看板娘3
仕込みを終え、日が暮れ始める頃に再び店を開ける。ぽつぽつと仕事終わりの男達がやって来て、夕飯と共に酒を飲む。昼は女性も多く来るが、夜は働き盛りの男達の来店が多い。酒も入る為にヴィーが心配だと、夜はライも客として店に通っていた。だが仕込みを手伝った今日は、そのまま店員としての仕事も興味があると働き始めてしまった。それを見たアーシャが、本当に変わった王子様だねと苦笑したのは言うまでも無い。
「ライじゃねぇか!こんな所で何をしてんだ?」
店に入って来たのは短く刈った白髪頭の男。碧い瞳を見開いて、ライを見て驚いたのは八百屋のガンだ。痛めた腰はほぼ治り、酒と食事を取る為にやって来たらしい。
「手伝いです。ガンは食事ですか?」
「酒もな。麦酒と焼き魚をくれ。」
「まだ完治した訳ではないのですから、あまりたくさんは飲まないようにして下さいね。」
「わぁってるって!それよりヴィーはどうした?お前らいつも一緒にいんだろ?」
ガンの言葉に、ライは笑顔を浮かべたままでそんなにしょっちゅう一緒にいる訳ではないと告げて、アーシャに注文を通しに行く。当のヴィーはというと、何食わぬ顔で仕事をしていた。ガンは夜色マントのフードを深く被ったヴィーしか知らない。しかもヴィーを男だと思ったままなのだ。女だと思われたら重たい野菜を運ばせている事を気に病まれそうで、ヴィーはそのままにしている。
目配せでガンのいる範囲はライが担当する事にして、二人は店内を動き回る。こうして働く二人が王族だなどと、客の誰も思わないだろう。
ガンはライからの言い付けを守り、麦酒一杯だけ飲んで帰って行った。八百屋の朝は早いのだ。あまり深酒は出来ない。
店の扉が開き、いらっしゃいと二人が顔を向けると、マントのフードを被った三人とルアナが入って来た所だった。ルアナは厨房のアーシャの下へと向かい、ヴィーは店の端の席へと三人を案内する。
「早速来たのか?」
三人の中でも小柄な女性へと話し掛けると、彼女はフードを外して頷いた。緑の瞳の彼女は町娘の服を着ていて、いつも綺麗に結われている金茶の髪は右耳の下辺りで緩く纏められている。
「兄上と、あの後どうなりましたの?」
体を寄せて来て小声で尋ねたレミノアの言葉で、ヴィーの顔は真っ赤に染まった。レミノアが指す"あの後"に起こった出来事をまざまざと思い出してしまったのだ。感触まで蘇り、触れられた耳と首筋がくすぐったく感じて手で覆う。その様子を見たレミノアはにんまりと笑い、満足気に頷いた。
「なんだ?何故内緒話でヴィアは赤くなっているのだ?」
「おおよそ想像は付きます。あそこの彼に何をされたんだか。」
レミノアの隣に腰掛けたシルヴァンが首を傾げ、シルヴァンの向かい側ではデュナスが呆れたような声を出す。すっかり気が動転してしまったヴィーは注文を取るのも忘れてその場を逃げ出した。
「ら、ライ、あいつらはお前に任せる。私は今、無理だ。」
服の裾を引かれ振り向いたライは、真っ赤なヴィーを見てとろりと微笑んで頷く。赤く熟れた顔と潤んだ瞳に悪戯心が湧き、ライはヴィーの剥き出しの耳へと口を近付け、ふっと息を吹き掛けた。
「ひあっ!」
「真っ赤になって、何を言われたんですか?」
がくりと落ちたヴィーの体を抱きとめてライは笑う。その笑みは、酷く楽しそうだ。
「な、ななな何を、いや、はたらかなくては、は、離せ、私は行く。」
狼狽え過ぎて混乱の極みに陥ったヴィーはライを突き飛ばして逃げ出した。それを見ていた客達は指笛を鳴らして囃し立てる。中には淡い想いをヴィーへと寄せ掛けていた客もいて、共に飲んでいた仲間に肩を叩かれ慰められている光景も見られた。
「お前は、こんな所で我が姉に何をしてくれているんだ?」
