ぱくっ
『及川くん、もうそろ2年目ですね。何が欲しいですか?』
下校途中、彼女が言った。2年、というのは中2の秋から付き合い始めた僕らの交際期間であった。もう、そんなにも月日が経ったのか、とぼんやり考える。
『特に何も』
『それじゃあ、つまらないですよ。何かないんですか?』
ぷくぅ、と頬を膨らませて彼女はリュックサックの肩紐を握りしめた。セーラー服にリュックサックという彼女のその微動だにしない
こだわりは、恐らくルリルタンの登校時の格好と似ているところがあるからだろう。
まあ、この状況と彼女のリュックサックへの愛情は一ミリも関係ないが。
『田村さんがいるから、必要ないです…よ……』
気がついた。自分がどれだけ恥ずかしいことを、道路の真ん中で言っているのか。
いや、田村さん。君が欲しいよ。とか、血ヘドを吐きそうになるような言葉は言うつもりも、そんな深意を含めたつもりもない……が、彼女が歩くたびにゆらゆら見え隠れする彼女の頬は、僕の見間違いではない赤さを主張している。
僕の前ではお喋りな彼女もだんまりではないか。お願いですから、何でも良いので話して下さい。と、無情にも願う。
『お、及川くんは変わりました……』
それは、田村さんの方が。なんて、変わったことへの擦り合いはしない。
『前は、そんな甘いこと言わなかったのに。そんな恥ずかしいことを、公共の場で言うような人じゃなかったのに』
ん。喉が詰まる。
僕の記憶の中では、高校入って初めてのデート(ショップめぐり)で欲に任せて公共の場でキスした事実が残っているのだが、それは彼女の中ではないことになっているのだろうか? だとしたら、結構、傷つく。
『嫌、ですか?』
『んな訳ないの分かっているのに、言わないで下さいぃー……』
彼女の有り得ないことと僕のそれは違っていて、どうやら僕は悪いことにばかりその思考を働かせているようだ。
照れているのか、顔を両手で覆った彼女はぶんぶん身体を振る。すると、彼女のリュックの中身ががしょんがしょんと音を立てた。
それを見て、やはり女子高生はスクールバックよりもリュックサックだよね。なんて思っている僕は変態かそれ以下だろう。
『じゃあ、嬉しいんですか?』
『そ、そういう質問は受け付けない主義なんで』
彼女は手をぶんぶん振ったかと思うと、僕の歩く数歩前まで走った。小動物が驚いた時にパタパタパタと、駆けていく。その様子が思い出される彼女の行動に思わず笑った。
ああ、可愛い。Sっ気のないはずなのに、彼女の慌てる様子がこんなにも心を擽るのは彼女が僕の彼女なのか。それとも……?
『私にこんな質問をする及川くんだって、私に甘い言葉囁かれたらきっと私みたいに照れると思いますよ』
そうかな? 僕だったら、怖い位に一人冷静になって彼女が僕に好きと言う理由。格好いいと嘯く後ろめたさ。隠された真実を妄想しては、どんどん暗い思考回路に落ちていくと思う。
これが、純粋な彼女と僕の違い。というやつか。彼女は僕みたいな男を食べたいなんて思うことはないだろう。僕は、彼女を食べてしまいたいと思ったことがあるのに。あの時と、あの時と。
彼女に言えない。この想いも、この感情も何もかも。
だから、僕は彼女にバレないように必死に自分を取り繕った。僕はただの男子高校生。少し地味だけど、誰よりも田村さんを好きな一人の人間。言い聞かせるように唱えれば、自分に身に付けばと思って。
『照れますかねー?』
意地悪く、誘うように彼女に問いかければ僕を見ていた彼女は目線を伏せ口をもにょもにょさせる。僕に言いたいことがあるが口に出せない、彼女の仕草から読める思考回路はそんなところであろう。
『……及川くんのこと、すっ、すっ……』
『す? 田村さんは酢を飲みたいんですか?』
分かっている。彼女が僕を赤くさせようと好きと言おうとしてることも、好きと言えないことも。だからこそ敢えて、変な問いかけをする。
