食堂の恋3
それはまだアーシャが若い娘だった頃。貧乏でも特別裕福でも無い、バークリンの普通の家庭にアーシャは生まれた。当時、バークリンでは結婚前の若い娘が行儀見習いとして貴族の家で働くのが一般的で、アーシャも年頃となり、貴族の家で働く事となったのだ。その家というのが、キアク公爵家。
仕事は楽しかった。特に問題も無く日々を過ごし、幼馴染との結婚が決まったアーシャは暇乞いをした。上司に告げ、執事に話が通されて、執事から主人の耳へと入る。許しが出ればアーシャは家へと帰り、幼馴染との細やかな幸せを手に入れるはずだったのだ。だがそれは、手に入らなかった。
上司に暇を告げてから数日して、アーシャは何故か主人の部屋へと呼び出された。そこにいたのは、その時既にバークリンの宰相の地位に就いていたキアク公爵家の主人、ガルダ・キアクその人で、十六歳だったアーシャは訳もわからずに怯える事しか出来なかった。二十以上年上のその男は酒に酔っている様子で、唐突に襲い掛かって来て、アーシャは純潔を散らされた。
事が全て終わり、泣きじゃくるアーシャの下へと現れたのは公爵夫人だった。彼女は金の入った包みをアーシャに渡して、表情を変えずに出て行けと告げた。ショックと混乱の中でアーシャは金を受け取って、だが家族を頼れず、結ばれるはずだった幼馴染にも会えないと一人国を出た。
優しい王がいると風の噂で聞いたイルネスへと辿り着き、王都のライアであれば髪や瞳の色の違いも出身国も誰も気にしないだろうと、居着いた。そこで、アーシャは一人、ルアナを産んだのだった。
「ルアナにはね、詳しくは話していない。だけどその首飾りを見られて、父親が貴族だろうって事は勘付いたみたいだ。だから、あの子は貴族だと思ったあんたを拒絶したんだよ。私が傷付くと思って…優しい、おバカな娘だよ…」
声を詰まらせながら全てを話し終え、アーシャは机の上で組んだ自分の両手を見つめる。デュナスは言葉を探していて何も言えず、ヴィーは椅子から立ち上がりアーシャへと歩み寄った。マントの隙間から手を伸ばして、アーシャの頭を両腕で抱えるように抱き締める。
「一人、辛かっただろう。」
強く抱き締めるヴィーの腕の中でじっと目を閉じたアーシャは、違和感に気が付いて顔を上げた。
「あ、あんた、ヴィー、男じゃないのかい?」
素っ頓狂な声を上げたアーシャを首を傾げて見下ろして、ヴィーはあぁ、と呟く。
「そういえば性別はガンにも言っていなかった。隠していた訳ではないが、私は女だ。」
「なんだい、あんた!さっさとお言いよ!驚き過ぎで疲れちまうじゃないか!」
怒鳴られたヴィーはくつくつと喉の奥で笑い、重たい空気が途端に霧散してしまった事に拍子抜けしたデュナスは、溜息を吐き出して苦い笑みを漏らした。
「そんな格好をしているから男だと勘違いされるんです。そろそろ女性の服を着たらどうです?」
「私の話は今は良いだろう。それよりもアーシャ、この首飾りはどうしたんだ?」
右手を振ってデュナスの言葉を流したヴィーは、机の上の首飾りを差して尋ねる。それに対して、アーシャは見たくも無いという風に顔を顰めた。
「そりゃね、金の包みに紛れてたんだよ。高価そうだけど売るのもなんだか怖くてさ、ずっと持ってたんだ。」
「それならこれは不要か?」
「いらないね。本当は持っていたくもないよ。」
アーシャはふんと鼻を鳴らす。デュナスはヴィーの意図が読めず、眉間に皺を寄せて次の言葉を待った。
「売ってくれないか?女の敵の糞爺に罰を下せる知り合いがいるんだ。」
「えぇ?!宰相閣下だよ?そんな人王族以外いないだろうよ?」
驚きの声を上げたアーシャを見て、ヴィーはふむ、と呟いて少し悩んだ。そして徐にフードを外すと微笑みを浮かべる。
「私自身が王族というやつなんだ。それなら信じてくれるか?あれ?アーシャ?」
アーシャは、目玉が零れんばかりに目を見開いて口もぽっかり開いている。それを見たデュナスは、心臓でも止まってしまったのではないかと心配して狼狽えた。
「あの、アーシャ、大丈夫ですか?アーシャ?息をしていますか?」
デュナスとヴィーに目の前で手を振られ、焦った二人の表情を見たアーシャは開けていた口を閉じた。鼻から大きく息を吸い込んで、吐き出す。
「なんだかもう驚き疲れちまったよ。それは持って行って良いよ。金はいらない。そんな物で得た金なんて、気持ち悪くてかなわないよ。」
「わかった。では有難く頂戴する。」
机の上の首飾りを包みの中に戻して、ヴィーは懐に仕舞った。そして空気を入れ替えるように、さて、と呟いた。
