1 大当たりは突然に
夕方寝から覚めたら、窓の外が何だか騒がしかった。
おれの住んでいるマンションは人通りの少ない通りに面している。車の音もあまりしなければ人の気配もしない裏通りだ。なのにいつになく、大勢の人間のざわめきと、ちらつく光と、口々におれの名をささやく声が打ち寄せる波のように聞こえるのだ。
あがわ……ひじり……あがわひじりの部屋……確かにあそこだ……
生きてるのか? ほんとにいるのか?
空耳かと思ったが、パッチリ目を開けてもざわざわは消えない。
これは幻聴か。脱却したと思っていた病がまた戻ってきたのか。
おれはもそもそとベッドを出て、部屋の灯りもつけぬまま四階の窓辺に立ち、薄汚れた灰色のカーテンをつまんで外を見た。
げ。
下の通りに、ぎゅうぎゅうに人間が詰まっている。
しかも半分以上が報道用のカメラやマイクを手にしているじゃないか!
あとは野次馬と、それを整理する警察官と、……機材を積んだ報道関係の車列がその向こうに見える。パトカーもだ。
「今窓から覗いたぞ」
「いたぞいたぞ!」
「おい押すな、危ないじゃないか!」
人ごみが押しくらまんじゅうのように揺れ、怒号と警察官の警笛の音が続く。一体これはどういう事態なんだ。おれはいつの間にこれほど有名になったんだ?
「ジャックポット!」
「ジャックポット!」
野次馬は口々にそう叫び、おれに向かって親指を立ててみせた。
カーテンをそっと閉じ、おれは呆然と床に座り込んだ。正確に言えば、空き缶とコンビニ袋とカップ麺の容器と下着、雑誌にエロ本が堆積した床の上に、腰を下ろした。尻の下で潰れた発泡酒の缶がぺけっと音を立てた。
何の冗談なんだ、これは。
ベッドに入ったのが午後四時だから、この熟睡感からいって、今は九時前後か?
暗闇の中で枕元を探るも、携帯が見当たらない。壁かけ時計は半年前に殴って壊した。テレビは一年前にシーツで巻いたうえ、「魔界」と書いた紙をガムテで貼って封印した。パソコンはゲーム専用でネットはしない。とにかく、外から電波系のものを受信すると邪悪なものが流れ込んでおれの脳細胞を破壊しにかかるからだ。
というわけで、ここにこの状態で籠城した二年前から、おれはまともに外界と接触していない。外に顔を出すのは唯一、おふくろ――オヤジが病死した後女手一つでおれを育ててくれた――が勝手にドアノブに括り付ける食料や金を引き入れるときと、一番近所のコンビに行くときぐらいだ。人が押し寄せる道理などどこにもないのだ。で、あれはなんのまじないなんだ。ジャックポット……大当たり?
ピンポンピンポンピンポーン。インタホンが突然けたたましく鳴り響いた。
「うわっ」おれは尻もちをついた。
来客などいっさいないのでこの音を聞くのも久しぶりだった。
おそるおそるモニターを覗いてみる。
つばの広い黒い帽子を目深にかぶりサングラスをかけ、黒いコートを着た若い女が、じっとこちらを見つめている。
なんだこいつは。女囚さそりか。
「阿川さん。阿川聖さん。ご在宅でしたら、対応願います」
断固とした、そして冷たく事務的な声だった。
「突然のことで困惑されていると思いますが、外の騒ぎのご説明をしたいと思います。ドアを開けていただけませんか。わたしはこういうものです」
女はモニターカメラに向かって、ひらりと名刺をかざしてみせた。
『ジャックポットプロジェクト 説明担当 黄川田ミナ』
……何のプロジェクトだ。新手の詐欺か?
