ぺろぺろ
食べたい。という欲求の中でも最も強い生理的欲求が人間にはあるのだと偉人が言った。
つまり、食べたい。ということは正常で人間が持つ当然の欲求であると世界的に認められているのだ。
しかし、実際問題僕が持つこの食欲は世界的に認められていない。食べる、ということには変わりはしないのに。何故だかは僕も分かっている。
それは僕が食べたい対象が人間――付き合って三年目になる彼女だから、だ。
彼女と出会ったのは中学2年の春、クラス替えを行ったばかりの真新しい雰囲気の中、隣の席になった。
小さく耳の後ろで柔らかい黒髪を結って、今よりも幼く丸い頬を露にしていた。目鼻立ちははっきりしていて、第一印象はクラスの中心の半歩後ろで笑ってそうな子だった。
はじめまして、よろしく、なんて他愛のない会話すら出来ないチキン精神の僕は、彼女と一度も話すことなく学校生活を送っていた――が。
しかし、あることをきっかけに僕と彼女の関係性が変わった。
ある日の週末、三次元の女にゃ興味がないと公言している痛い友達を連れて、オタク御用達のグッズショップ巡りをしていた。
『むほっ、これ良いでござるな』とか調子に乗って10分の1スケールの美少女フィギュアを舐め回す様に見ていたら、視界の端に僕と同じ行動を取るマニアックな方が映った。
コイツ素晴らしい根性しているな、と自分の今までの行動を棚に置いてそちらに目を向けると、同じことを思ったのだろう。相手も僕を見て、互いに息を飲んだ。
キチガイな行動を取ると想像することすら難しい、ふわふわとした白を基本とした可愛らしいワンピースに包まれた女性。化粧していなくても美人を主張する目鼻立ち。
そのヒトは間違いなく僕の隣の席の田村さんだった。
『な、んで……田村さんが?』
『それは私の台詞です……何故、及川くんが』
互いに口をあんぐりと開けて羞恥に顔を染めていた。僕の場合は女の子に名字を呼ばれたということで照れてるんだけども、そこは置いておこう。
突然、田村さんは僕のフィギュアを見て笑った。しかし、それは嘲笑ではない。
『私も、<マジカルキューティー萌たん~漆黒の翼は彼女の掌へ~>の第二期アニメを全部見てます。その子ルリルタンですよね?』
え、知ってるんですか!? そうです! ルリルタンです。マジ天使撫で回したいって思いますよねっ!? なんて言えるはずもなく。
『そ、そ、そう、ですよ。ルリルタン……です。はい。そして、これはアニメ第二期の三話でしか着てない一度きりの制服です、はい』
と、吃音かと思わせる返事と引きつった笑顔をプレゼントした。けれど優しすぎる彼女は僕の言葉に食いついてきた。
女子が苦手な(そもそも話すこと自体したくない)僕が、このまま話し続けるのは至難の技だから帰らせて頂きますと言おうと思ったが、これがきっと僕の最後の女子と話す機会なのだと言い聞かせて何とか踏ん張る。頑張れ、自分。とか応援している自分自体が気持ち悪い。
『え! そこまで知ってるんですか!? 及川くん、良い趣味してますね!』
『人に言える趣味ではありませんけどね……まあ、それは田村さんにも言えたことですけど』
『ほんっと、ですよ。だから今まで普通の子として隠して来たんですけどね。でも、及川くんも私と同類だって分かったから隠さなくても良いですよね?』
確認する様にずっと下を向く僕の目線に入ろうと、腰を屈める彼女。怖い。優しすぎて、その優しさが怖い。なんて僕は最低な野郎なんだろう。
名前を呼ばれた羞恥と自己への怒りで赤くなった頬を隠すために、ゴシゴシと顔をかいてから目を伏せた。
『え、ええ。大丈夫です。……むしろ僕の方がガチのオタク過ぎて田村さんが引かないか心配ですよ。正直、自分でもキモいと思うし』
『キモい? 誰が?』
きょとん、と目を丸くして彼女は笑った。僕のことを全て肯定してくれているのだと感じられるその瞳が凄く嬉しかった。
『え、や、なんでも、ないです』
『ふふっ。及川くんって不思議ですね。ところで。今日、私一人なんですけど及川くんが良ければ一緒にショップ巡りしませんか?』