「話を脱線させてすまなかった。ルアナ、出て来たらどうだ?」
小さな物音と共に、厨房から現れたルアナに驚いたのはアーシャ一人。ヴィーもデュナスも、初めの頃から彼女が隠れて話を聞いていた事には気が付いていたのだ。
「ルアナ、話は聞いたんだろう?」
「うん。聞いてた。」
厨房の入り口に立ち、ルアナは俯いてスカートをぎゅっと掴む。久しぶりにルアナの姿を見たデュナスは、駆け寄って腕に抱き込みたい衝動をぐっと堪える。
「ルアナ、私はね、あんたが幸せになるならなんだって良いんだよ?」
アーシャが優しい声で、表情で語り掛ける。その声に、ルアナの目からは大粒の涙が零れ落ちて頬を濡らした。
「あ、会いたかったんです。本当は、ずっと、会えなくて悲しかった。デュナス…」
名を呼ばれ、デュナスは立ち上がって駆け寄り、愛しい女を自分の腕に抱く。存在を確かめるかのように何度もルアナの名を呼んで、涙で濡れた頬を両手で包み、緑の瞳を覗き込んだ。
「愛しています、ルアナ。貴女以外は考えられない。どうか、私の妻になって下さいませんか?」
「私も、愛してるの、デュナス…!」
会えなくて寂しくて、会いたくても会えなくて、募った想いは溢れ出し、涙となってルアナの頬を濡らし続ける。それを唇で受け止めて、デュナスは愛を囁いた。信じてくれと、本気なのだと想いを込めて。
そんな二人を見つめるアーシャの瞳は何処までも優しくて、娘の幸せを願う母の顔をしていた。
後は三人で話し合えば良いだろうと、ヴィーはフードを被り、気配を消して食堂を後にする。しばらく適当に街の中を歩いたヴィーは、人気の無い路地でピタリと足を止めた。振り向いた先には、仮面のような笑顔を浮かべたヴィーの愛しい男の姿。
「貴方が欲していた物だ。いるか?」
懐から包みを取り出したヴィーへと歩み寄り、ライは頷いた。差し出されたライの掌へと包みが落とされ、シャラリと金属の擦れる音がする。包みを開いて金の首飾りを確認したライは、ヴィーへと礼を告げた。
「アズール」
ライの呼び掛けに音も無く現れたのは全身を黒で覆われた一人の男。黒い布で顔を隠したその男へと、ライは金の首飾りを渡した。
「これをノインに渡して下さい。イライアスには"摘み取れ"と。時は満ちました。」
「御意」
短く返答した男は、現れた時同様音も無く姿を消した。ヴィーはそれを眺め、感嘆の声を漏らす。気配も音も無く、動きは素早くて常人の目には追えない。凄い人間がいる物だと純粋に驚いた。
「彼は護衛ではないのか?」
首を傾げて見せたヴィーへと微笑み掛け、ライは答える。
「貴女を監視していたのが彼です。護衛はまだ他にいます。」
「そうか。皆気配が無いのだな。……それで?チェックメイトか?」
「えぇ。貴女が聞いた終わりの音。私にも届きました。」
向かい合って微笑んだままのライへとヴィーは歩み寄る。目の前で立ち止まったヴィーのフードをライの手が後ろに落とした。
「貴女の能力の事ですが、推測するに、風とは本当に自然の風で、あとは動物の言葉を聞けるのではないですか?」
そっと耳を撫でられて、ヴィーはくすぐったくて目を細める。そして、碧い瞳を真っ直ぐに見上げて微笑んだ。
「正解だ。」
「他に、隠している事はありますか?」
ライの問い掛けにヴィーは考える様子を見せ、思い付いたと右手の人差し指を立てる。
「聞けるだけではなく、動物とは言葉を交わせるんだ。凄いだろう?」
「凄いと思います。たまに鳥や馬と会話をしていましたね?」
「なんだ、見ていたのか?気配が無いと油断していたらお前達は怖いな。」
「アズールの居場所を確かめていたのは、風の声ですか?」
「そうだ。最初は鳥も教えてくれたが、彼は鳥からも隠れ始めてしまったから風が頼りだったんだ。」
仮面のような笑みを見上げるヴィーは微笑みを浮かべ、楽しそうに瞳が微かに輝いていた。赤紫の瞳をじっと見つめて、ライは小さく息を吐き出す。
「敵であれば怖い力ですね。ですが、探れない事もあるようだ。」
「そうなんだ。風は気まぐれだからな。知りたい事全てがわかる訳じゃない。動物達の言葉は特に、慣れないと解読するのは大変だ。」
「鳥は、口々に囀るので余計に大変そうです。」
ライの手でフードを直され、ヴィーは甘えるようにライへと擦り寄った。
「朝の鳥の声は五月蝿いぞ。皆口々に好き勝手な事を話しているんだからな。」
小さな声でライが笑い、手を繋いだ二人は寄り添い合って、城への帰り道を歩いた。




