看板娘
旨い飯を食えると商業区で働く人々に人気の店、食堂ルアナ。長年母娘二人で切り盛りしていた店だったが、一人娘が結婚準備をすると家を出た為に新しく人を雇った。すらりと背が高く印象的な赤紫の瞳の持ち主で、布で覆われている為髪の色はわからないがとても美しい女性だ。
「ヴィーちゃん、こっちは肉煮込みね!」
「わかった。今日はガンの店で良い野菜を仕入れたんだ。サラダは?」
「おう!ならサラダも!」
「アーシャ!サラダと肉煮込みだ!」
「あいよー」
彼女が働き始めてから客に若い男が増えたのは、気の所為では無いだろう。
昼時の忙しい時間帯、女の力では普通は持てないだろう量の皿を一気に運ぶ彼女の姿は、食堂ルアナの名物となり始めている。
「ヴィー、今度一緒に買い物でも行かない?」
「買い物か…楽しそうだが、難しいな。」
男のような話し方をするヴィーは客の女達ともすぐに打ち解け、優しく紳士的な様子から男だったら惚れるとまで言われていた。
昼の営業時間が終わり、看板を準備中へと変えに出て来るヴィーを数人の男が待ち伏せていた。夜の営業までの合間にお茶でもどうかと誘う為だ。だが声を掛けようとした男達は、一人の男の登場で踏み出した足を止める。
「終わりですか?」
「あぁ、早いな?」
「私の愛しい女に悪い虫が付かないよう、予防しに参りました。」
「意外と嫉妬深いんだな。」
「貴女にだけですよ、ヴィー。」
優しく微笑むその男は、金茶の髪を赤紫のリボンで結っている。チラリと見えた瞳は碧。まるで貴族のようにヴィーの手を取って指先に口付ける。それを受けたヴィーの顔は、嬉しそうに綻んでいた。
恋人がいたのかと、彼らはがくりと肩を落とす。そんな彼らに、ヴィーの背を押して中へと誘導したその男が視線を向けて微笑んだ。だが目が笑っておらず、ぞくりとした恐怖を感じる。逃げ出した彼らを笑顔で見送った男は、ヴィーに続いて店の中へと姿を消した。
「また来たのかい、あんた。王族がこんなにふらふらしてるもんだとは、私は知らなかったよ。」
ヴィーがアーシャの店で働くようになって五日が経った。その間ライはヴィーを迎えに必ず姿を現しているのだ。ヴィーが王女シルヴィアだと知っているアーシャには、彼はバークリンの王太子だと紹介した。感覚が麻痺したのか、アーシャはそうかい、とだけ言って受け入れたのだった。
「昼は食べたのかい?まだなら一緒にどうだい?」
「ありがとうございます、頂きます。」
ちょっと待ってなと奥へと引っ込んだアーシャを見送って、ライはヴィーが店の中の片付けをするのを手伝う。
デュナスとの結婚が決まった十日後、ルアナはトリルラン公爵家の養女となった。今は貴族の作法をトリルランの屋敷で暮らしながら学んでいる最中だ。アーシャと店の事が心配だからと家を出る事を渋ったルアナに、ヴィーが任せておけと告げて無償で店の手伝いをする事を決めた。ガンの店での配達の仕事はまだ続けていて、その後で食堂に来て働いているのだ。
「王女の癖に働き者で本当助かるよ。料理は男らしいけどね。」
てきぱきと昼の時間で荒れた店の中を片付けるヴィーを見たアーシャが微笑む。それを聞いて、ヴィーは苦笑した。
「野戦料理しか知らないんだ。これから覚えるよ。」
「まぁ、豪快だけど味は良いんだよね。」
「ヴィーの手料理、私も食べてみたいです。」
「王子様に食べさせるんだったら私がちゃんとした料理を教えてやるから、それからにしたらどうだい?」
「そうする。私も女だからな、流石にあれは、好いた男に食べさせるのは躊躇う。」
「では、その時が来るのを楽しみにしています。」
片付け終わった店の中で、店で出す料理の残りを机に並べて三人で食べる。この後は休憩をしてから夜の為の仕込みをするのだが、ヴィーは一旦席を外して行く所があった。
「良い物食べさせてもらってるんだろうけどね、良かったらこれ、あの子に渡しておくれ。」
アーシャが差し出したのは掌に収まる紙の包み。中にはルアナが好きなアーシャ手作りの菓子が入っている。
「ルアナもアーシャを恋しがっている。会いに行かないのか?」
「まだ始めたばかりだからね。里心がついたら困るよ。」
「わかった。何か伝える事は?」
