3.ポチが軽さに慄(おのの)きました
「に、ニル。いいからその危険物を降ろすんだ」
「ふふ、ふふふ……。諦めが悪いわよ、リンゴ。諦めの良さはあなたの専売特許ではなくて?」
甘く見た。甘く見ていた。
狂気の笑みをたたえて私の眼前に立つニルは――否、ニルウィ・ラ・エルス・アスミニアという名の女化生は、自らを盾として道を塞いでいる。
心を許しすぎた、余裕を持ちすぎた。
己の力への過信、慢心。運命がその増長のツケを払えと乗り込んできたのだ。
「ニル。私は、君を傷付けたくない」
「ええ、存じておりますわ。わたくしのごときちっぽけな存在に、リンゴはこれでもかというくらい心を砕いて擦って潰して与えてくれたこと、よくよく存じていますわ」
「――なら!」
「ゆえにこそ、リンゴがわたくしを傷付けたくないだけでなく、傷付けられもしないのだと確信していますの。愛ですわね。ふふふ……」
「……っ!」
退かない。退いてくれない。
私がニルを傷付けられないからこそ、押し退けて通ることが――逃げることが、できない。
「やめてくれ……」
もう、言葉がない。
「さあ、リンゴ……。覚悟はできまして?」
じわり、人の姿をしたバケモノが音もなく一歩を私へと寄せる。
「やめろ……」
放つべき言葉もすべき行動も見付からず、私はただ本能に従うまま後ずさる。
「安心して、リンゴ。痛みはないしすぐに終わりますわ」
怪物の、耳まで割けよと吊られた唇から、たらりと滴をこぼれる。
「やめて」
背中が壁に追い着いて、後ずさる先すらなくなって。
「大丈夫ですの。リンゴは、きっと――ふりふりドレスも似合うに違いないですわっ♪」
ニルはふりっふりのドレスを手にして、よだれを垂らしつつ、ぐへへと微笑んだ。
「い、や、いやぁあああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
あー。
うー。
えー……頭を切り替えよう。
うん、まあ、忘れよう。今の状況とか全部忘れよう。服は服だ、それ以上でもそれ以下でもない。うんうん。よし、切り替えた! 私は諦めが良いのだ。諦め万歳!
――王城である。
「ああ、やはりリンゴは赤と白のコントラストがいいですわ。赤地のドレスに白のフリル。これ以上の組み合わせはないですの♪」
……王城である。もう何も聞こえない。王城である。王城である。
現アスミニア王城は内政と外交のための城だ。
内政と外交のためとはどういうことか、その説明には対となる旧アスミニア王城を見ればわかりやすい。
旧アスミニア王城に求められたのは、戦争のための砦としての機能である。
戦乱期の真っ只中に作られた旧王城は、とにかく落城しないことを最優先で設計された。
結果、泥濘地でつながるのは細い山道、城内は入り組んだ構造で廊下も狭いお城が爆誕した。
極端に過剰な防衛思想ではない。日本でも源頼朝が鎌倉に幕府を作った理由は『三方を山に囲まれ海にも面している。わずかな道も全体的に狭い。防衛に最適』だったとする説が有力とされている。西洋でもこうした城や都市の例は枚挙に暇がない。
が、戦時以外の使いにくさがとんでもないのだ。
よって、戦乱期を乗り切ったアスミニア王国には、内政と外交を司る華美で優雅で威風を示せる――あと、何よりも使いやすい――城が必要とされた。
私たちが居るのは、そんな理由で作られた白亜の便利城こと現アスミニア王城である。
そして、召使いたちを退出させたこのニルの私室には、私とニルの二人しか居ない。
「はぁ……ねえ、ニル? 上からローブまとっちゃダメかい?」
「ダメですわ。せっかくのドレスが見えなくなってしまいますもの」
「ぐぬぅ……」
ううぅ、ふりふりしてるぅ。落ち着かないー落ち着かないー。
前世の記憶と性格をほぼそのまま有している私は、この体を着飾るのが嫌いではない。むしろ好きだ。
感覚としては、お気に入りのアバターといった具合。Rで十八な指定もない自由度の高さもあるし、可愛いので萌える。萌えキャラ魔術師リンゴさんです。
しかし、だ。
着替えさせられるのはダメ。恥ずかしい。慣れない。心の余裕とか防壁とかが壊れる。
私が私を着替えさせるのはいいのだ。それは私が『リンゴ・ジュース』という等身大フィギュアを着飾るだけなのだから。可愛くできたら見せびらかしたいくらい。
だが、誰かに私が着替えさせられるのはダメなのだ。それは『私』という人物を着飾ろうとしていることに他ならない。女装で。女装で。
あと、単純にふりふり苦手です。子供っぽい意味で可愛すぎる。
