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3.ミーシェ・シャルという名の少女

 ――あたしは、幸せにならなくてはならない。

 父の顔は知らない。母が気にした様子も見たことはない。母が気にしていなかったということは、タネの持ち主は一夜過ごしただけの誰かだったということだろう。

 もしかしたら母は父を知っていたのかもしれないが、いずれにせよもうわからない。母は詰まらない病気にかかってしばらく苦しんであっけなく死んだ。確信はないが、おそらくは性病だろう。母の仕事は花売りだった。

 不幸だとは思わなかった。

 孤児(みなしご)なんてスラムにはありふれているし、ましてや()()()()()()()()()()であればいっそ当たり前の最期だったから。

 ただ、それでもあたしは作った粗末なお墓の前で散々泣いた。あたしの歳は七つ。花売りの娘ならもう花売りをさせれていて不思議のない歳なのに、あたしは生娘で、遅いながらも計算ができ、拙いながらも読み書きを身に付けていた。この路地裏の暗闇という狭い世界で、一番愛された子供は間違いなくあたしだった。

「仕事が欲しーんです! どんな仕事でもいーです! なんだってやるです!」

 あたしは一番良い服を着て、王都でスラムで、仕事を探した。必死で探した。

 計算ができる人間も文字の読み書きができる人間も、王都ならたくさん仕事がある。そう聞いていた。そして、それは間違いではなかった。けれど――

「悪いが、『ネコミミ』じゃダメだ」

「冗談はよしてくれ、『獣人』に食べ物触らせられるわけがないだろ!」

「君ねえ……ちょっと芸ができるからって『ペット』に金預ける莫迦は居ませんよ」


 ――あたしは、『人間』ではなかった。


『ネコミミ』『獣人』『ペット』大体そのように呼ばれる種族、それがあたしら。畜生の耳と尻尾を持って生まれる人族の亜種。

 外から見える大きな耳は、幼いころに母が切ってくれた。でも、それは人族の耳が生えてくるわけでなし。街中が少し安全になるだけのもの。

 結局、何がどれだけできても、あたしら(ネコミミ)にはまともな仕事なんてなかった。あたし(ネコミミ)は信用されなかった。

『どうか幸せに』

 病が顔にも回り、見る陰もなくなった母が最期に遺した言葉。

 だから、あたしは体でお金を得ることだけはできなかった。

 そうして、あたしはたったの一ヶ月で困窮した。

 母が遺したわずかな現金を使い果たし、身の回りのものをすべて売り払い、そうして得た最後のパンすら食べ尽くしてしまって。

「……幸せに、ならなくちゃ」

 あたしは廃屋でやせ細った身を起こした。

 絶対に幸せにならなくてはならない。母の想いを果たさずに死ぬわけにはいかない。

「あたしは、幸せにならなくちゃなんねーんです」

 その日、あたしは露店から果実を一個盗んだ。

 三日ぶりの食事なのに、まったく味がしなかったことを覚えている。

「……幸せに、ならなくちゃなんねーんです」

 生きるためにあたしは賃金僅かな重労働に携わり、ゴミ箱からまだ口にできる生ごみをあさり、教会のいけ好かない坊主の施しを受け、そして――盗みを続けた。

 そんな生活を半年ほど続けたある日、あたしは落し物の小汚いかばんを見付けた。

 それが運の良いことなのか悪いことなのかはわからないけれど、その中には財布が入っていて、見たこともないほどの銀貨が詰まっていた。

 持ち主はわからない。だが、かばんはさして良いものではなく、銀貨の量には明らかに見合っていない質だった。つまり、このかばんの落とし主にとってこの銀貨は全財産にも等しい物だということ。