「……私は大丈夫だから、頑張りなさいって、伝えておくれ。」
「必ず伝えるよ。」
三人で食べた食事の後片付けをして、ヴィーはライと共に食堂を後にした。ルアナが家を出てまだ五日。寂しがらないようにと、この時間を利用して様子を見に行くのだ。お茶会は、公務が入って忙しいという理由を付けてヴィーの参加は無くなった。アーシャの店の手伝いが無い時には参加するつもりだが、それ以外はレミノアが一人で貴族の女性達と交流をしている。
「ライ、報せと鍵が届いたようだ。」
「貴女の耳は便利ですね。では、そろそろです。」
手を繋いで街の通りを歩きながらヴィーは風から受けた報せを伝えた。それを聞いたライは、にこりと微笑む。
ライアの街からバークリンの王都までは馬を変えながらどんなに急いでも二十日はかかる。それを十五日で駆け抜けたアズールという男はとても優秀なのだなとヴィーは感心した。
ヴィーは、ライがやっている事の全容を知っている訳ではない。風はどこにでもある為になんでも知っているが、ライがやっている事は広範囲に渡っていて把握し切れないのだ。
「私を置いて帰るのか?」
不安になって、ヴィーはライを見上げる。優しく微笑んだライは、ヴィーの頬をそっと撫でた。
「まだ、お連れする事は出来ません。ですが必ず、迎えに来ます。」
頬を撫でる手に触れて、ヴィーは愛しい男の掌へと頬を擦り寄せる。ヴィーの与えられた役割は今の所終わってしまった。鍵探しだって特に頼まれた訳ではなく、ライがヴィーの能力を探る一環だったのだ。そして、ヴィーが動くかを見る為の物でもあった。ヴィーが協力しなくとも梟ならば簡単に見つけて手に入れられた物。だけれどヴィーはライの役に立ちたかった。だから、自分の意志で動いた。食堂ルアナに通ったのはデュナスの為でもあるが、ライの為でもあったのだ。
「クイーンの私は、もう使わないのか?」
「貴女の仕事は、今はありません。敵陣営に辿り着いたポーンがクイーンへと変じ、騎士とビショップで王手をかけます。」
そうか、と呟いて、ヴィーは頷いた。報せは届き、シーリアへの進軍も始まっている。これから何が起こるのかを考えると、ヴィーは怖い。
「これから起こる事は聞かない方が良いかもしれません。風にも動物達にも、聞くのはお止し下さい。」
怯えを感じ取り、ライが優しく囁いた。だけれどヴィーは首を横に振る。
「貴方の全てを知りたいと思うのは、迷惑だろうか?」
「嬉しいですが…私は……いえ。そう仰るのであれば、私が成す全ての事を知って下さい。その上で、私の下へと来るかを考えて下さい。」
立ち止まっていた二人は、ライがヴィーの手を引いて再び道を進む。見上げたライの横顔は、真っ直ぐ先を見据えている。ヴィーは、愛しい男の助けになれない自分が、酷く歯痒かった。
ライとはトリルランの屋敷の前で別れた。町娘の格好をしているヴィーだが、毎日通っていて警護の騎士も屋敷の人間も、彼女がシルヴィアだと知っている。
屋敷の執事に通された部屋にはルアナと、レミノアが共にいた。デュナスの妻となるルアナと王妃となるレミノア、二人が知り合っておいて損は無いと、ヴィーが引き合わせたのだ。
「ご、ご機嫌麗しゅうござ?います。シルヴィア王女殿下。」
ぎこちなく淑女の礼を取ったルアナに、ヴィーは笑顔で頷いた。ルアナの隣ではレミノアが、惜しい、と苦笑を浮かべている。
「ご機嫌麗しゅう存じます、ですわ。」
「ご機嫌麗しゅう存じます、シルヴィア王女殿下。」
「頑張っているな。そんなルアナにアーシャからの贈り物だ。」
レミノアに教えられて挨拶をやり直したルアナへと、ヴィーはアーシャから預かった包みを渡す。途端顔を輝かせて、ルアナは包みを開いた。
「これ母さんの!私大好きなの!一緒に食べよう!」
「あぁ、食べる。レミノア、今日お茶会は?」
「今日はありませんの。それよりシルヴィア様、折角の見事な御髪をそのように隠してしまわれるなんて勿体無いですわ!街では無理でも、こちらではお取り下さいませんか?」
素直に従って、ヴィーは布を取る。長いプラチナブロンドの髪は、ルアナに教わった方法で三つ編みを頭に巻き付けてあるのだ。
「店は慣れた?」
「料理の手伝いはまだまだだが、客は良い人達ばかりだな。」