喜んで、と言って友人を置いて女の子と遊びに行ける程僕の精神構造は曲がっておらず、ひたすら謝って行けないことを伝えた。
『そっかぁ。じゃあ、是非今度の機会に同人ショップ巡りしましょうね』
なんとも素敵なお誘いをした彼女は笑顔で手を振るとその場を去っていった。きっと彼女には見えないだろうけど、後ろ姿に小さく手を振りかえした。
その後、全てを知らない友人と一人でニヤニヤしている時に遭遇してしまい、本気トーンでお前キモいなと言われたがそんな言葉が気にならない程に僕は舞い上がっていた。
その日を機会に僕は田村さんと、学校でも話すようになって徐々に親交を深めていった。
初めてちゃんと話せた女子。自分と同じ趣味を持つ女子。僕をキモいと思わない女子。これだけ揃えば僕の心は彼女に夢中になるのも極自然なことだ。
僕は彼女に恋をした。初めての経験で、僕がこんな甘い感情を持つこと自体信じられなくて疑った。しかし、ラノベで読んで学習してきた恋というものと共通点が多すぎてやはりこれは恋なんだ。という結果に行き着く。
彼女との話す時間が長くなって、楽しくなればなる程、今後の僕の人生において彼女以上に僕と趣味があう最高の物件に出会えないと思った。それ程に素敵な彼女を逃すわけにいかない、なんてドロドロした感情が顔を覗かせた。
アホか、僕はふと冷静になって考えるのだが彼女がいない未来を想像するとぞっと怖くなり、やはり彼女とずっといたい。彼女を捕らえたいと、暗い発想に落ちていく。
そして、僕は必死に彼女に告白して、見事成功して、付き合った。勿論これは初期段階。彼女はまだ僕から離れていく危険性がある。もっと長い年月をかけて、僕との関係性を構築していかないと。じゃないと、僕から離れてしまうかもしれない。嫌だ。
ラノベで見知った恋とは違う思いも含まれてはいたが、彼女と一緒にいる時は僕の胸はランダムダンシングするから恋しているんだ、と思われた。
気がつけば中学3年生、受験を迎えていた。
『ねえ、どこの高校受ける予定なんですか?』
彼女はボソボソと小さい声で聞いた。丁度、ここは静かな図書室。蚊の鳴くような声でも簡単に聞こえた。
『……東野山高校』
『本当? 私も、そこを受けようと思ってたんです。だって、東野山高校にしたら定期の範囲内でショップ巡りが出来るじゃないですかー……』
ぽわん、と夢見る乙女の様に楽しそうに話す彼女の横顔を眺めながら、内心これまでにない位に喜んでいた。
だって、嬉しいじゃないか。彼女と最低でも三年は一緒にいられる未来が保証されるのだ。
よくありがちな中学でのカップルが別々の高校に進学して、互い以上に素敵な異性に巡り会い恋に落ち、破局。その心配もなくなるという訳なのだ。
僕のそんな想いも分からぬまま、彼女は頬を赤く染めた。
『なら、及川くんと一緒にいれるんですね。合格したらもっと遊びに行きましょうね』
『……はい』
『わー、及川くんの耳真っ赤ですよ』
『それは田村さんも同じですよ』
『くっ。バレましたか。"止めて下さい。私の恥部を見ないで下さい!"』
『あ、その台詞。第一期の三話でルリルタンがライバルの月之宮杏ちゃんとの対戦時、服を破かれてしまい漏らした言葉ですね!』
『さっすが、及川くん……私のこのネタに気がついたのは及川くんが初めてです』
『いやぁ……』
僕も、このネタを振られたのは田村さんが初めてです。と、言うのは叶わなかった。
何故ならここは静かな神聖なる空間、図書室。そこで大声を出した(意識したんじゃないが)のだから、追い出されるのは当たり前だった。
彼女の言葉に対して照れて頭をかいていると、後ろからがっと両肩を掴まれた。振り向くと、そこには笑顔が似合うおさげの図書委員がいて、その地味な顔から似合わないドスが効いた声で『出てけ』と言われたのだ。
彼女と僕、互いに顔を見合わせ羞恥で耳まで赤くさせると『……すいませんでした』と、図書委員に呟いて図書室を後にした。
出ても尚、二人の耳は熱を持っていて妙に滑稽で思わず笑った。彼女も同じ想いなのか、くすりと笑った。
ふふふ、あはは。堪えきれない笑い声は放課後の廊下に木霊して響いた。