「まともな訪問だというなら、まずそのサングラスを外してくれ」
酒焼けのせいか、かすれた声しか出なかった。
女は黙ってサングラスを外した。
なにかにびっくりしているような、大きな透き通った瞳が、サングラスの下から現れた。レンズ越しに、漆黒の闇のようなオーラが押し寄せるのを感じて、おれは思わず一歩下がっていた。
「不審に思われるのも無理はありません。わたしは政府広報から任命され、派遣されて来たものです。あなたには迷惑代をお支払いに参りました。とにもかくにも、ひと通りのご説明をしたいのです。あなたも騒ぎの原因をお知りになりたいでしょう」
「政府広報?」もう少しましな嘘はつけないものか。なんだそれは。
「ここで詳しいことはお話できません。できれば中で」
「おれも部屋も臭いですよ。風呂入ってないし、ゴミだらけなんで」
「構いません」
まあ、たかだか女一人、何ができるってものでもないだろう。第一、なかなかの美人だ。どっかの組織から使わされた刺客だというならそれもいい、人質にとって思い知らせてやる。これが夢だというなら、押し倒して好きにしてやる。
そういうわけで、おれは思い切ってドアの鍵を開けた。
上から下まで黒づくめの、背の高い女が、コートのポケットに手を突っ込んだまま立っていた。
「黄川田ミナです」女は名刺を差し出した。
「梶芽衣子、じゃないのか」
「入ってよろしいですか」
多少は受けるかと思ったジョークを放りなげられた。
「さっさとドアを閉めてくれ」
おれは名刺を受け取ると女を廊下に入れ、鍵を閉めた。女はゴミと本で埋め尽くされた廊下をスリッパもないままに通り、おれのあとについて奥の六畳間に入った。
ちらりとあたりを見回すが、ゴミの山と臭気に動じている様子もない。場慣れしているのだろうか。
おれはつま先で、堆積したいろんなものをどけると、一応部屋の中央にあるテーブルの向かい側に尻一つ分ぐらいのスペースを作った。目くばせを送ると、黄川田ミナはコートを脱いで帽子をとり、そこに座った。そして蟻塚のように積み上げられた周囲の本に視線をめぐらせた。
「読書がご趣味ですか」
「とっとと説明してくれ。ジャックポットと外の野次馬と迷惑代について。あとあんたの正体も」
女はファイルから書類を一枚出すと、おれの目の前にこちら向きにして置いた。
書類の一番上にはおれの顔写真……T電力時代のものだ……が貼られ、おれの名前と経歴と会社での所属と、あまり見たくないような個人的なデータが書き込まれていた。おれは吐き気を覚えながら流し読みした。H大震災ののち事後処理を巡って上司と衝突を繰り返し退社。半年のブランクを経て体を鍛え、陸上自衛隊に入隊。薬物中毒の影響で全裸で窓から飛び降り、全治一か月の怪我、退職。 身長、体重、趣味、性格、性癖…… この野郎!
「何でこんなものを見せる」テーブルの上で握りこぶしを震わせながら押しつぶした声で聞くと
「SNSはやっておられますか」いきなり質問で答えやがった。
「インターネットとかそういう事なら、してない。プロバイダとの契約も解除した」
「テレビも見られていないようですね」魔界、と書かれた紙が貼られ、ぐるぐる巻きになっているテレビと壁で割れたままの時計を見ながら黄川田は言った。
「その通りだ。だから外のことは何も知らない。現在時刻もだ」
「まず今は午後十時。あなたはマイナンバーシャッフルによって選ばれた、国の決めた有名人です。これから三か月、あなたには有名になってもらいます。こちらが迷惑代になります。百万入っております」
鞄から分厚い封筒をがさりと出して無造作に卓上に置きやがった。
「マイナンバー? なんだよそれは。なんでおれが有名人になるんだ?」
「簡単に言えば国が国民を管理しやすくするための税番号ですね。昨年より、国民全員が個人につけられた番号によって識別されています。ご存知ないですか」
「知らん。おれには関係ない」
「あなたのご実家に番号が送られているはずです。が、それはいいとしましょう。とにかく、国が十二桁の番号をシャッフルして、三か月に一人ずつ当選者を決めます。当選者は有名人として扱われます。一日の動向、行動予定等がニュースの特別枠で報道され、些細なことでも週刊誌が取り上げます。新聞にも、埋めるべき特別枠が設けられます。その間、あなたにプライバシーはないものと思ってください。いわば何のメリットもなくただ有名税を払わされる非有名人、という立場ですね」
「おい。冗談はよせ」おれは驚きで半分腰を浮かせた。
「冗談ではありません」
「何のために国がそんな気ちがいじみた嫌がらせをするんだ」
「以前はネットをやっておられましたか?」
「なんで質問に質問で返すんだよ。ああ、やってたよ。ブログにツイッターに闇サイト、2ちゃんとかも馬鹿みたいに出入りしてたよ」
「どうしてやめたんですか?」
間髪を入れずよどみなく聞いてくる。その横柄な態度に熱い血の塊が脳天目指してかけ昇ってきた。
「後でまとめて質問に答えてくれるんだろうな?」
「もちろん」
即座に答えてくる女の美しい瞳に向かって、おれは叫ぶように言った。
「そうか。じゃあ言ってやるよ。おれはうんざりしたんだ。
あの忌々しい大震災で原発が一基いかれてから、どこから電気が来てるか考えもしてなかった連中が突然パニックに陥りやがった。
