新たな日常
朝日が昇り、鳥たちが目を覚ます。窓の外にある木の枝で交わされる小鳥の会話を聞きながらベッドから降りて体を伸ばす。筋肉を解したら着替え部屋へと入り、着慣れた洗いざらしのシャツに黒いスラックス、革製の剣帯を腰に巻いてから夜色のマントを羽織った。
窓辺の机には朝食が用意されていて、それを一人で食べる。本来であれば侍女が起こしに来るのを待ち、あれこれ世話を焼かれながら着替えをして朝食用の部屋で食事を取る物らしいが、ヴィーはそこまで待っていられない。
食事を終えて身支度を整えたら腰の剣帯に剣を差し、窓を開け放って飛び降りる。
地面へ降り立ったヴィーが向かう先は通用口。顔馴染みとなった騎士達に見送られて街へと繰り出すのだ。
「さて、今日はどこまで着いて来られるかな?」
目深に被ったフードの中でニヤリと笑い走り出す。朝の運動がてら、王の諜報部隊でありヴィーの見張り兼護衛役となった"鳥"を訓練と称して撒くのが毎朝の日課なのだ。
いつもいろんな方法で街を駆け抜けて護衛を撒く。デュナスが云うにはヴィーの護衛を任されて以降、"鳥"達は悔しさをバネに訓練に明け暮れるようになったらしい。その成果か、最近では大分長い事ヴィーの後を付いて来られるようになっている。
「おはよう、ガン。」
護衛を完全に撒くとヴィーは商業区の八百屋へと顔を出す。そこで、ちょっとした仕事をもらっているのだ。
「おう、来たか!今日の分はこれだ!頼むな!」
「あぁ。行ってくる。戻るまであまり無理をするなよ?」
「わかってるって!」
八百屋のガンは生誕祭で張り切り過ぎて腰を痛めたらしい。妻には数年前に先立たれ、一人息子は家業は継がないと家を出てしまった為、今では一人で店を切り盛りしているのだ。店舗での販売は問題無いのだが、重い野菜を持って街の宿屋や食堂へ配達する事が出来ないと困っていた。そこで、その配達を引き受けたのがヴィーだった。初めは、すっぽりマントに覆われて黒手袋をした姿のヴィーを警戒したガンだが、幼い頃に火傷を負った事。生誕祭まで護衛として働いていた旅の一座が解散して仕事に困っているのだという話をしたら、涙ぐみながら雇ってくれた。
「ヴィー、いつもありがとね!」
「おはよう、アーシャ。品物を確認してくれ。」
アーシャは街の食堂の女将だ。赤みがかった茶色の髪に緑の瞳をした人の良い女主人。一人娘と二人で食堂を切り盛りしている彼女は客達にも慕われる人情派な性格で、ヴィーの身形にも臆せず接してくれるのだ。
「ヴィー、今朝焼いたパン、良かったらガンさんと食べて?」
アーシャが品物の確認をするのをヴィーが見守っていると、店の奥からアーシャと同じ髪に緑の瞳をした娘が顔を出した。
「ありがとう、ルアナ。今度食堂にも食べに来るよ。」
「毎朝そう言うけど中々来ないじゃない。それで、あの、今朝は…」
ぽっと頬を染めてもじもじとし始めたルアナに、ヴィーは懐から蝋で封をされた手紙を取り出して渡した。
「そろそろ返事をしてやったらどうだ?」
「だ、駄目よ!」
「どうして?」
「だって、釣り合わないもの…」
「そう思っているのは君だけだよ、ルアナ。」
マントの隙間から手を伸ばし、日の当たり方によっては赤毛に見える髪に包まれた頭を黒手袋の手がぽんぽんと撫でる。
赤い涙ぐんだ顔で手紙を胸に抱くルアナに背を向けて、ヴィーはアーシャから代金を受け取って食堂を去る。去り際に、アーシャがヴィーへと耳打ちした。
「本気、なのかい?」
「手紙の送り主が?彼は本気だよ。」
「そうかい。一度、お会い出来るものかね?」
「聞いておこう。」
「頼むよ。あんたも、高貴な方に仕えるのは大変だろうけど頑張るんだよ。」
「ありがとう。彼は良い主人だよ。」
なら良いんだけどねと呟いたアーシャに別れを告げて、ヴィーは八百屋へ戻る道を歩く。
ルアナはデュナスの想い人だ。お忍びで通う内に二人は恋に落ち、プロポーズの際に正体を明かしたデュナスの身分を受け入れられず、ルアナはそれきりデュナスを拒絶している。
初めて八百屋の配達で訪れたヴィーを見たルアナは逃げ出した。デュナスと同じようなマントにフード姿だった為、関係者だとわかったのだ。だけれど食堂の娘を逃がすヴィーではない。彼から手紙を預かったと告げて、押し付けてからその場を離れた。
何度か配達がてら手紙を渡す内に、食堂の母娘にはデュナスに仕えている人間なのだと認識され、マント姿も変装だと思われている。当たらずも遠からずの為に、特に訂正する気はヴィーには無い。
朝一の配達を終えて八百屋へ戻ったヴィーを迎えたのは、痛む腰を摩りながら椅子に腰掛けるガンと、笑顔の男だった。
「ご苦労様です、ヴィー。店の開店準備は終わっていますよ。」
「また来たのか、ライ?まぁガンが無理しなくて助かるよ。」
最近のライの服装は、街に溶け込むような白シャツに茶色のズボンと膝下までのブーツ。その上にヴィーと同じ色のマントを羽織っている。
「ご貴族様は暇なのかねぇ。まぁ俺は助かるんだがな!」
声を上げて豪快に笑うガンの中ではライは貴族の放蕩息子。家の仕事が嫌でしょっちゅう抜け出して、庶民に溶け込むのが好きな変わり者だと思われている。
「ルアナがパンをくれたよ。昼に食べてくれ。」
