ぴちゃぴちゃ
無事、東野山高校に合格した僕と彼女は入学して初めての週末、定期で行ける範囲のショップを巡った。
今までは移動するのだけでお金の心配をしていたのだが、そんなことも気にせず行ったことがなかったショップにも足を伸ばした。
中学生という役職を降りただけで女性はこんなにも変わるのかと思う程、彼女は美しくなっていた。元々容姿は上位に入るレベルだったが、高校生というブランドが彼女を更に輝かせる。
僕は何も変わっていないから、彼女に置いて行かれた気分で少し不安になったが言えない。言える訳がないのだ。そんな子供みたいなこと。
『及川くん、見てください! ルリルタンの衣装が試着出来るみたいです!!』
『ん、あ、ああ』
鼻息荒く店に貼られたポスターを見て、僕に説明する彼女の表情は楽しそうで思わず僕まで楽しくなる。
可愛い彼女がルリルタンという史上最高に可愛いキャラのコスをしたら、相乗効果で例えられない程可愛くなるに決まってるから止めたら。なんて、歯が浮く様な台詞は、心の中に収めておいて妥当な返事をする。
『田村さんなら似合うと思いますよ。無料だし』
お金がない中学生時代、無料という言葉のつく場所を活動してきた僕らにとっては『無料』という言葉は当然魅力的だった。
『ですよね! じゃあ、私。店員さん呼んできますっ!』
スカートと少し高めのヒールの靴を身につけていることを忘れている様に思われる彼女は、言葉通りバタバタと掛けていく。
その後ろ姿を見て、クスリ、笑みが溢れた。
こんな僕みたいな地味な人間が、人並みの幸せを得て真っ当な青春を送っているという現実を嘲笑った訳ではなく。ただ田村さんといるこの時が幸せで幸せで仕方がなくて、僕の胸の中で溜まった幸福が僕を笑顔にさせたのだ。
こんな気持ち、ルリルタンを初めて見た時以来だ。と、ボンヤリ過去を思い出す。
中学に入ってから突然に、小学生の時の様に女子と話せなくなった。悪口を言ったり、急に大人びた女子が恐くなったのだ。今思えば思春期に入った男女特有の行動だが、あの時の僕はナニカ分からない恐怖に怯えていたとうっすら覚えている。
そして、中学入ってすぐに出来た友人が所謂『オタク』と呼ばれる人種で、家に遊びに行った時にアニメを見せてくれた。それが、ルリルタンとの出会いだった。
ルリルタンはクラスの女子とは違って悪口も言わないし、幼いし、何よりも可愛かったからルリルタンに段々ハマっていった。ああ、僕はルリルタンをきっかけに『オタク』の道に足を踏み入れたんだったな。ルリルタンが存在する二次元の世界の方が、クラスの連中のいる三次元よりも温かくて癒しがあったし、楽しかった。
いや、今も楽しいか。彼女が、田村さんがいるから。田村さんと、ずっと、一緒にいれたらなぁ。
――彼女を食べちゃえば、ずっと一緒にいれるのかな?僕の体内の中で、消化されて、僕の血や骨となって、ずーっと一緒に……
『及川くん!』
ビクリ、身体が震えて正気に戻った。
僕はなんてことを考えていたのだろうか。彼女を食べるなんて、そんな酷くて非道徳的なことをしたいだなんて、気が狂っているに違いない。新しい環境でストレスが溜まったのだろう、と無理矢理答えを出して、声をあげた彼女の元へと向かった。
『わ、あお……』
『えへ? どう、ですか』
『どう……ですかって、……そりゃあ』
ルリルタンのコスプレをした彼女の爪先から髪まで舐め回す様に見て、口元を隠した。嘘をついてるんじゃない。頬がニヤついているのを見られたくないのだ。
ルリルタンの変身衣装は勿論、青いサイドで高く結ばれた髪まで再現されている。無料でこのクオリティには思わず悪徳詐欺を疑ってしまう。
『……可愛い、ですよ』
『へへっ。そんな赤くなられると、私まで照れますから……止めて下さいよ』
『そんなこと、言われても。僕にはどうしようも出来ない生理的反射と言いますか……』
すっと、お互い目線を外し顔を伏せていると、その姿を終始見ていた彼女を着替えさせてくれた店員は、お節介とも言われそうな提案をした。
『記念に、お二人の写真を撮りますので、そこに並んで下さい』
え、僕も写るの? という疑問を持った表情や僕の返事を無視して店員(恐らく中身は鬼畜)が僕を彼女の横に押す。
『え、え? ありがとう、ございます』
何故か彼女は店員に感謝の言葉を述べながら、僕の隣という位置を保つ。そこで、店員は首にぶら下げていたカメラを構え『いいですねー。もっとこっち見て下さいよー』とカメラマン気取りの口調で笑う。
『は、はあ』
それには、僕も愛想笑いしか出ない。
『じゃあ、いくよー。いち、にぃ、の、さん、でっ』
バシャリ、シャッター音と共にインスタントカメラの尻からプロマイドがじりじり出てくるのを眺めながら、撮るタイミングが難しかったな、と振り返る。
僕の家庭では妥当に『はい、チーズ』という単語を用いていた。別にチーズなんて好きじゃないから、笑顔になれる魔法の言葉ではない。なら、今度からはこの掛け声にしてみようか。
