影という名の男
ライが城を去った翌日も、ヴィーはいつも通りの朝を迎えた。ガンの腰が完治した為に少し前から仕事はアーシャの店のみになっていて、あまり早く起きてもやる事が無い。一昨日までは、空いた朝の時間はライと過ごしていたのだ。二人で街を歩いたり、ただ座って話をしたり。だけれどもう、ライはヴィーの手が届く場所にはいない。それを考えると、鼻の奥に涙の気配を感じてしまう。昨日は泣かずにいられたというのに、溢れ出しそうな涙をぐっと堪えて立ち上がった。
いつもの服に着替えようとして、思い直したヴィーは女物の服に手を伸ばした。食堂で働いても良さそうなシンプルな濃紺のワンピース。髪は梳かして編み込んで、ライの赤紫のリボンを結ぶ。靴も服に合わせた歩き易い踝までの茶色のブーツを履いて、鏡の中の自分を確認した。
「女だ…」
しみじみと呟いて、苦笑する。女物の服で腰に剣は止めるべきだろうかと考えて、マントを羽織れば良いかと結局体に馴染んだ剣帯を腰に巻いた。
朝食を食べてから剣を腰に差し夜色マントを羽織る。窓を開けてみて、"鳥"の監視が無くなっている事に気が付いた。風に聞いてみてもやはり"鳥"はいない。本当にライがヴィーを連れ去る事を警戒していたのかと考えて、可笑しくなる。一人小さく笑ってみて、連れ攫われたかったな、などと思ってしまう自分に呆れて溜息を吐く。時間もある事だし気分転換にいつもと違う事をしてみようと決めて、窓を閉めて扉へと向かった。
まだ朝早い為に廊下は静かだ。擦れ違う人々は町娘の服を着たヴィーを訝しみ、シルヴィア王女だと気が付いて目を見開く。普通に廊下を通って外へと出て、通用口に向かった。これで少しは時間が稼げたはずだ。
「おはよう。」
「おはようございます。どうかされましたか?」
顔馴染みの騎士が女の服を着たヴィーを見て首を傾げる。気分転換だと告げて、ヴィーは通用口警護の騎士達の前でくるりと回って見せびらかしてみる。
「可愛いと思うか?」
首を傾げて聞いてみると騎士達の顔が赤く染まり、一斉に褒められた。だけれどヴィーは、やっぱりライじゃないと嬉しく無いなと考えてフードを被る。騎士達には礼を告げて通用口を通って外に出て、ふっと息を吐き出した。護衛の騎士も、撒かれる労力が無駄だともう付かなくなっている。本当に自由だなとライと顔を見合わせて笑ったのはつい最近の事だ。なんでもかんでもライの事を考えてしまって、迎えが来るまで耐えられるのかと不安になる。
とぼとぼと歩いて向かったアーシャの店の扉を開けて中に入ると、ヴィーは驚き剣に手を添えた。
中には、アーシャと共に男が一人いた。ぼんやりしていたとはいえ、店の中にアーシャ以外の気配は感じなかったのだ。それなのにそこに存在する男。
「あぁ、ヴィー、おはようさん。」
「アーシャ、その男は?」
眉間に皺を寄せて問い掛ける。念の為、いつでも剣を抜けるように柄に手を添えたまま。
「あぁ、なんか住み込みで雇ってくれって言うんだよ。しかも、なんだか…」
飲み込まれたアーシャの言葉をヴィーは自分の目で確かめて理解した。男は似ているのだ、ヴィーの愛する男に。
「こんにちは、我が主の唯一。私はオンブル。主の命により、貴女のお側に仕えます。」
ライと同じ金茶色の肩までの髪を黒い紐で縛り、ライと同じ碧い瞳の男は右掌を胸に当てて腰を折り曲げ微笑んだ。彼の見た目と名前で、ヴィーは合点がいく。
「名が"影"とはな。本名か?」
「私は主の影。自らそう名乗っております。しかし私を付けるとは、主は余程貴女を大切にされたいようだ。」
仮面のような笑顔を浮かべて話す男を観察する。自らを影というこの男の主とは、間違いなくライだ。
「それで、住み込みで働くとはなんだ?」
「こちらは一室空いているようですし、貴女は毎日こちらに通ってらっしゃる。ならば住み込みで雇って頂けたら私としても楽なのです。」
柔和な表情で告げる男の声もまた、ライに似ている。だけれど違う。ライの方が優しい甘さのある声をしている。それに見た目も、似てはいるが全く同じではない。戦場で、王太子の鎧を纏っていればそう見える程度だ。
「色々聞きたい事はあるが仕事をしよう。アーシャ、とりあえず決めるのは話を聞いてからにしたらどうだ?」
「まぁ別に私はなんでも構わないんだけどね。ライが寄越したんなら悪い奴じゃないだろ。」
「では早速お手伝い致しましょう。」