個々の顔も持たず、何の責任も負わず、ネット内だけに住んでるやつらが、正義面して正論を吐く。電気がなければ息もできないくせに、誰かが生み出したエネルギーで文明というおしゃぶりをしゃぶってるくせに、いっぱし聞いたような風をして原発反対T電死ね文明は悪だ。お前らから電気取り上げたらただの猿だろうが? 知識もない無力なガキがただの技術者をサンドバッグにして駄々こねて、責任とれだの謝れだの。
文句あるなら自力で発電しろ。なんでおれがあんな連中に文明をお恵みしなきゃならないんだ、電波乞食が!」
「そして誹謗中傷の結果、婚約者にまで逃げられた。そうですね」
おれは拳でどん、とテーブルを叩いた。
「うるさい。それ以上抜かすとその首ねじ切るぞ」
ニトリで買った安いテーブルの足が、みし、と悲鳴を上げた。こいつらはどこまで調べ上げているんだ。背中を汗が滑り落ちてゆく。
「わたしなりに、お気持ちはわかります。で、その後自衛隊に入られたのはどういう動機ですか」
「まだ聞くのか。そうかいいだろう、いい度胸だ。喋りおわったらただでは返さんぞ。
簡単に言えば、力がほしかったんだと思う。なにか、目に見える形の」
「戦闘能力とか、そういう意味合いですか」畳みかけるように女は聞いてくる。
「根性論に身を投じてとことんまでやってみたかったのかもしれない。手に入れられる武器は手に入れてな。意味のないことを」おれは半ばやけくそでにやりと笑った。半分嘘で、半分は本当だった。
「でも、そこも一年でやめましたね」
「ああそうさ。わりといろいろときつかったんで、流行りもんの薬に手を出したんだ。飲んですぐに世の中が薔薇色に見えてくる奴をだ。で、ついでに薔薇色の電波が脳味噌に絡みつきやがって、でかい花が脳天に咲いて、それからは薬がさめても電波がおれに話しかけてくるようになったんだ。
おい電波屋、安全で持ちのいいエネルギーを持って来い。お前の仕事だろう、お前は全人類の下僕だろう」
「薬はやめられたんですか?」
「苦労してやめたが、その前に自衛隊を首になった。電波系の副作用だけは残った。で、危ないから自分からここに引きこもったんだ。やりたいやりたいと思っていたことをせずに済むようにな。今も人類のために我慢の真っ最中だ。賞状でももらいたいぐらいだ。以上だ」
数秒の間があった。おれは背中で息をしながら呼吸と気持ちを整えた。目の前の暗い目をした女の首をねじ切らずに済むように。
「説明しやすくなりました。政府の考えも似たところにあります」
静かな声で女は言った。
「なんだと?」
若干背筋を伸ばして、ミナは座り直した。
「おっしゃるとおり、SNSは無名の論客の遊び場です。そして正直な話、彼らは増長しすぎました。ツイッタ―の世界では、大統領も一般人も発言力はおなじです。世界相手に発言することに特に資格も権利もいりません。でも一般人は顔を晒すというリスクから逃れている」
おれは不覚にも頷いていた。
「有名税を払う必要のない無名な人間が、税も払わずに国のトップと同じほどの発言力を持ち、世界で最も危険なテロリストを刺激し宗教を誹謗する。言わば暴走状態です。そこで、政府は顔のない彼らに顔を与え、先に有名税を払ってもらうことにしたのです。それがジャックポットプロジェクトです」
「先に?」
「この試みは一年前から始まりました。政府が無作為抽出し、問答無用で有名になってもらいます。個人のデータは抹消できませんから、そこでばらまかれたプライバシーは元には戻りません。いわば芸能人、公人と同じですね。これをこれからも続けます。三か月に一人、ではなく、無作為抽出で顔と素性を晒される国民はこれからどんどん増やすでしょう。もちろん、どういうSNSにつなぎどのようなネームを使いどんな顔をしているかどこに住んでいるかもすべて公開されますから、それからはネットにおいてもネットの外においても、顔のある人間としての発言しかできません」
「ふざけるなよ。おれはネットなんかやってないって言っただろう」
「日本に住んで文明生活を送っている限り、いずれつなぐこともありえるでしょう」
「んな、なん……」
「一般大衆は、さらし者になるのは恐れますが百万は妬ましい。ですから選ばれた当選者は過剰に騒がれ俎上にあげられ、あることないこと世間によって噂を流されることになります。心を病む方もいらっしゃいますがそれはむしろ迷惑料のおまけと考えてください」
おれは口の中でもつれる言葉をほどきなおし、女の顔を見据えると、深呼吸して言い直した。
「おい。何がプロジェクトだ。何が〝大当たり〟だ。無作為抽出だのシャッフルなんて嘘だろう。おれを狙ったな。元T電社員で自衛隊の落ちこぼれで何をしでかすかわからない引きこもりだから、監視するためにだ。そうだろう!」
「いろいろと大変だったようで、そこはご同情申し上げます」
おれはテーブルの上に両手をつくと、ぐいと女の白い顔の前に自分の面をつきだして、出来うる限り低い声を出して言った。
「なめるなよ。のうのうと人の家に入り込んでさんざん小ばかにしやがって。あんた、ここが密室だという事を忘れてないか」
「本当に、わたしを知りませんか」
「なに?」
黄川田ミナは凍てつくような冷たい視線で、おれを見返した。
「わたしの顔と名前に、覚えはありませんか」
おれは少し顔を離して、しげしげと眼前の白い顔を見た。
ひたとこちらを見据える、大きな無表情の目。中高な、整った顔。痩せた体。常に夜をまとう、凍った星のような風情。黄川田ミナ、という名前。
その顔に突然、新聞記事の見出しと写真が重なった。
『誰でもいいから人を殺してみたかった』
ひ!
