後篇【弐】 勘違いでも、
一ヶ月かあ……一ヶ月、一ヶ月……。
なんかもういろいろスミマセン。
今度は僕が石化する番だった。
さっき言音が固まっていた理由が良く分かる。人間、予想外の事が起こると思考が止まり、動くことが出来ないようだ。
僕だけではない。自分の周りの時間さえもが止まって感じる。
しかし残念ながら時は無情にも流れ続けるもので、教室の外のグラウンドで運動している部活動生の喚声が聞こえているのがそれを裏付けていた。
先程の言葉をゆっくりと反芻する。その言葉は、僕の頭にはおろしたてのタオルのように染み込みにくかった。
暑さと緊張感でとめどなく溢れていた汗が、言音の一言によって急激に引いた。ついでに頭の血も引いたようで、先程よりも少しばかり考える力が付く。
――つまりは、言音の勘違い、というわけか……。
怪訝そうな顔で僕を覗き込んでいる言音を見て思う。
――いや、僕の早計だな……。
僕は心の中だけで頭を抱えた。言音の鈍感っぷりがここまでとは。僕は少し甘く見ていたのかもしれない。
「えーっと、どうしたのかな、ユッキー?」
「い、いや、何も」
僕の心中をこれ以上ないくらい歪めて理解している目の前の少女は、未だモジモジしながら何かを話したそうにしている。しかし何も言わず僕の顔色を伺っているところを見ると、どうやら先程の発言の反応をして欲しいようだ。
『この女の人が好きなのか』
答えはもちろんイエスだ。これは何ヶ月も前から感じている気持ちだし、今更変えるつもりなんてさらさらない。普通なら――言音が鈍感でなかったら――そう答えることによって、所謂、告白したことになるのだろう。
しかし、ココでの場合はどうだろう。言音はノートの人物を誰か別の女と感じているようなので、今イエスと答えたら、告白どころか友人への恋愛相談みたいになってしまう。そんな変な関係は嫌だ。
どう答えるべきか。
少し悩んだが、僕が出す答えは、何が起ころうとも変わらない。
言音に嘘は、吐きたくないのだ。
「うん、好きだよ」
しっかりと言音の目を見て言おう、そう思ったのだが、やはり言音の視線は僕の右足。目線同士が交差することはなかった。表情も良くわからない。ここまで右足首を凝視されたら、何かおかしいものでも僕の右足にあったのかと思ってしまう。
しかしそれでも、言音の元々大きな瞳が、裂けんばかりに更に大きく見開かれたのは良くわかった。僕が言った瞬間、身体全体をピクっと反応させ、拳を強く握り締めたのも見えた。お前は嘘を吐いていると僕から指摘されたときの反応に良く似ているが、今回はどこか違うように見える。
「そう、なんだ……」
聞こえてきたのは、誰が聞いてもわかる落胆の声。いつもの言音からは考えられないような弱々しさだ。
「そうなんだ」
意味もなく、僕は言音に続けて言う。するとまた、言音の肩が少し揺れた。
表情は、わからない。
ここでしばらく、静寂が訪れる。僕の言葉を最後に、言音も僕も黙り込んでしまった。
遠くからエコーがかかったように、野球部員たちの声が聞こえる。複数の音が混ざり合っていて、しかも音源が遠いのでなんと言っているのかはわからない。
この教室一帯が市民プールにでもなったようだ。誰のとも分からない声が響いて木霊する。
耳につくような音だが、それ以外には物音すら聞こえないので、無音よりはましだと思われる今の状況にはちょうど良い。
教室の中に夕焼けが差し込んできた。その紅色と机が反射して、教室全体がオレンジに染まる。身体の左側面のみに当たる光が少し熱い。もうそんな時間なのか、とぼんやりと思った。
光と共に、生暖かい風までもが僕の頬をくすぐる。教室の窓を閉めるのは最後に教室を出た生徒、というこの学級の規則を思い出した。
風が僕に吹きかかる。俯いている言音にも、さあっと風が通り過ぎた。
肩よりも少しだけ長く、それでいて先端が少し跳ねている絹のような髪の毛。それが風に沿って、踊るように靡いた。
このとき僕は、心底、ソレを見なければ良かったと思った。
風でそよいだ前髪の向こうの、あらわになった言音の表情を。
涙が、見えた。
大きな瞳に溢れんばかりに溜まった液体が、つつ、と頬を伝っている瞬間だった。
俯き加減が、少しばかり強くなる。そのとき、一滴の雫が言音の頬を離れた。ポタっとフローリングに落ちるまでの時間は、一瞬と言っても差し支えなかった。
水を吸い込まない床がその水を弾く。水面張力で、小さな珠になっている様子が少し神秘的だ。
「あ、……れ? な、なんでだろ? 目から、変なのが……」
言音は俯いたままそう言って、涙を手で乱暴に拭う。自覚がないのか、少々慌て気味だ。
その光景を見た僕の心といえば、当惑の一言だった。
何故言音が泣いているのか、少しも理解できない。僕は特別人の心に敏感というわけではないのだが、今までなら、言音の思っていることは、大体読み取れていたつもりだった。
それが勘違いだったかどうかは定かではないが、とにかく今は、全くもってわからない。
……今の風で、ゴミでも入ったかな?