ヴィーがマントを脱ごうとするのをオンブルは当然の様に手伝い、丁寧に畳んでからいつもヴィーが置いている場所にマントを置く。外した剣と剣帯もヴィーの手から取って定位置へと片付けた。"仕える"とは本当に言葉の通りなのかと眉根を寄せて、だけれど黙って、ヴィーは髪を布で覆い隠す。アーシャは既に厨房へ引っ込み、ヴィーはまず店内の掃除から始めようと掃除道具を取りに向かおうとして、オンブルが素早く動いて手渡された。にこりと微笑む彼を見上げて、ヴィーは苦笑する。
「ライは、どうして私に貴方を?」
気が利く影に手伝われながら店の掃除を進めつつ聞いてみた。影とは、常に主の側にいるのではないかと思ったから。
「アズールは主以外を守る事を嫌います。だから私なのです。」
「だが貴方は、ライオネルであり赤騎士だろう?」
掃き掃除をするヴィーの後に付いて、テーブルの上に上げられた椅子を下ろしていたオンブルは動きを止めにこりと笑んだ。
「やはり素晴らしい耳だ。利用すれば良いと進言したのですがね。」
ふと、彼は優しい顔になった。仮面の奥から現れた、恐らくこれは彼の本当の表情だとヴィーには感じられた。
「影の役割は終わったのですよ。バークリンの赤騎士はもう、名だけ残れば良い。」
赤騎士は戦場を駆ける死神だった。常に先鋒となり、戦場の最前線にいた。将としてではなく、一兵士として。馬上から長槍で敵の歩兵を薙ぎ払い、彼が通った後には屍の転がる道が出来る。全身に返り血を浴びた彼はいつしか赤騎士と呼ばれ、恐れられるようになっていた。赤騎士のいる戦場では、どんな策を弄しても気付けば崩されているのだ。
赤騎士の正体を知っているのは極一部の者だけ。そして後方で王太子に扮していたのが影だというのは、腹心しか知らない事実。王太子からの指示は常に混戦する最前線で出され、彼に付き従う梟達が戦場を駆け格将へと伝えていた。
「齢十三で鬼となった男が恋をするとは、見ていて楽しかったですね。」
ふふっと小さく笑うオンブルは本当に楽しそうだ。
店内の掃除を終えたヴィーは厨房へと向かう。気配の無い男はその後ろに付き従い、アーシャは入って来た二人を見て苦く笑った。
「なんだか変な光景だね。」
「私も変な感じだ。」
肩を竦めて答えて、ヴィーはアーシャから受け取った大量の野菜の皮を剥く。オンブルも手を伸ばして、慣れた手つきで次々と皮を剥いていく。その動きは素早く丁寧で、剥かれた皮は薄く、ヴィーよりも上手かった。
「へー、上手いもんだ。で、うちに住みたいんだったかい?」
「はい。こちらでの手伝いを家賃替わりにして頂きたいのですが、いかがでしょう?」
「良いよ。しばらくライに手伝ってもらってたからねぇ、男手の便利さって物に気付いちまった。」
あっはっはと腹から声を出してアーシャが笑い、オンブルはよろしくお願いしますと頭を下げた。ヴィーは眉間に皺を寄せ、不機嫌な様子で皮を剥き続けている。
「なんだいヴィー、ご不満かい?」
アーシャに問われ、ヴィーは首を横に振る。だがその表情は、明らかに不満を表していた。
「私の存在が不満ですか?」
笑みを浮かべたオンブルの言葉に、ヴィーは小さな溜息を零す。そして、唇を少し尖らせた。
「こんな、影になれる程似た奴でなくとも良くないか?」
益々寂しくなるではないか、という言葉は飲み込んだ。歩き方も笑い方も同じで、彼からはライを感じてしまう。だけれどそこにいるのは本人ではない。だからこそ、彼の不在が胸に重たくのしかかる。
「それは仕方がありません。夜の鳥達は主の為に動きますが、貴女に好意的な者ばかりではないのです。」
「貴方はどうなんだ?」
オンブルも"梟"だろうと思い問い掛けると、彼は穏やかに微笑んだ。
「私は彼を可愛い弟のように思っています。アズールよりも付き合いが長いのですよ。」
梟達は皆、拾われた者たちなのだとオンブルは言う。オンブルもその一人で、ライの側で育った。だからこそ家族同然で、ライの分身のような存在なのだ。ライの望む事を察するのが特技なのだと話すオンブルは、優しい兄の顔をしている。
「そんな事、こんな所で話しても良いのか?」
アーシャもいる食堂の厨房で、梟の事と自分の生い立ちを話していて良いのかとヴィーが呆れた顔をすると、オンブルは笑みを浮かべて頷いた。
「これを知ったからと、誰かが何かに利用出来るとは思いません。既に事は為された。」
「まぁ、そうだな。」
呟いたヴィーは口を閉じて手を動かす。オンブルは機嫌良く微笑み、ヴィーは不機嫌にむっつりと黙り込み、アーシャはそんな二人を見て肩を竦めて、食堂の厨房では昼の仕込みが行われたのだった。