短く叫び、おれは彼女から身を離した。
K大学のエリート女子学生による連続殺人事件。
深夜の路上で通行人を四人バットで撲殺、二十一歳で逮捕……
犯行理由は、ただ、人の死ぬところが見たかったから。いっさい反省はしないと断言し、上告はせず……
あれは、あの事件は確か、三年、いや四年前……
「あんた、あのれ、れ、連続殺人……」
「思い出していただけたようですね」女は襟元を整えながら言った。
「も、もう出てきたのか。そしてこんな仕事を任されているのか。……政府に?」
「いえ、わたしは罪人のままです。上告を断念したので、一応死刑囚ですね」
こちらを見上げながらそう言う上下黒のスーツ姿の黄川田ミナは、丸の内のOLにしか見えなかった。
「……じゃ、じゃあ、なんで」
「つまり、どんな目に遭わされても相応である、プライバシーのない人間としてこの仕事を請け負っているんですよ。否応なしに」
今度はおれが後ずさる番だった。
「あんた、あんたみたいな凶暴な人間に一方的に訪問されて家に上げなきゃいけない方にも、一応、人権てものはあるんだよな」
ミナはちらりとドアを見た。
「大丈夫、すぐ外には片手に銃を、片手に手錠を持った刑事が待っています。わたしではなく、あなたを守るために」
「……ちょっとそこで、そこで待て」
おれはそろそろと玄関に行くと、ドアにかけてあったチェーンと鍵を外した。下を向いてミナが少し笑った。
「何もしませんよ」
なんて屈辱的な状況だ、ちくしょう。
女は顎を上げて、説明を続けた。
「ジャックポットの当選者になっても、悪いことばかりじゃないんですよ。例えば漫画家になりたいなら、こんな原稿をかいていると記者たちに渡せばいい。すぐ掲載してもらえます。芸能人になりたくて顔がいいならまたとないチャンスです。カメラの前で歌でも歌えばいいんですから。世の中に対して主張したいことがあるなら毎日叫び続ければいい、ニュースの特別枠で取り上げ続けてもらえます。実際そうなさった方もいらっしゃいました。会いたい人がいるなら……」
「どれもごめんだ」おれは叫び声で遮った。
「誰にも会わず、誰にも注目してほしくないからここにいるんじゃないか。ほっといてくれよ。第一おれなんか追いかけても何一つ面白くないぞ。家からも出ないし主張したいことも何もないんだからな。ネットもいじってない。じきに世間も飽きるに決まってる」
「さて、どうでしょうね」ミナは書類を持って立ちあがった。
「また何か聞きたいことがあれば、わたしをあと一回だけ呼ぶことができます。いつでも来ますから。では、お呼びがあれば、また」
「ちょっと待て」
おれは背を向けかけた彼女を呼び止めた。白い頬がこちらを振り向いた。
少し息を吸い込んで、思い切って聞いてみた。
「あんたみたいな人間が、何故素直に政府の飼い犬になってる。拒否したら即死刑執行するとでも言われたのか」
「死刑は望むところです。最初からそうでした。誰かに殺される自分を見ることができるなんて最高ですから」
「じゃあ、……なんで」
黄川田ミナは悠然と微笑むと、言ったのだ。
「たまに、あなたみたいな可愛い人に会えるからですよ」
目のまえでドアが閉じられた。
低い声での会話が聞こえ、かすかに、手錠がはめられる音がした。
薄いベージュの冷たいドアの向こうを、二人分の足音が遠ざかっていった。