「脱ぎたいー。ローブ被りたーい」
じたばた。
「ふふふ、こうして見ているとリンゴも歳相応の女の子ですわね」
「いや、歳相応だったら私は二十三の嫁ぎ遅れなんだけど」
「リンゴはお嫁になんか出さないから構いませんわ! ずっと、ニルお姉ちゃんが守るんですの! わたくしの隣で『ニルお姉ちゃん大好き』と言ってくれればそれでいいんですわ!」
「おーい」
どこの次元のリンゴさんですかそれは。
「おい、おせーぞ、姫さ――うぉっ!? 何、すんだよ!」
「それはこちらのセリフですわ! 乙女の部屋に、ましてや着替えをしていると知りながらノックのひとつもなく入るなど万死に値します!」
相変わらず残念なポチが、飛んできた花瓶を受け止めていた。
でも、その服装はといえば洒落たもの。王城で借りた青を基調とした荘厳でがっしりとした騎士の正装は、少々着崩されてはいるもののポチ自身の鍛えた体もあって妙に似合っている。こっちがこんなだというのに。気に食わん。えい。
「ぎゃあ!? 何でっすか!?」
それから、ニルも清楚な純白のドレスに身を包んでいる。それはもう、詳細に形容しようと思えば必ず美辞麗句の嵐になるような可憐さ。お姫様ぱぅあー本領発揮である。
「痛てて……。で、姫さん。わざわざこんな格好させて、どこでメシ食うんだ?」
第二王女が主催する晩餐をについて、第三王女に向かってこれだけぶん投げた言い方ができるポチは凄いと思う。悪い意味で。
「ミリーお姉様が待ってらしているのは、西の食堂ですわ。迎えられる客人はリンゴ……とポチさんだけですの。リンゴはくつろいで、ポチさんは一時も気を緩ませないで欲しいかしら」
「なんで、僕だけ扱いが違ぇの!?」
「……誰も居ないこの場でのわたくしはまだしも、家臣らが居る王城で王族に下手な口を利けば、どうなろうとも知りませんわよ?」
頭が痛い、とニルは身振りをしているが、その表情から本気で心配しているとわかる。
「ポチは本当にうかつだからね……」
「ですわ……」
「ちょ、ちょっと、リンゴさんまで!? 大丈夫ですって! 僕ぁ、これでも市長オヤジの息子っすよ!?」
じとーっと私とニルの目が同じになる。
「ポチがそんな腹芸できるのなら、そうそうニルの護衛にぼっこぼこにされたりしないよ」
「ですわ」
「ぐっ……」
ポチはニルに結構な回数、無礼を働いている。
ただ、それはニルが『なかったこと』にできる範囲内での話だったから許されてきた。
しかし、大勢の家臣らが居並ぶ王城で、となると『なかったこと』にはできない。もみ消せば、それは『甘すぎる対応』であり王家の威厳に関わるからだ。
「ポチね、一応礼儀作法は覚えてるんだ。一通り」
「本当ですの?」
「うん。私が直々に叩き込んだから、テーブルマナーから敵対国への降伏の手順までなんでも知ってるよ」
ニルが顔を向けると、苦い顔でポチも肯いた。
「アレはマジで辛かったから忘れらんねー。手洗いの水飲んじゃいけねぇとか降伏したらダチ扱いできねーとかわけわかんなかったし」
「……ポチは、礼儀作法はできるんだ。礼儀作法だけは」
「……リンゴの心中を察しますわ」
丸暗記教育の無意味さを心の底から味わいましたよ。
「とにかく、ポチ。君はできるだけしゃべるな。直答を求められたら『はい』『いいえ』『ありがたき幸せに存じます』『そのことは答えかねますので、リンゴにお尋ねください』で対処すること。私とニルでフォローするから」
「そうですわね。軽量化されたポチさんをハリランダ市長に届ける役をするのは嫌ですもの」
「ん? 軽量化ってなんのこった?」
「ポチの首から上だけが涙の帰還ってことだよ」
私は舌を出して自分の首をトントンと軽く叩いてみせる。
「げえっ、斬首っ!? え、マジでそんな話なの!?」
ポチはようやく状況を理解したらしい。
「……本当に、リンゴを尊敬しますわ」
「……ありがとう。わかってくれて嬉しいよ」
はあ、と私とニルは一緒にため息を吐いた。
「ところでニル。私は第二王女の性格を知らないんだけど、どういう人物なのかな?」
市中に流れる噂程度の話ならば知っている。
その多くは『微笑みを絶やさない心優しき美姫』というもので、悪く言うものは多くない。
ポチの不敬罪をかばってくれるところまでは求めないが、お莫迦と気付いたらそれ以上追求せず城から蹴り出してくれる人柄ではあって欲しい。
「そうですわね……。一口に言えば――」
ニルは人差し指を唇に当て、一呼吸ほど迷い、
「――慈愛に満ちた愉快犯、ですわ」
複雑そうな表情でそう述べた。




