いだわ」
「そういう仕事を選んだんだ、仕方がないよ」
「あなたはただの技術屋だし、発電にかかわっていたといっても、再生可能エネルギーで分散電源をもとにした供給を担当していて、災害時にも……」
「そんなこと周りには関係ないんだ。会社名だけでひとからげに見るからね。でもぼくは平気だ。きみさえそばにいてくれるなら」
「わたし、あなたをかばって説明したの、でもみんな、お前は同罪だって。これから何年も、日本を放射能汚染でぐちゃぐちゃにした元凶の会社員のそばにいて庇うなら……」
「みんなって誰だ」
「友だち……と、家族も……いろいろ……」
おれは彼女の肩を強く抱き寄せた。
「目の前にいるぼくを見ていればいいじゃないか。きみさえ分かっていてくれるなら、ぼくは世間に何といわれようと耐え抜けるよ。頑張ってみせるよ」
「わたし、わたし、悔しい」
彼女の細い肩、震える頬。おれたちは広大な荒野に放り出された小動物のように、しがみつくように唇を重ねた。おれは思ったんだ。おれ自身が攻撃されるのも傷つくのも構わない、だがおれをかばおうとして関係ない彼女が傷つき続けるのだけは防ぎたい。どうしたらいい。どうしたら……
翌朝は薄い壁越しに聞こえる隣のテレビのニュースで目が覚めた。
……N防衛相は、南シナ海で中国が領海と主張する海域を米艦が航行し監視する〈航行の自由作戦〉を支持する考えを示しました。次のニュースです。東京都B区で引きこもりを続ける阿川聖さんは、昨日犬を散歩させている一般市民を脅したのち、auショップを訪れ、自分で叩き壊した携帯を修理に出し、仮の携帯を借りた模様です。そのさい、ネルソン・マンデラとモーガンフリーマンの区別がつかないという恐るべき告白を行い店員を動揺させました。また近くのコンビニの店員に、自分の元カノに似ているのはAV女優の愛里ひなちゃんじゃなくて、満島ひかりだと話しかけたそうです。店員は「目がギラギラしていてとても怖かった」と恐怖を語りました。その後、近くの児童公園で遊んでいた子供を追い散らしてジャングルジムを独り占めし、てっぺんでビールを飲むという蛮行に出ました。そのとき通話していた内容については詳しいことが分かり次第お知らせします。次のニュースです……
おれは足の裏で思いきり壁を蹴飛ばした。途端に隣のテレビの音量が絞られた。
唯一、柏崎との会話がマスコミに漏れていないのが救いだった。誰か一人、一人ぐらいは信用できる奴がほしいと、おれは切望していた。砂漠で水を求める迷い人のように。
これだけ何をやっても筒抜けになってるんだ、もう外に出ておれがやることなすことみんな国民にとってのショーだと心得たほうがいい。よし、それなら本当に食料が尽きるまで外には出るまい。米を少しずつ炊けばふた月ぐらいもつだろう。書けるネタが皆無になれば、連中も少しはおとなしくなるだろう。
余計なことを考えて外に暴れ出そうになる自分を抑えるために、おれは焼酎をラッパ飲みしてためておいた睡眠薬を数粒かじり、そのままゴミの中に横になった。
どれぐらい眠ったか、携帯の呼び出し音でおれはそろそろと起き上がった。外は薄暗く、朝か夕方かもわからない。
「……はひ」
ろれつが回らない。薬の量が多すぎたのだ。
『駅前auショップの、ヨシズミカズユキです。修理、終わりましたので、取りに来ていただけたらと』
「……貴様……」
おれは呻くように言った。
『ご来店なさいますか?』
「そこで待ってろ屑。思い知らせてやる」
だがそう言って携帯を切ってまたおれは爆睡したのだ。そのあとの闇は相当長かったと思う。次に目を開けたのは、玄関ドアのがこんという音を聞いた時だった。
どうやら朝だ。いや、昼か。今は何日なんだ。また何か入れやがった。おれは這いずりながら玄関に向かい、忌々しい新聞受けを開いてみた。
そこには毎朝新聞の朝刊と三流スポーツ紙が入っていた。一面の見出しは、
『引きこもりの阿川聖さんの母親、交通事故で重傷』
おれは跳ねるように飛び起きた。
……七日夕方、息子の代わりにauショップに出かけた阿川妙子さんは、店の前の十字路で右折してきたトラックに巻き込まれ意識不明の重体。ショップの担当店員の話では、阿川氏に修理完了の電話をしたものの反対に脅され、仕方なく母親に……
おれは部屋の中をうろうろと、ノイローゼのシロクマみたいに巡回した。
これは罠だ。おれを外におびき出すための罠なんだ。偽の情報を投げてよこして、おれが外に暴れ出たらまた面白おかしく書きたてるんだ。引っかかってたまるか。
だがもしも本当だったら? ……本当だったら?
まだ酒と薬が抜けていなかったので、足元がもつれて壁にぶつかった。
おれはそのままずるずると床に座り込んだ。
そうだ、ラジオ。ラジオを聞こう。クラシックアワーの時間だ。とりあえず音楽を聞いて落ち着こう。おれはゴミの中をさぐると災害用ラジオを取り出して、乱暴にスイッチを点け、ついでに間違ってAMに合わせてしまった。雑音交じりの会話が聞こえて来た。
……その阿川氏ですが、友人によれば、元恋人の海原奏さんの電話番号をしきりに聞きたがったけれども、彼女の身の安全を考えて伝えはしなかったそうです。
……そうですか、それは正しい判断ですね。聞くところによるとかなり未練を残して別れたという事なので、今彼女の連絡先を知ったらどういう態度に出るか……
おれはスイッチを切るとゴミの中にラジオをほうり投げた。渾身の力で、ではない。今このツールを失ったら、おれはへその緒を切られた赤子も同然なのだ。
……もうだめかもしれない。
おれは床に手をつくと、情けなさと悔しさと悲しさで背中を波立たせた。全身の毛穴から憎しみと憤りが、押さえていた蓋を鞭上げて噴出しようとしていた。 おれはそれぞれ全部を脂汗に変えて、鏡の前のガマガエルのようにたらーりたらりと滴らせ続けた。