「おぉ!最近アーシャんとこのルアナはサービス良いな!お前さんに気があるんじゃねぇか?」
「こんな怪しい身形の私をか?有り得ないよ。」
肩を竦めたヴィーの背中をバンバン叩き、ガンは再び豪快に笑う。ヴィーの身形は店番には向かない為に、仕事は店の開店準備までだ。本当は給料はいらないのだが、もらわないと不自然な為にこの日の分の給料を受け取ってヴィーはライと共に店を後にする。ライが手伝う開店準備はヴィーの受け取る給料に含まれていて、二人は友人なのだと思われていた。
「よう!ヴィーと放蕩息子殿じゃねぇか!ガンとこの帰りか?」
ガンの八百屋の周りでは、大分顔馴染みが増えて来た。二人が騎士達から身を隠す様子から訳ありだと認識されていて、彼らは気にせず放っておいてくれるのだ。それもライが貴族の放蕩息子だと思われているが故で、バレたら連れ戻される可哀想な男だと同情されているからだったりもする。
「ルアナ嬢はまだデュナス殿に会おうとしないのですか?」
「まだ駄目みたいだな。だが、アーシャの方が一度会いたいと言っていた。」
「良い話だと良いですね。」
「そうだな。ルアナの様子だと、デューの事を気にしているんだがな。」
「中々難しいようですね。」
「そう考えると、ヴァンとレミノア姫はまだましだな。」
「そうですね。今日はどちらのご令嬢と?」
「あー、なんだったか。伯爵家の娘とその取り巻きだったな。レミノア姫が彼女はヴァンに想いを寄せているから厄介だと言っていた。」
「それなら恐らく、カールトン伯爵家のマリアンヌ嬢ですね。今夜の夜会がそちらの伯爵主催です。」
「昼は娘で夜は父親の相手か。」
「あちらでもこちらでも恋とは、平和な証拠ですね。」
「他人事とは羨ましい。」
「私の出る幕ではないですから。」
「貴方の駒として、私は八方に飛ぶとするよ。」
わざとらしく大きな溜息を吐き出したヴィーを見て、ライは小さな笑みを零す。
「騎士ではなく、貴女は私のクイーンです。」
「ほう。私が動くという事は、チェックメイトはもうすぐか?」
「それは相手の動き次第ですね。」
「では盤を読むのは貴方に任せ、私は私の仕事をしよう。」
フードの中で微笑んだヴィーとにこやかに笑うライは、二人並んで城へ帰る道を歩いた。
生誕祭が終わってから二十日が過ぎたライアの街は、もうすっかり日常を取り戻している。それは城内も同じで、皆元通りの仕事に戻っていた。だがその中にも変化はある。失踪していた王女シルヴィアの存在と、バークリンの王太子と妹姫が遊学の為にと未だイルネスの王城に留まっている事だ。三人の存在は、王城内の多くの人間の日常に変化をもたらしているのだった。
「また護衛を撒かれたそうですね。」
城へ戻ったヴィーは自室に戻り、マーナと三人の侍女の手で昼用のドレスへと着替えさせられている。子供の悪戯を嗜める母親のような表情を浮かべたマーナに視線をやり、悪びれ無くヴィーは頷いた。
「撒かれるのは鍛錬不足だ。」
「そうは仰いましてもシルヴィア様、何かがあってからでは遅いのですよ?」
「大丈夫だよ、マーナ。それよりもそろそろデューが来る。人払いを頼む。」
「何をお考えなのかわからなくなったのは、デュナスもシルヴィア様も大人になられたからなのでしょうね。」
小さな溜息を零してからマーナは侍女達に指示を出し、化粧道具やヴィーが着ていた服を持って部屋を出て行く。それからすぐ、入れ替わるようにデュナスが部屋へと入って来た。
「今母上に睨まれたのですが、ヴィア、何か言いましたか?」
居間の長椅子に腰掛けたヴィーを見下ろすデュナスの眉間には、皺が寄っている。
「何も言われないのが不満なんだよ。私が護衛を撒くのも不満らしい。」
「それは貴女が素直に守られれば良い話ではないですか。」
「撒いた後で私が向かう先を知っているお前が"鳥"に居場所を教えないのは、不都合があるからだと思っていたが?」
「それは…そうですね。」
力を抜くように息を吐き出して、デュナスはヴィーの向かいの椅子へと腰を下ろした。肘置きに寄り掛かり、ヴィーはデュナスへと微笑み掛ける。
「アーシャがお前に会いたいと言っているが、どうする?」
「どういう意図でしょうか?」
「さぁな。お前のルアナへの想いが本気なのかを気にしていたよ。」
「あまり良い予感はしませんが、少しでも現状が変わる事を願って会います。」
「では明日、伝えよう。」
時間や場所については相手の指定でという事で話を纏め、デュナスは椅子から立ち上がる。扉へと数歩進んでから立ち止まり、長椅子に腰掛けたままのヴィーへと振り向いた。
「彼女は…いえ、なんでもありません。」
言いかけてやめて、そのまま扉へ踵を返そうとしたデュナスの背中にヴィーは声を掛ける。
「手紙を受け取る彼女は嬉しそうだ。それとそこの包み、ルアナが焼いたパン、持って行け。」
「……ありがとうございます。」
厳しかったデュナスの表情が安堵したようにふっと緩む。棚の上に置かれた包みを手に取って扉の向こうへと消える背中をヴィーは優しい眼差しで見送った。
ナイト…チェスの駒の一つ。敵味方を飛び越えて、八方に跳ぶ動きが出来る。
クイーン…チェスの駒の一つ。強い。




