2 集団ストーカーと遊ぼう
がこん、という音で目が覚めた。
酒の勢いでほんの少し寝たような気がするが、眠りについて四時間とたっていないだろう。だがずいぶんと変な夢を見た気がする。おれが日本国の仕掛けた罠にはまって意味のない有名人になる夢だ。
ポストに誰かが何か入れたようだが、新聞も取っていないのに何だろう。
おれはごそごそと染みだらけの毛布からはい出ると、ゴミをまたいで玄関に立ち、ドアの内側の新聞入れを開いた。
取ってもいないスポーツ新聞が入っていた。
不意に嫌な予感が足元から這い上がってきた。捨てようと思っても、握った新聞は離れてくれなかった。
そろそろと紙面を広げ、好奇心に負けて一面を見る。
『スター阿川聖氏沈黙のデビュー! 悲惨な転落人生の全貌!』
『あのT電から逃走後、自衛隊に逃げ込み、薬漬けになって首に』
『母親曰く、卒業文集の夢をかなえてほしかったのに』
そして小学生の時のおれの写真と、その横に「キング牧師のような立派なアメリカの大統領になりたい」というどバカな小六の時のおれの作文が載っていた。
おれは新聞を床にたたきつけると足で踏みにじった。畜生。あれは夢じゃなかったのか。畜生、誰か嘘だと言ってくれ。
机の上を見ると、分厚い茶色の封筒があった。中を覗くと、札束だ。あの百万だ。ぶちまけて煙草の火でもつけてやろうと思ったものの、情けないことにそっちは実行できず、おれは札束をそっと戻した。そしてボロボロのガラケーを手に取った。
家の電話。電話番号。ほとんどかけてもいないので履歴にない。アドレスにも載せていない。あれ、何番だっけ?
ようやく番号を打ち終えると、しばらくたってのんきな呼び出し音が鳴った。十回。出ない。おれは録音案内のアナウンスが終わると怒鳴った。
「おふくろ、おれだよおれ! 大変なことが起きてんだよ、いや分かってるよな? とにかく、何もしゃべらないでくれ。あと、当分家から出られないんで当座の食料……とちょっとの金が必要だ。いや、これ、聞いてんだろ? 出てくれよ、おふくろ!」
よく考えたら喋り出しがまるっきりオレオレ詐欺だ。だがこちらの番号は表示されるはず。されるんだっけ? あれ、番号表示させるには186とか押すんだっけ? 世間の常識がよくわからない。ええと……
『ひじり? ひーちゃんなの?』
聞きなれた声が突然答えた。ああ、留守電聞いていて出てくれたんだ。地獄におふくろだ。
「そうだよ、よくでてくれた。迷惑かけてごめん。そっち、人来てる?」
『来てる、じゃないわよ。もう昨夜から門の外がごった返してて、どうしてこんなことになっちゃったんだか……』
「そうか、おれもなにがなんだかわからないんだ。説明されたけど、現実のこととは思えなくて」
『あんた、テレビも見てないの? ……も?』
頭上でバラバラとヘリの音がうるさく続いていてよく聞こえない。
「新聞も取ってないしネットもしてないよ。政府がマイナンバーシャッフルでジャックポッドだとか、これ、ほんとのことなの」
『こっちにも説明の方が見えたわよ。しばらく騒がしくなりますがすみませんって。五十万円おいてったわ』
おれはあわあわしながら聞いた。
「それ、それ、若い女だったか」
『いえ、中年の男のひとよ』
おれはひとまずほっとした。黄川田じゃないんだ。いや待てよ、それも殺人犯じゃないとどうして言える? まあひとまず、今はそれは置いておこう。
「それであのさ、卒業文集渡したり、おれのこといろいろ言うの、やめてくれないか。やっちゃったことは仕方ないけど、見てのとおり全部報道されるんだよ。頼むよ」
『なんなの? そっち、ヘリの音がうるさくて聞こえないわ。ニュースであんたのマンションを上空から映してるけど、屋上にも記者がいるわよ。気をつけたほうがいいわ』