「うん!母さんの料理に惚れ込んでる人達が来てくれるの。」
ヴィーが持って来た菓子を見て、執事が従僕に指示してお茶の用意を始める。ルアナの手にあったアーシャの菓子はそっと執事が持ち去り、恐らく皿に盛るのだろう。そういった一連の事にまだまだ慣れる事の出来ないルアナは、そわそわと落ち着かない様子だ。
「淑女になるのは大変か?」
三人でソファへと腰掛けて、向かいに座ったルアナに問い掛ける。
「もう、訳がわからない!ヴィーがそんなんだから大丈夫かなとか思ったけど、毎日大混乱だよ!」
「私は王女らしくないからな。子供の頃は母達にたくさん叱られた。」
「ですがシルヴィア様はちゃんとなさればお出来になるでしょう?普段の凛々しい口調も素敵ですが、淑女然としたシルヴィア様もとても素敵ですわ。」
「見たい!お手本としてやって?」
「今か?改めてやるのはなんだか恥ずかしい。」
目の前の二人から期待の眼差しを向けられて、ヴィーは苦笑を浮かべた。ドレスを着たら切り替えられるが、町娘の服では気恥ずかしくて堪らないのだ。困っているとタイミング良く紅茶と菓子が出されて、ヴィーは胸を撫で下ろした。
「このお菓子、とても美味しいわ。ルアナさんのお母様のお料理、わたくしも食べてみたいです。」
「デューが気に入って通ってたんだ、とても美味しいよ。ヴァンと来たらどうだ?」
「行きたいですわ!兄上は良く行っているようですわね?」
「今の所毎日来てる。」
微笑んで頷いたヴィーを見て、ルアナが首を傾げた。どうした、と視線で問い掛けると、ルアナは心配そうにヴィーを見る。
「何かあった?」
「……何故?」
「なんだか、悲しそうに見えたから。」
「そう、見えたか?」
こくりと頷いたルアナを見て、ヴィーは困ったように笑う。顔に出さないように気を付けているのに、上手くいかなかったらしい。
「兄上と何か?」
レミノアにも心配をされて、ヴィーは否定する。
「ただ、勝手に落ち込んでいるだけだ。」
「良かったら聞くよ?」
「そうですわ。兄上はシルヴィア様に何をなさったの?」
どういう風に言うべきか、ヴィーは悩む。今までは、困った事や悩みがあればロイドやビアッカ、バーンズに相談していた。だけれど今は、誰にどうやって相談をしたら良いかがわからなかった。
「ただな、私は思っていた以上にライを好いていて、彼の力になりたいと思うんだ。だけれど彼は、私の助けを必要としていない。それがなんだか…取り残されるようで寂しいというか…よく、わからない。」
恋など、ちゃんとした事が無いのだ。今までは男として、家族を守っていれば良かった。だけれど突然女になってしまって、ヴィーは混乱していたのだ。
「兄上は、シルヴィア様を不要だなんて思っていないと思いますわ。その証拠に毎日会っているのでしょう?兄上が女性に対してそのように熱心に振る舞うのは、わたくしは見た事が無いですわ。」
「私はライって人に会った事が無いけど、男の人って、女にはわからないプライドがあるのよ。だから、好きな女には特に、助けてだなんて言わないのかも。だからね、ヴィーは彼を見ててあげたら良いんじゃないかな?助けてって言われなくても、助けてあげられるように。」
二人の言葉を聞いて、考える。ヴィーの能力を知っても必要としてくれないのは、梟が優秀で必要無いというのもあるだろうが、そういう男のプライドなんて物も関わっているのだろうかと。
「ルアナは、流石一番年上だな。」
わざと茶化すように言って笑うヴィーを、ルアナは優しい微笑を浮かべて見つめる。
「そうよ。頼って良いのよ?ヴィーは義妹でしょう?」
「妹か、姉が出来るのは初めてだな。レミノアも、ありがとう。」
「シルヴィア様はわたくしの義姉上となるんですもの。兄の事で困った事があれば、なんでも相談なさって?」
「結婚とは凄いな、一気に家族が増える。」
三人の義理の姉妹は声を上げて笑い合い、紅茶を楽しみながら、それぞれの相手の話に花を咲かせたのだった。
ポーン…チェスの駒の一つ。歩兵を表し、一マスずつ前にしか進めない。敵陣営の端に辿り着くと、キング以外の駒のどれか一つに昇格する事が出来る。
ビショップ…チェスの駒の一つ。