注文を取ろうとライが三人のいるテーブルへ近付くと、フードの奥から怒ったような呆れたようなシルヴァンの声が聞こえ、ライは悪びれなく微笑む。
「虫除けです。女性の服装になってしまい、ヴィーを狙う虫が湧き始めたのでね。」
「兄上がこんなに情熱的だったなんて、わたくしは存じ上げませんでしたわ!彼女もなんてお可愛らしいのかしら!まるで照れたヴァン様のようですわ!流石そっくりです!」
「俺はあそこまで狼狽えたりせんぞ。」
「あら、では期待しておりますわ。」
「何をだ?」
「わたくし、あのように抱きとめて頂くのも憧れておりますの。」
「そ、そうか…」
ぽっと頬を染めて微笑むレミノアと、フードの中で赤い顔をしているだろうシルヴァン。甘酸っぱい空気を醸し出した二人は放置して、デュナスが適当に注文をする。それを受けて、ライは厨房へと向かった。
厨房では、ルアナがアーシャと話をしながら料理の手伝いをしていた。トリルラン公爵の屋敷の様子や、トリルラン公爵の人となりなど、話は尽きないようだ。
「トリルラン公爵がね、マッカスと名前で呼んで良いって言うの。デュナスは本人が許可したなら構わないって言うんだけど、そんなに親しく呼んでも良いのかしら?」
「良いんじゃないかい?むしろ許可をもらっておいて頑なにトリルラン公爵だなんて呼ぶ方が失礼じゃないかね。」
「そうかしら?じゃあ、マッカスと呼ぶわ。マッカスはね、おじいちゃんなんだけどまだまだ若々しいのよ!とても立派な方なのに、私にも優しくしてくれるの!」
「上手くやってるみたいだね。安心したよ。」
優しく笑ったアーシャに注文を通して、ライは再び厨房を後にする。空いた器を持って戻って来たヴィーと擦れ違ったが、警戒するように、赤い顔で彼女は大回りをしてライを避けた。
ルアナはしばらく厨房で手伝いをしていたが、中々戻らないルアナの様子を見にデュナスが厨房へ顔を出し、どうせならと椅子を運び込んで邪魔にならない場所に腰掛けそこで二人は食事を取る事にした。デュナス曰く、若い二人の甘酸っぱい空気を前に酒と食事は楽しめないそうだ。
厨房では、仕事の手を動かしながら交わされる母娘の会話をデュナスが優しく見守りながら時折参加をして話に花を咲かせ、騒々しい店内の端の席ではフードを目深に被った王と未来の王妃がアーシャの料理に感動しながら舌鼓を打つ。なんとも平和な光景だなと、ヴィーの心はほっこり温まる。
「平和とは、このような光景の事を言うのでしょうね。」
店の中も落ち着いて一息ついたヴィーが店内を穏やかな表情で眺めていたライへ近付くと、彼はぽつりと零すように呟いた。
「だろうな。私はいろんな国を旅して周ったが、ここほど平和を感じる場所は無かったな。」
「やはり、彼は適任でした。」
「それは本人には言うなよ?流石に怒り狂うかもしれん。」
「言いません。貴女にだからですよ。……貴女の父君は…」
「大丈夫。誤算だったんだろう?」
「どれだけ計略を巡らそうと、人の感情は難しい。特に恋や愛というものは、全てを狂わす力があります。」
「だが私は素晴らしいものだとも思うよ。貴方を想う時、私は幸せに包まれる。」
「私もです。たとえ遠く距離が離れようと、いつでも貴女を想います。」
「このまま、この時が続いて欲しいんだがな。」
「そうですね…」
ライの呟きを最後に、どちらからともなく伸ばした手を繋いで寄り添い合う。目の前では客達が酒を飲んで笑い、恋人達は愛を語らっている。幸せで、平和という言葉が似合う店内の様子を、二人は穏やかに微笑んで眺めていた。
