海の国シーリアと鉱山の国グライン
穏やかな波音の中、賑やかな通りを行き交う人々は日に焼けた肌に赤い髪、緑の瞳を持つ者が多い。海を渡った先の国々と交易しているシーリアでは、赤毛が特徴のシーリアの民以外の人々も多く行き交っていて、様々な人種を見る事が出来る。
十年くらい前までは奴隷が働かされていて影のあったこの国に、今は奴隷は一人も見られない。それは、隣国から嫁いで来た王妃の進言によりシーリア国王が奴隷の解放を宣言した為だ。以降この国では、奴隷の存在が認められていない。
「王のご帰還だ!」
人々が目を向ける先には、兵士達を従え馬に跨った王の姿。燃えるような赤い髪に鋭い緑の瞳の王は、四十とは思えない逞しい体付きをしている。服の上からでも筋肉の盛り上がりがわかる、近海をうろつく海賊にもよく似た荒々しさもある男だ。その王が従える兵士達は、出陣した時のままの綺麗な身形をしていた。戦に行って戻って来たはずだというのに怪我人がいないどころか、兵士にも王にも塵一つ付いていないのだ。首を傾げる民達の前を通り過ぎ、王と兵士達は街を越えた先の崖上に立つ城へと吸い込まれて行った。
城のエントランスホールで王の帰還を待っていたのは、茶色の髪に緑の瞳の王妃と、赤毛に緑の瞳を持つ王子。
「バルバロス王、無事のご帰還、お喜び申し上げます。」
王妃が優雅に膝を折ると、バルバロスは七歳の息子を片腕で抱き上げ、妻の事も抱き寄せる。
「形だけの戦、無事で無ければただの間抜けだ。」
「怪我人は誰もいませんか?」
「いない。死者は向こうの目的の者達だけだ。…ルシエラ、お前の父が亡くなった。恐らくお前の母も地位を追われるだろう。」
気遣わしげなバルバロスの視線にルシエラは笑みを浮かべようとして、失敗する。歪んでしまった笑みを隠すように、バルバロスの肩へと顔を伏せた。
「何故でしょう、父も母も、関わりなどほとんど無かったというのに…それでも悲しみは湧くものなのですね。」
ルシエラの母は、バークリンの側妃の一人。ルシエラの下にもう一人姫をもうけるも男でないならば不要だと言って、死んでも構わないと乳母も付けずに二人の娘を放置した女。そのままでは死ぬしかなかったルシエラと妹を拾い育てたのは、バークリン王妃となったルミナリエだった。王であった父もまた、ルシエラの母の行為も、ルミナリエの行動も、咎めも褒めもせずに放置した。彼が興味があるのは戦の事だけだったのだ。
「母様、悲しいのですか?」
バルバロスに抱かれたままの息子がルシエラの顔を心配そうに覗き込み、小さな手が頭を撫でる。息子の行動にバルバロスは優しく目を細め、ルシエラは顔を上げて息子に微笑み掛けた。
「母様の父様が亡くなってしまったの。一緒に悲しんでくれる、アイディン?」
「バークリンの王ですか?それは、ライオネルも泣いていますか?」
「あの子は泣けないの。だからアイディンが代わりに泣いてあげて頂戴?」
「悲しいのに泣けないのですか?ライオネルは可哀想です。」
「そう、強く悲しい子。あの子は一人で全てを背負い込んでしまう…」
「ならば僕が泣いてあげます。可哀想なライオネル…僕だったら、父様と母様が死んでしまったら、悲しいです。とても、怖いです。」
想像したのか、しくしくと泣き出した息子の頬を撫で、ルシエラは優しくキスをする。そんな二人を腕に抱き、バルバロスは静かに涙を流す妻と息子に、そっとキスを落としたのだった。
岩山をくり抜き建てられた石の城。鉱山の国と名高いグラインの、一番大きな鉱山の一角にそれはあった。
床も壁も天井も、全てが石で出来た城の一室。床の上には本が山積みにされ、紙束が散らばっている。散らばってはいるが、本人曰くわかり易いよう整理して置かれているとの事で、誰も手を触れる事が許されず、本も紙束も貯まる一方だ。