 ――返さなくちゃ。

 そう思って、かばんを手に取って。その手が。袖口が。あたしの自慢だった一番良い服が。泥と垢の臭いにまみれ、ボロボロに擦り切れていたのを見てしまった。

 最近は、汚れ仕事をすら門前払いで雇い主に会うことさえできない。

 味のわからない食べ物ばかり口に運んでいた。

「……幸せに、ならなくちゃなんねーんです」

 あたしは、多分間違った。

 味がわからない理由なんてわかりきっていたのに、あたしはふらふらとそのお金で体をきれいにし、服を整えてしまった。

 数週間ぶりに多少はまともといえる仕事にありついて、暖かい毛布を買って、あたしはそれに包まって泣いた。

 もう、仕事をして買った食べ物ですら味がわからなかったから。

「……幸せに、なんなくちゃ……なんねーんです」

 あとは、転げ落ちるようだった。

 置き引きを始め、スリを始めた。

 才能と呼べるものがあったのだろう、あたしは一度も捕まらなかったし誰にも知られることなくひっそりと生きることができた。

「幸せに……」

 でも、世界はどんどん色あせていった。

「しあわせに……」

 母が亡くなってから二年経って、あたしが九歳になった年の春。あたしはとうとう捕まった。

 スラムなんかに入り込んでしまった、あたしより少し歳上に見えるうかつな少女。良い身なりをして清潔な匂いのする可愛らしい彼女を狙って――あたしは何をされたかもわからないままあっさり制圧された。

「――君は、スリをしていて楽しいかい?」

 彼女は、官憲に突き出すでも怒り狂って殴るでもなく、淡々とあたしにそう尋ねた。

「楽しいわけ、ねーです……やりたいわけがねーです……」

 こんなつらいこと、辞められるのなら今すぐにだって辞めたい。

「じゃあ、どうして君はスリをしたのかな?」

「死なねーためです……。あたしは母さんのために、死んじゃいけねーんです」

 うんうん、と彼女は二度三度頷いて、

「どう答えても私は君を官憲に引き渡さないと約束しよう」

 と、前置きをして、

「私はちょっとしたお金持ちだ。もし君が望むのなら、私はここにこれらを忘れていこうと思う。どうする?」

 じゃらり、とぱんぱんに膨れ上がった袋を三つ、あたしの前に差し出した。

 いつかのかばんにあった財布よりもなお大きな膨らみが、三つも。

 これだけあれば一冬。いいや、二冬でも温かい寝床で過ごせる。新しい服が買える。下着を身に着けられる。けれど――


「……要らねーです」


 ――これを受け取ってはいけない。

 あたしは泣いた。

 胸が苦しくって泣いた。

 してきたすべての罪に堪えきれなくて泣いた。

 受け取らなくても、罪悪感はあたしの人生を真っ白に染め上げるのだとわかって泣いた。

「しあわせに……なりたかった、です……」

「うん」

「あたし……しあわせに、ならなきゃ……なんねーんです……」

「うん」

「あたし……でも……もう……もう……」

 うつむいて涙をこぼす小汚いあたしを、彼女は前から抱き締めてくれた。

「う、あ、ああああああああああっ!」

 抱き締めて。抱き締めて。彼女はそこに居てくれた。何日も水ですら流していないあたしの臭いが染み付くのも厭わずに。きらきらして高そうなコートにあたしの鼻水が糸を引いても変わらずに。大通りを行き交う人が怪訝そうな目でじろじろと見ていても構わずに。何分も、何十分も、そのままあたしを泣かせてくれた。

「あ、ありがと……ひっく……です……」

「どういたしまして」

 結局、あたしから身を離すまで彼女はずっと抱き締め続けてくれた。

 涙で視界はまだぼやけているけれど、そこに見える世界は二年ぶりに色鮮やかなものだった。

「さて、じゃあ行こうか」

 彼女は笑ってあたしに手を差し出した。

「行く……ですか?」

 聞きながら、けれどもあたしは躊躇することなく彼女の手を握った。たとえ連れて行かれる先が監獄でも処刑台でもあたしは彼女の手を握ることを選ぶだろうから迷いはなかった。