『はぁい。出来ました。まだ、黒いですが時間が経てばちゃんと写りますからね』
『ほえー』
彼女はルリルタンの格好をしたまま、まだ黒いそれを逆さにしたり透かしてみたりして、現像されるものを楽しみに待っている。
贔屓目なしでもやっぱり彼女は可愛い、とバカップルの片割れが言いそうな台詞がぽんと頭に浮かんだが自嘲。けれども、僕は彼女に恋しているんだと再確認出来るから、結構嬉しくなる。
『そんな、すぐには現像されないと思いますよ』
僕の言葉も耳に聞こえない彼女は、それを天に掲げてしばらく時間が経ったと思われる頃、『あっ!』と声をあげた。
『出ましたか?』
『は、はい! 見て下さいっ』
彼女は回るのを止めて、僕と肩が触れる位の距離まで顔を近づけ鼻息荒く写真を見せた。
聖女の様な可愛いルリルタンの格好をしたこれまた可愛い田村さんの横に、Vサインも出来ずに不格好な笑顔をしている僕が写っている。うん、死にたい。出来るなら彼女の部分だけ切り取って、余りは燃やしたい。
彼女と撮る写真は初めてだが、改めて彼女は性格は僕と同類だが見た目は僕なんかと比べ物にならない高さにいるんだと思わされ、少し目頭が熱くなった。
僕は彼女の側にいて良いのか。田村さんは僕の彼女でいることに不満はないのか。沢山の疑問が沸き上がるが、しかし結局は『田村さんを失いたくない』という想いに行き着く。
そんな僕の暗い考えに気づいてか、彼女は僕を見て頬を膨らました。
『この写真は私のですから、そんなにじいっと見てもあげませんよ』
彼女は気がついていなかった。
そういえば、と彼女を見ると目が合った。肩が触れる位の距離なのだから近いのは当たり前だが、驚きと緊張で声が震えた。
『1枚しか現像されてませんからね。僕が写ってても良いなら、どうぞ』
『何言ってるんですか?』
初めて彼女と同人ショップで会った時に、自分を卑下したら彼女はそんなことないとでも言いたげな表情で笑った。あの時と同じだ。優しい、子供の可愛いイタズラをとがめる様な甘さがある笑顔で僕を見ている。
きゅん、と柔らかみのない胸が高鳴って思わず乙女かと、心の中で突っ込んだ。
『及川くんが写ってるから、欲しいんです』
『は、はあ……』
ドクドクと速まった心臓は血液循環をいつも以上に行い、頭に酸素が回る。まわる。けれど、回りすぎて冴えて自分の現状が高度な夢じゃないかと疑い出す。
ほっぺたをつねって夢かどうかを確認。ギチギチ。うん、内出血する位痛いから現実だ。
『どうしたんです?』
こてん、首を傾げて彼女は笑う。可愛い。撫でたい。キスしたい。おい、ちょっと待て自分。接吻はダメだろうが、と自制心が止めにかかったのだが無駄だった。僕は自分が思っていたよりも欲が強いようだ。
触れるか触れないか、とモヤモヤしていた僕らの肩は簡単にぶつかって、いとも簡単に彼女に到達出来た。ちゅ、と可愛らしいリップ音を自分達で作ったことに鳥肌を立てながら、唇を合わせて、ふと疑問。
唇を合わせたのは良いがここからどうすれば良いのだ?
よくあるエロ同人だとヨダレを垂らしながら舌を絡め合うという表現は多々見られるが、常識なくここでそれをすべきではない。しかし、このまま唇を合わせ続けるのは不自然だ。……ところで、僕は何でこんなことをしているんだっけ?
急に我に返ると自分が盛りのついた猿に思えて、耳まで赤くなる程自分を恥じた。アホだ。僕は人前ということを配慮してないことはおろか、彼女の意思も問わずに欲望をぶつけたのだから。
『あ、あ』
彼女から1歩離れて、彼女の反応を窺う。すると、彼女は丸い大福の様な頬を桃色に染めて瞳を潤ませていた。
彼女を傷つけた。その事実が僕の心に深く刺さり、胃の中まで落ちた。
『ごめん』
キスして。傷つけて。嫌なことをして。
『何で』
怨むような眼差しで、僕を見た彼女はふと目を弧に歪ませたかと思うと、僕に近づいて、キスをした。ちゅ、ちゅ。と啄むように彼女から唇を合わせたら、すっぱりと離れた。少し惜しむ気持ちがくそうと、舌打ちを打つ。
『何で……?』
質問するのは今度は、僕の番だった。
『謝ったからです』
『何で、謝ったからキスだなんて、そんなこと……』
『なら、何故謝ったんですか? 及川くんは悪いことしましたか?』
『し、しましたよ。そりゃ、田村さんに……』
『キス、が悪いことなら私達共犯者ですね。ねえ、及川くん?』
小悪魔の囁きのように聞こえた。共犯者。その響きがどこか心地よい。キス、ということが悪いことではないけれど田村さんと同じ罪を背負っているという想いだけで幸せになれる。
『……ですね』
優しい彼女。可愛い彼女。心が綺麗な彼女。彼女である彼女。僕の彼女。僕だけに笑いかけてくれる、僕だけの彼女。好きだ。大好きだ。心の底から、大好きだ。この世の道徳なんて、法律なんてどうでも良くなる位に好きだ。ああ。
――好きすぎて食べてしまいたくなる。
ひょっこり、僕の隠された想いが顔を覗かせた。