彼女は僕を照れさせるという目標を忘れたのか、自分の方が顔を赤くさせている。その姿が嬉しい。僕がそうさせているのだから、尚更。
暫く彼女は『す、す、』と格闘して負けたのか、僕に当たってきた。
『及川くんは意地悪です』
『それで照れたら、僕は相当の変態じゃないですか』
『い、今はそれと違いますっ……私が言えないのを知っててわざと泳がせてますね?』
『? 何がです?』
勿論、そうですよ。田村さんをからかうのはとても楽しいですからね。と、言わずに。頭を抱えて悩む彼女を微笑みながら眺めていた。
『うう~』
『もうそろ、いつもの交差点ですよ』
僕と彼女の家はある交差点で右と左に別れるから、僕らはいつもその交差点まで一緒に帰っているのだ。だから、彼女を急かすためにその言葉を言ったのだが。
『いえ! 今日は及川くんを恥ずかしくさせるまで、帰らせませんから!!』
と、訳の分からないことを言って再度自分の世界に戻って行った。ん、ちっと待て。
『それって、どういう意味ですか?』
『私の家に来てもらう、という意味ですよ? 今日、何か用事ありますか?』
僕が質問したのに、質問で返ってくるのは彼女の癖だ。
『いえ、特にないですけど』
それならよし、と彼女は手を叩いた。
『じゃあ! 決まりですね! ……今夜の晩御飯、何にしよう』
ボソリ、と呟いた彼女の言葉に思わず苦笑が漏れる。彼女は晩御飯の時間になるまで、僕が照れるような言葉を言えないだろうと自覚しているのだ。
『田村さんが晩御飯作ってるんですか?』
『ええ、はい。作るって言っても自分しか食べないので、簡単なのばかりですけど』
両親がいないという意味なのか、それとも滅多に帰らない無責任な親がいるという意味なのか分からないが、触れずらいので曖昧に『楽しみだなぁ』と呟いた。
いつもの交差点に着いても左に曲がることなく、彼女と共に右の道を進む。そういえば、親に今日遅くなると連絡いれてなかった、と考えながらも携帯を触ることはなかった。
『ここが、私の家です』
初めて紹介された彼女の家、というか小さなアパートを指差し彼女は言った。あまり新しくないらしく、階段を上るとギシギシ音を立て、手すりは錆びていて手を赤茶色にさせた。
手を払っている姿を見た彼女が一足遅れて、『手すりは触らない方が良いですよ。錆びてますから』と言ったが、遅い助言だった。
彼女はベストに入れてある鍵を取り出して、鍵穴に入れる。ちんけな泥棒を寄せ付けない仕様と見られる扉は鍵を入れることすら困難で、家の主である彼女ですら鍵を開けるのに苦労していた。
『すいません、待たせて』
照れ笑いを浮かべ、彼女は僕を家の中に招きいれる。
その誘いに応じて、中に入ると……心臓が止まるかと思った。彼女の髪から普段香っているシャンプーの匂いが、部屋に充満しているのだ。
こんな素敵な空間にいたら、晩御飯を食べる間もなくすぐに照れるというか、恥ずかしくなってしまうだろう。
『いえ』
僕は鼻先を赤くなるほど擦った。別に、顔が赤くなってるんじゃないんだから! ただ鼻が痒かっただけなんだから! と、やってみたかったという気持ちがホンの少しだけある。
『どうぞ、適当に座ってください。親もいないですし、寛いで大丈夫ですよ』
居間は、ピンクピンクピンクと女の子らしい物で埋め尽くされていたなんてことはなく、彼女らしいアニメや漫画のグッズが並んでいて少しほっこりする。
彼女の言葉に従い、小さなちゃぶ台の前に座りただただボーッとしていた。ここでウロウロ挙動不審になったり、色んな物をベタベタ触るのは僕の理性が流石に止めとけと自制したのだ。
彼女の家は外見通りの内面で居間と、襖が閉められていて分からないが部屋が2つある。広くもなく、狭くもなく住みやすそうだ。けれど妙に生活感に欠けていて何処か違和感を感じる……なんて、考えすぎか。女の子の部屋なんて初めて見るからきっと動転しているのだろう。
ふと、彼女に目をやると彼女は鞄を下ろし制服姿のままキッチンに向かった。居間とキッチンに隔たりがないこの家では彼女が何をしているのか、丸分かりだった。