「うん――君の覚えている限りの全員に謝ろう!」


 そして、あたしは彼女に手を引かれるまま、その日丸一日、王都とスラム中を歩いた。

 一緒に探して、一緒に見付けて、一緒に謝って、お金は彼女が返してくれた。

 全員とはとても言いがたいけれども、十数人に謝ることができて、あたしの心はすうっと軽くなった。

 日が暮れて酒場が繁盛し出すころになって、彼女は言った。

「どうかな? 幸せになれそうな気はしてきたかい?」

 たった半日。

 それだけで真っ白だったあたしの人生を変えてくれた神様は、とてもとても楽しそうに笑いかけてくれていた。

 だから、あたしは、涙混じりに精一杯の笑顔を作って答えた。

「――はいです! あたし、絶対絶対絶対幸せになるです!」




「――と、これがあたしとリンゴ姉さんの出会いです」

 ミケがぺこり、と頭を下げた。

 ううむ、なんだか私が凄い善人みたいでむず痒い。

「ここに居るチビどもも、大体あたしと似たよーなもんです」

 うんうん、とお子様たちも頭を縦に振る。

「はぅうううううううううう、良い話ですわぁあああああああああ」

「あああ、ニル。涙がえらいことに」

 ハンカチハンカチ。ほら、ポチも。

「ぼ、僕は泣いてねーし。ぜ、全然平気だし……っ!」

「はいはい、いいから持ってなさい」

 と、押し付ける。

「それからすぐにリンゴ姉さんは孤児院を作ってくれたです。あたしが『ネコミミ』だと知っても変わらずに接してくれるです。返すに返しきれねーでっけー恩です」

「私は何もしていないよ。金持ちの道楽で、とんだ偽善さ」

「ちげーです! あたしは――」

 テーブル越しに身を乗り出して叫ぼうとしたミケの頭を、私は以前と同じように前からそっと抱える。

「私は何もしていない。――ミケはそれだけ苦しんでも優しい心を捨てなかった。幸せになるための権利を手放さなかった。私はそういう人間が好きだからお金を出した。王立施設たる『学園』なんて凄い場所でメイドの仕事を得られたのは、ミケがそうあり続けて一所懸命に信用を積み上げたからだよ」

 私は、あのときよりずっと大きくなって私の背を越えてしまった小さな女の子を抱き締めた。

「ミケ」

「はい……っ、です……」

 すでにミケの声はしゃっくりあげていた。

 けれども、私はミケに評価と区切りを与えなければならない。それが、ミケの人生を変え、救うべき善人と悪人を勝手に選んだ私の責任なのだから。


「――よく頑張ったね」


 その後は、正体をなくすまで泣いた。

 ミケだけでなくお子様たちも。あと、ニルもえらい勢いで。ポチは逃げた。男泣きは見せてもいいものなんだけどなあ。

 ……。

 まあ、なんだ。

「……ごめん、ニル。私にもハンカチ取ってくれるかな?」

 私もほんの少しだけ、泣いた。


 おめでとう、ミケ。



























『……どうだ?』

『ダメです。孤児院の中の様子はまったく探れません』

『……あの『不老魔術師リンゴ』のしわざか?』

『ええ、魔法でしょう。今だけでなく、彼女の居る場所の周囲は常に遮音されています。近付けば唇が読める可能性はありますけれども……』

『……却下だ。スラムの人混みがあるからこそ我々は見付かっていないのだと思え』

『はい。失言でした』

『……俺は判断を仰ぐ。お前はここで監視を続けろ』

『わかりました』

『……ニルウィ第三王女まで貴族名簿を探り出したと報告が来ている。もはや猶予はない。おそらくは、子爵家を嗅ぎ回ったあの『ネコミミ』を始末せよと命が下る。くれぐれも気を抜くな』

『はっ!』

ニルが探る→第3部1章の末尾

ミケが嗅ぎまわる→財布の持ち主を探してうろうろうろうろ、人に尋ねたりもしました


裏目に出ています

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