足の踏み場も無いような部屋の中、拡大鏡を使い熱心に石を観察している女がいた。豊かな茶色の髪は一つにひっ詰められ、緑の瞳は真剣な様子で手元の石へと向けられている。彼女の前の机には他にも大小様々な石が転がり、その下には鉱山の地図らしき紙とメモがあった。石の観察を終えた彼女がペンを取り、何かをメモし始めた所で部屋のドアが勢い良く開かれた。来客だというのに気にする様子を見せない彼女に、本の山を薙ぎ倒しながら一人の男が突進する。浅黒い肌に短い黒髪、茶色の瞳のその男は、この国の王ゴーセル。
「ナーディアナーディアナーディアー!!!」
どしんと勢い良く背後から抱き付かれ、ナーディアは眉間に深い皺を刻む。だがメモを取る手を止める気はないようだ。
「聞いておくれよナーディア〜、ライオネルが遂にやったんだよぉ、王様だよ?王様!やっぱり彼は凄いよねぇ、戦場で赤騎士が目の前に現れた時はもうダメだーって思ったものなぁ。これで益々ナーディアが見つけてくれた宝石を多くの国に輸出出来るよねぇ?ねぇ、嬉しい?嬉しいよねぇ?僕は嬉しいなぁ!」
「五月蝿い、おバカゴーセル。」
「冷たいーナーディアー、僕お仕事頑張ってるんだから、構っておくれよー。」
猫撫で声を出して背中に頬擦りをする夫に溜息を吐き、ナーディアはやっとペンを置き振り向いた。自分の方を向いてくれた妻に、ゴーセルは尻尾を振らんばかりに喜んで満面の笑みを浮かべる。
「それで?ライオネルが王となるなら、レバノーンは死んだ?」
「君のお父上だろう?そんな言い方はどうなんだい?」
唇を尖らせ嗜めるゴーセルの額を、ぺしりとナーディアは叩く。
「五月蝿い。あれは血が繋がってるだけの赤の他人。私の家族は二人の姉様とルミナリエ様、ライオネルとレミノアよ。それで?死んだんでしょう?」
「待って!家族に僕が含まれていないよ!夫を忘れるだなんて心外だなぁ。」
頬を膨らませ抗議をし始めたゴーセルの頬を勢い良く両手で挟み、ナーディアは両手をぐりぐりと動かす。
「早く、話しなさい。」
「いひゃい、いひゃいよ、なーでぃあ〜」
涙目になったゴーセルの抗議を無視してしばらく頬への攻撃を続けたナーディアは、満足したのか夫の頬から手を離して解放した。解放された頬を両手で包み、ナーディアから無言の圧力を感じたゴーセルは口を開く。
「アリシア殿の母君がね、寝室に忍び込んで短剣で心の臓を一刺しだって。王の寝室を警護していた騎士達は、催眠効果のある香で眠らされたらしいよ。彼女が眠れないと言って、医者から処方された物を使ったみたいだ。」
「ふーん。なら側妃達はおしまいね?」
「またそんな言い方〜、君のお母上もいるだろう?」
「あんな、ただ私を産み落としただけの女、母なんかじゃないわ!ルミナリエ様がいらっしゃらなければ、私もルシエラ姉様も城の中で飢えて死んでいたんだから!」
「ごめんよ、ナーディア、泣かないで。」
「泣いてなんかないわよ、バカゴーセル。」
そっとゴーセルに抱き寄せられ、ナーディアは鼻を啜った。
産みの母に期待した事だって、彼女にはあった。捨てられたなんて本当はそんな事は無くて、会えば、ルミナリエが伸ばしてくれるような優しい手が触れてくれるのではないかと、期待した時だってあったのだ。
ルミナリエと共に腹違いの姉弟達と、同母の姉と過ごした離宮。そこから同母の姉であるルシエラと共に抜け出して、産みの母に会いに行った事があった。遠くから見る事はあった、美しいドレスを纏い、輝く大きな宝石を纏った美しい女性。産みの母である彼女を追い掛けて、二人は城の中を進んだ。やっと追い付いた彼女に姉妹で手を繋いで駆け寄り、緊張しながら母と呼んだあの時。産みの母であるその女は興味の欠片も無い瞳をナーディアとルシエラへと向け、汚い手を触れるなと小さな手を力の限りに振り払った。