最後の客が帰り、看板を仕舞う。店内にはヴィーの家族達が全員で店の後片付けを手伝っていた。邪魔なマントを外したデュナスが机の上の皿を纏め、ライがそれを厨房へと運ぶ。厨房ではルアナとアーシャで洗い物などの後片付けをしている。シルヴァンとレミノアは、皿が無くなった机の上を楽しそうに拭き上げていた。
「イルネスの王族は変わり者だねぇ?あぁ、バークリンのお姫さんと王子もいたか。」
厨房から顔を出したアーシャは肩を竦めて呟いた。アーシャが知っているバークリンの貴族は、貴族らしい者達だった。傲慢で、貴族以外はゴミだとでも思っているような、金を運ぶ道具としか思っていないような者達ばかり。彼らの屋敷を維持しているのはゴミと見下している人々で、そんな人々がいなければその地位など意味が無い者だと気付いてもいない。アーシャがバークリンを離れて二十五年。それだけの時が経てば色々と変わるのかね、とアーシャは微笑んだ。そんなアーシャに、ライが近付いて話し掛ける。
「アーシャ、貴女には一度、謝罪をしたいと思っていました。」
「なんだい?あんたが何を謝るんだい?」
「貴女を傷付けた者の振る舞いをです。」
「何を言ってるんだい、あんたが生まれる前の話だろう?最近よく聞くよ、あそこの国は変わって来てるって。頑張んな、王子様!」
「ここのような国に出来ればと思っています。」
「それは良い心掛けだ。あそこにいるうちの王様、民にとったら最高だからね!」
「はい。私もそう思います。」
店の片付けを全て終え、ルアナとヴィーが戸締りはしっかりとするようにとアーシャへ言い含める。苦笑したアーシャが頷いて、六人は手を振って店を後にした。
護衛無しでやって来た彼らは、ランプの温かな灯りに照らされた道を歩く。デュナスはルアナをトリルラン公爵家に送る為途中で別れ、王族四人で連れ立って城へと帰る。帰り道の話題はアーシャの料理の事。城の料理人の作る食事は繊細でとても美味しいが、それとは違い、アーシャの料理はほっとする味だとレミノアとシルヴァンはべた褒めする。余程気に入った様子で、また二人で行こうと約束を交わしていた。
「マーナの料理も、ほっとする味だったな。」
「そうだな。俺はあの味で育ったから、アーシャの料理はとても気に入った。」
「マーナが作るのはエルランの料理で、アーシャが作るのとは違うのになんだか似ている気がするんだ。」
「あら!それは母の味という物ではなくて?わたくし達の母の味は、素材その物の豪快なお味でしたわね、兄上?」
「自分で獲った鳥やうさぎを捌いて、塩だけで煮る物でしたからね。」
「でも野草で臭み消しがされていて、癖になる味でしたわ。」
「お前達の母は王妃だろう?一体どんな御仁だ?」
「シルヴィア様のような方です。」
「ヴィーに似ていますね。」
兄妹が同時に出した答えに、シルヴァンはフードの中で顔を顰める。そして無言で想像する。シルヴァンはバークリン王妃には会った事が無い。休戦協定締結は、王太子のライオネルとバークリンの将軍が同席して結ばれた。あまり詳しい噂が流れて来ないバークリン王妃ルミナリエは謎の多い人物で、だが、戦をしたがる王を上手く御している様子から優秀な女性のようだという印象はある。
「私の姑となるのだろう?上手くやれるかな?」
「大丈夫ですわ!母上はきっと、シルヴィア様を大好きになります!」
「想像すると恐ろしいですね。」
くすくすと声を出して笑う兄妹にシルヴァンは不機嫌な声を出して抗議する。
「まだやらん。だから、そんな心配をするな。」
不機嫌になったシルヴァンの様子に、ヴィーも加わって三人が笑った。
「お前の式は一年後だろう?デュナスはその半年後、楽しみだな。」
未来を楽しみだと思えるのは良い事だなと、二組の恋人達は温かな笑い声を上げ、寄り添い合って歩いていた。