政府要人じゃあるまいし、ヘリまで出すのか。おれは声をでかくして聞いた。
「あの、さ。おれについてなにもしゃべんないでくれ。変に誇張されて報道されると、おふくろにだって、恥だろう」
『ええ? あたし大したこと言ってないわよ。インタホンが鳴りやまないから、いい子でしたし、大きな夢もあったし、今はお仕事やすんでいるけど疲れただけですって、それだけよ。卒業アルバムは断ったわ。で、そういや天袋に上げといた卒業アルバムはまだあるかしらと思って押し入れから上に上がったのよ。そしたら、どっかの記者が天井裏に詰まっていて、天袋のアルバムもって屋根裏から天窓つかって逃げてったわ。頭に来たんで物置から害虫用の噴霧器出そうとしたら、物置にも人が詰まっててカメラとかいろいろ抱えて逃げてったのよ。おかげで天窓と屋根瓦と物置が壊れちゃったわよ』
筒井康隆の小説かよ。冗談じゃないよ。おれはあきれ果てて、口を開け閉めしたものの声も出なかった。
『それでね……あんたその、奏さんとはなにか連絡取ったの?』
奏というのは二年前に分かれたおれの恋人だ。
「いや、……あっちも電話番号変えたらしいし、取りようもない。迷惑かかってるかな」
『たぶんね……。あちょっと待って、テレビの音下げるから』
少し間があった。おれは嫌な予感がした。
「もしかして、今、彼女が何かでテレビに出てるとか」
『いえ、直接は出てないけど』
そこまで言って、おふくろはあわてて追加した。
『じゃなくて、何にも出てないわよ。いい、ひーちゃん? テレビなんて見なくていいからね。ほんとに、こっちは何も言ってないのに嘘ばっかり。わかったわね、見ちゃだめよ。お金とか食料品とか、何とかおかあさん、頑張ってもっていくからね』
返事を待たずに、ぷつりと電話は切れた。
嫌な予感はふくふくと膨らんでいった。自転車の空気入れで空気を押し込まれるゴム風船のように。
おふくろはこういうところが駄目なんだ。見ちゃだめと念を押すのは、見ろと言われることの何倍も効果があると知らないのだろうか。
おれは誘惑に弱いダメ人間だ。「押すな」と書かれた赤いボタンがあればどうしても押したくなる。小学校で三回非常ベルを鳴らして雷を落とされたことを、おふくろは忘れてもおれは覚えている。
そういうわけで、おれがえいやっと「魔界」と書かれた紙をベリベリ剥がし、テレビをぐるぐる巻きにしていたシーツをほどくと、震える指で電源を入れたのも、仕方のないことなのだ。
民放は、朝のワイドショーの真っ最中だった。いきなり画面に、奏の肩を抱いた大学生のおれの写真が大写しになった。
『阿川聖さん、学生時代からAVではロリ系SMがお好み』
『あのAV女優にそっくり! 巨乳の元恋人、海原奏さんの写真を入手!』
『あまりの早撃ちでイったこともなし。友人が語る恋人の不満」』
おれは画面を携帯で殴りつけてテレビ本体を蹴倒した。さらにテーブルの角で打ち据えた。右手がしびれて感覚がなくなるまで。
気がつけば、足元には砕けたモニター画面と壊れた携帯のかけらがばらばらと散乱していた。
そうして今おれの前に転がっているのは、唯一の情報源であるテレビと携帯が使い物にならなくなったという現実だった。
……やっちまった。
ごみの山の中からまだ中身の残っている焼酎のビンを見つけだし、ラッパ飲みしながらおれはふらりと窓辺によってカーテンをつまんだ。
窓の下に押し寄せていた報道陣はいつの間にか消え、ただ遠目にちらちらとこちらを伺いながら、いつもの三倍ぐらいの通行人がゆっくりと行きかっていた。
あとは国民全員が野次馬になっておれを監視してくれるというわけだ。
『たまに、あなたのようなかわいい人に会えるからですよ』
おれはぶるっと首を振ると、あのときほんの一瞬心の中に同時に沸いた激昂と歓喜の余韻を打ち消した。
それから深呼吸をすると、母親の顔を思い浮かべた。