冷蔵庫を開けて、卵を出して、こんこんこん、ぱかっ。て、普通に見守っていたが彼女は料理をしているじゃないか。思わず何も考えずに見ていたよ。
晩御飯にしては早すぎるが、おやつ代わりとして出すのかはたまた彼女がお腹が空いたから作っているのかは分からないが慣れた手つきに僕は何も言えない。
『及川くんは卵焼きと炒り卵どちらが好きですか?』
これは何の質問ですか、と阿呆な質問はしない。きっと彼女は僕が答えた物を作ってくれるのだろう。卵を出している位だし。
『炒り卵です』
『本当ですか? 私も好きなんですよ』
彼女はふふっと笑った。そして、ぐしゃぐしゃーってするのがなんとも堪らないのです。と付け足す。
『すぐ出来るので、そこの食器棚から皿を取ってくれますか』
彼女が指差す先を見ると電子レンジの上に小さな棚があって、そこに数枚のお皿、1つのコップ、3枚だけのお碗と明らかに彼女の家族が使うにしては少ない量の食器が入っていたが、何も触れずに1番上の皿を取った。
『どうぞ。ここ置きますね』
『ありがとうございます』
皿を置いたすぐ近くに、質素な水を入れたコップに数輪の花がいけられていた。黄色い花弁がうっすらと開いている。
『あ、綺麗な花ですね』
『スイセンです。母が好きだったので、この時期には飾るんです』
だった、という表現に小さな疑問を抱きながら彼女に問う。何で食器は少ないのか、何で靴が彼女の物だけしかないのか、何で。何でと降り積もった疑問が限界に来たのだ。
『失礼ですが、両親は?』
『いません』
答えは、はやかった。彼女はピシャリと撥ね付ける様に答えて、僕にこれ以上質問をするなと言っているように思えた。
『そう、ですか』
彼女は一瞬目を伏せると先程とは変わって、いつもの穏やかな声で僕に言った。
『出来ましたよ。私の家でもてなせる物といったらこれ位ですので、遠慮せず食べて下さいね』
『はい』
ただの可愛い彼女という僕の妄想を混ざったフィクション田村さんは存在するはずもなく、どことなく闇を隠し持っていた。
しかしまた、それも良い。人間完璧なやつはいないからむしろ、彼女の新しい1面に安心した。
『いただきます……』
出来立ての炒り卵に箸を刺し、だまになったそれらをホロホロ崩しながら口に入れ咀嚼をする。
そんな単純作業をする僕を穴が開くんじゃないかという程、作業を終えた彼女が見つめている。最初可愛らしいちゃぶ台の大きさだと感動していたのだが、今は小さいちゃぶ台のせいで彼女が僕の側に寄ることを可能としているから感動もなにも飛んでいった。
飛んで吹き飛ばされていった先に残るのは、1つの羞恥心だった。
『あ、及川くんの頬赤いですよ』
『そ、れは、夕日のせいですね』
『私の部屋は夕日が差し込みません』
『じゃあ、さっき鼻をかいたのでそのせいです』
『じゃあって言ってる時点で逃げてますよ。もう、この勝負私の勝ちなんですからねっ』
誇らしげに彼女は言うが、元々これは勝負じゃなかったし負けず嫌いの彼女が作り出したのだった。けれども、そんな姿も可愛らしいなと頬が綻んでしまう。
うむ、重度だ。
なんだかんだ言って僕らは恋人という既に作られた概念に沿った関係性を構築出来ていることを、喜びながらその日は彼女の家を後にした。
いくつも沸き上がった彼女への小さな疑問。然程大きくはないが、やはり小さなトゲのように僕の意識に刺さっていた。
今日、収穫した情報は『彼女の両親がいないことに触れるのはタブー』『彼女は恐らく一人暮らし』『部屋は全体的に質素』『けれど、彼女らしい1面が多々見える』と、中々だった。
集めてどうこうする訳じゃないが今後も付き合うためには必要な材料。きちんと覚えて応用していかないと。
そういえば、彼女はあの時エプロンを着けていなかったが部屋の片隅にエプロンが掛けられていた。普段使っているのだろう。今度行く時に、見れたらなぁ。ごくり、思わず唾を飲み込んだ。