『まだ死んでなかったのか?姫などいらぬわ!さっさと死ねば良いのだ!』
振り下ろされた扇子に、身を寄せ合い身構えた姉妹に代わり頬を打たれたのは、金茶色の髪の小さな弟。間に割って入って来た存在に姉妹よりも驚いたのは女の方で、逃げるように彼女はその場を去って行った。
『ルシエラ姉様、ナーディア姉様、お怪我はございませんか?』
優しい碧の瞳が二人を振り向き、ナーディアとルシエラは弟を抱き締めて泣いた。
『ライオネル、血が出ているわ。』
ルシエラが手巾を取り出して、ライオネルの頬から流れ出ていた血を抑える。血が出る程に子を打ち付けるなど、正気の沙汰ではないと、幼いながらもナーディアはぞっとしたのを覚えている。
『泣かないで、姉様達。お二人は私が、幸せにして差し上げます。だからあの者の事は忘れて下さい。全て私が引き受けます。姉様方を悲しませるあの者に、いずれ報いを受けさせます。』
強かに打ち付けられ頬が痛むはずなのに、小さな弟はそう言って微笑んだのだった。
そうして全てを背負い、全てを引き受けた弟は、やり遂げた。
「ゴーセル、あの子にはいるかな?私にとってのゴーセルのように、側に寄り添って、泣かせてくれる人が…」
優しいあの子が、孤独で無ければ良いとナーディアは願う。多くの、彼の為に動く信頼出来る部下はいるだろう。だけれどそうではなくて、あの子の癒しとなるような、並び立ち、共に道を歩めるような者が現れれば良いと、思う。
「大丈夫だよ。きっと現れる。ライオネルは、とても良い男だもの。」
「良い男なのは知ってるわ、私の可愛い弟だもの。だけど顔だけ見る女は駄目よ、認めないわ。」
「ナーディアは難しいなぁ。ライオネルにそういう相手が現れたら、値踏みにでも行きそうだね?」
苦笑したゴーセルの言葉に、涙の跡の残る顔を上げ、ナーディアは瞳を輝かせた。妻が発するだろう言葉を予想して、ゴーセルは仕方が無いなと微笑んだ。
「君が行くなら、僕も行こうかなぁ。夫婦は離れてはいけないよね!」
「そんな事言って、あんたは仕事から逃げ出したいだけでしょう?」
「そんな事ないよ!失礼だなぁ!」
わざとらしく唇を尖らせたゴーセルを見て、ナーディアは小さく噴き出して笑う。それを優しく見守って、ナーディアの頭を抱き寄せ、ゴーセルは茶色の髪を撫でる。
「そろそろ僕らも次の段階に進んでも良いと思うんだけど?」
ゴーセルの言葉に、ナーディアの耳が赤く染まった。顔を上げないまま、ナーディアはツンケンした声を出す。
「そもそもおバカゴーセルの所為じゃない!毒石なんて愛でちゃって、毒を抜くのにここまで時間が掛かったんだからね!」
「わかってるよー、だけど治療はおしまいでしょ?だから、ね、ナーディア?」
にこりと笑んで、妻の赤い耳に唇を寄せた。
「僕と君の大切な宝物を、作ろう?」
「ま、まぁ、作ってやらない事もないわ!ゴーセルはきっとバカみたいに良い父親になりそうだしね!」
「君だって、良い母になるよ、ナーディア。」
「当たり前じゃない!私は昔から心に決めてるのよ!自分の子供には、たくさん愛を注いで、幸せを教えてあげるんだから!」
「うん。僕らの子が生きる世界は、平和が当たり前だと思えるようにしようね?」
「勿論よ!でなければ、ライオネルが頑張ってる意味が無いんだから!」
本の散らばる部屋の中、鉱山の王国グラインの、王と王妃の影が優しく重なった。