金と食料を何とかして持ってくるといったな。断ろう。部屋からは出ずに、生きるための養分だけ求めるなんざ最低だ。首をもたげて世間と戦う覚悟なら、おれも乞食をやめるべきだ。あの百万にだってなるべく手をつけたくない。この空間に転がる有り金をできるだけ集めて籠城の準備を整えて……
だがおふくろとの連絡をどう取ればいい。唯一のへその緒、携帯は自分からぶち壊してしまった。外に出ないわけにはいかない。外に出れば公衆電話だってある。
おれは決心して立ち上がった。
たぶん歩き出せば、ありとあらゆるところからカメラがおれを狙い、今の姿が報道されるのだろう。奏のことを思い、おれは何週間ぶりかでシャワ―を浴び、髪を洗うことにした。
こすってもこすっても垢が出るのでなかなかシャワーがとめられず、余計な水道代がかかってしまった。体重も一キロは減ったんじゃないか。
伸びすぎた髪は後ろで縛り、押し入れから一番垢じみていない服を取り出して身につけると、おれは何か月かぶりに屋外に出た。
外廊下を歩くと、あちこちの部屋のドアが半開きになり、ちらりと顔が覗いてまたバタンとしまった。モグラたたきみたいにピコピコハンマーで叩いたらさぞ楽しいだろう。
マンションの外は十一月の風が吹き、からからの枯葉があちこちに吹き溜まっている。遠巻きにしているわざとらしい通行人が少し歩みを緩め、近くのマンションの屋上からちらちらと頭が出たり引っ込んだりしている。電柱から電柱へ、忍者のように渡り歩きながら、カメラマンがついてくる。まるで精神病者の妄想の世界だ。
おれはくるりと振り返ると、電柱の影に隠れている男につかつかと歩み寄った。
ぶくぶくのジャケットを着たメガネ男は、おれが真正面から来たのを見ると怯えたように目を丸くした。
「おい」
ひ、と言うような声を出して、メガネの男はジャケットの胸元からチワワを出した。
「なんですか。おお源之丞、しょんべんがしたくなったか」
「あんた記者だろう。こっちから聞きたいことがあるんだ」
「わたしは犬の散歩をしているだけでして」
「あんたらのネタ元について教えろ。AVの趣味がどうとか早打ちがどうとか、どこの馬鹿にそんなでたらめを聞きやがった」
「源之丞、ダメじゃないかうんこまでしたら。しかしおまえはうんこ姿もかわいいなあ」
男は首から一眼レフを下げたまま、足元で糞をひっているチワワに向かってシャッターを切って見せた。どうやら時間の無駄だ。おれは男に背を向けるとさっさと駅前に向かって歩を進めた。目の前で掃除をしていた婆さんが横っ飛びに飛んだとたん、エプロンからカメラが落ちた。おれはそのカメラをがしゃりと踏んで大股で駅に向かった。
バス通りに出ると、今では数が激減した貴重な公衆電話があった。
入ると遠巻きに人がきができた。見たいなら見ろ。おれは十円玉をありったけ入れて……百円玉は戻らないから入れないのだ……まず実家にかけた。
鳴ってはいるが出ない。当たり前だ、この状態で公衆電話からのわけのわからない着信なんて出るわけがない。コールが留守録に変わると、口元を手で覆い……そのとたん電話ボックスのガラスに耳をひっ付けたやつがいるので思いきり拳で内側からぶん殴った……おれは小声で伝言を入れた。
「おふくろ、おれだよ。もう金も食料も持ってこないでくれ。あそこに来るだけでさらし者になるし、正直危ない。自分のことは自分で何とかする。もう息子はいないものと思ってくれ」
電話を切ると、携帯ショップに向かった。空間を開けて野次馬がスマホを翳しながらついてくる。おれはなんとなく、映画フォレストガンプの一シーン、あてもなく荒野を走る髭面のフォレストの後ろをぞろぞろついてくるジョガーと報道陣の群れの会話を思い出した。
―フォレストさん、急に立ち止まってどうしたんですか?
―ぼく、帰る。家に帰る。
―え?
―ぼく、疲れた。
ショップの見慣れた看板の下をくぐると、店内の客が一斉にこちらを向いた。待合の壁のテレビでは、デブのオカマタレントがおれの卒業文集の文面を指さして爆笑している。
「いらっしゃいま……」せが消えたままの店員にずかずか歩み寄ると、おれはボロボロの携帯を見せた。
「これ直して」
「は。これは……」頬のこけた男性店員は眉を寄せて受け取ると困惑した表情で言った。
「お客様、これでしたら新しくスマホに買い変えたほうが絶対お得です」
「携帯でなきゃ嫌なんだよ、使い慣れたこれが一番なんだ」
「しかし……」
「データの移し替えとか頼むと何もかも外に漏れるからな」
「いえいえ、そんなことは決して」
「とにかく時間はかかってもいいから直してくれ。無事格安でなおしてくれたらマスコミに売れる特ダネをあんたにだけ教えてやる」
「あのお客様、何のことでしょう」若い店員は貼り付けたような笑顔のままで言った。
「直せるの直せないの」
「でしたら一応お預かりして一応できるところまでやってみます。その間簡単な携帯をこちらからお貸しします」
「お宝ゲットしてうれしいだろ、データ見放題だな」
「そのようなことは当店では」
「おれさ、キング牧師をアメリカの大統領と思ってただけじゃなくて、ネルソン・マンデラとモーガン・フリーマンの見わけもつかねえんだ」
「は?」
「あんたの名札、きちんと記憶したから。どこにも漏れなかったなら人間として感謝する。何か漏れたなら、そのときは」
「お客様からの信頼を命として当店は成り立っております。ご安心ください。ご利用ありがとうございました」男は90度に腰を折りやがった。
臨時用の携帯を受け取ると、ヨシズミカズユキという名札に別れを告げて、おれは店を出た。
次は買い物だ、外出したこの機会にとにかくありったけ食料品を買い込まねばならない。実はあの百万の札束からそっと一枚、拝借してきたのだ。背に腹は代えられない。おれは一番近いコンビニに向かった。とにかく腹持ちのいいものをたくさん買わねば。
自動ドアが開き、いらっしゃいませーの声に俯きながら、店内に入る。ほどなく、背後で女子高生がひそひそ話を始めたのが分かる。かまわずどさどさとカップ麺や米、スナック菓子を買い込んだ。そうしてかごをレジカウンターにどんと置いた。
明るい茶髪の女性店員は視線を逸らしたままレジを打ち始めた。そういえば、いつかカウンター内で、あたし映画好きでさー、週に三本は借りるの、とかバイト仲間と話してたな。
「映画好きって言ってたよね」
「は?」突然話しかけられて、茶髪女は初めて顔を上げた。
「女囚さそりって知ってる?」
「さ、……さそり、ですか?」
「そう、梶芽衣子主演の女囚映画」
「……知りません」消え入りそうな声だ。
「じゃあ、愛のむき出しって知ってる?」
「あ、それなら」
「そこに、さそりさん、て出てたでしょ」
「ああ。ええと、西島隆弘…がやってましたよね」
「そう。主演の満島ひかりが憧れる映画キャラ、女囚さそりに、女装してなりすましてた」
「それなら覚えてます。西島君の女装もよかったし、満島ひかり、演技凄かった」
「うん。で、似てるんだよ」
「誰が、ですか?」ちょっと興味を引かれた様子で、女店員は聞いてきた。
「AV女優の愛里ひなちゃんじゃなくて、満島ひかりに似てるんだよ。おれの元カノ。誰かに聞かれたら、そう訂正しといて」
呆気にとられたふうの彼女をそのままに、おれは金を投げ出すようにカウンターに置くと、店を出た。