「だ、大丈夫?」
もしそうなら、急いで洗わないと。そんな見当違いなことを思いながら、僕は言音に気遣いの言葉を掛ける。
「え、う、うん。大丈夫、大丈夫、だいじょ……ひぐっ……ぶ。…………ひっく、だ、い、じょ……」
ぽろぽろぽろ、そんな擬音が付きそうなくらい涙が流れてくる。飽和状態だった瞳から、崩壊したダムのように勢い良く溢れ出す。
「ちょ、こ、言音!?」
思わず僕も慌ててしまう。目の前で女の子が泣いていたら、誰だって悲しむか慌てるか、とにかく何らかの感情を持つことは当たり前だろう。
ハンカチを、と思い、ポケットの中を探ってみたが、いつも所持していないものを今だけ持っているなんてことは有り得るはずがなく、涙を拭くものなんか何一つとしてなかった。
僕が声を掛けても、言音は「なんでもない」の一点張り。そんな風にしゃっくり混じりに答えられても説得力に欠けるのだが、何だか話しかけづらい雰囲気を漂わせていたので放って置くことにした。
しばらく、ぐしゅぐしゅという鼻水をすする音が続いていた。涙は相変わらず止め処もなく出てきてはいるものの、先程よりは落ち着いたようだ。袖で目元を拭う回数が減ってきている。
ふうー、と言音が浅く深呼吸をして落ち着いた頃には、夕焼けによって作り出された影がかなり移動していた。心なしか、オレンジ色の光にブラックが注がれている。
「ご、ごめんね。急に泣いちゃったりなんかして……」
目を真っ赤に腫らしてはいるが、声はしっかりとしている。どうやら完全に落ち着いたようだ。
「え、と………………なんで? 何で急に泣いたりなんか――」
「わかんない」
「え?」
「わかんないんだよ……!」
弱々しかった声の語尾が若干強くなる。視線を落とすと、言音が握りこぶしをつくっているのが見えた。
「私ね、なにもわからないの」
言音が言った。
「数学もわからないし、理科もわからないし、英語も世界史も地理もわからない」
ちょっとそれは不味いんじゃあ……なんて茶々を入れるほど、今の僕は馬鹿ではない。黙って続きを待つ。
「……ついでに、ユッキーの好きな人もわかんない」
少しの空白の後に、言音は続ける。
「ユッキーが絵が上手なことも知らなかったし、ユッキーのお友達の名前も知らない」
言音は話す。
「何で今こんなに胸が苦しいのか理解できないし、何で――昨日良く眠れなかったのかも理解できない」
言音は一人で喋り続ける。
「どうして私は泣いたの? どうして涙を流したの? どうして、ユッキーは、そんなに、私に優しいの……?」
ゆっくりと、視線を僕に合わせる。今度は確実に僕の目を捉えて動かない。言音の瞳に、いつものぽえっとした緩みはない。だが、代わりに、触れると消えてしまいそうな揺らぎを備えていた。
「ねえ、何で? 教えてよ、ユッキー。勉強みたいに教えてよ! いつもみたいに教えてよおおお!!」
いつの間にか、音量がマックスになっていた。ほとんど叫びに近い形になっている。
言音は再び泣いていた。潤う程度だったが、確実に。
僕は自分自身に問いかけたかった。
今、この瞬間、世界中でいちばん愚かな人間は誰だろうな、と。
コンマ一秒で答えられるだろう。
僕だ、と。
他にも、問いかけたいことが――否、詰問したいことが――山ほどある。
何故僕は言音を泣き止まさない? 何故僕は何も話さない? 何故僕は――早く気付いてやれなかった?
良く考えれば、これほどまでにあからさまな主張はなかったと思う。
いつも言音は僕の隣にいた。いろんな話をした。そして、たくさんふざけ合った。
それらは全部、全部全部、言音の心の声だったのだ。
早く気付け、早く言ってくれ。そんな言音の声が、今なら時間を越えてでも聞こえてくる。
――僕は、大大大大馬鹿野郎だっ!!
気付かなかったのは自分のことで頭がいっぱいだったからでした、なんて、言い訳が通用するわけがない。ただ僕が馬鹿だっただけだ。絵を見せてしまったときなんて比較対象にならないくらい大馬鹿だ。最低だ。阿呆だ。
自分を傷つけないようにするために言音を傷つけて。自分が離れたくないから勝手に近づいて。
全てが保身だ。僕はちっとも優しくなんかない。自分のことばかり考えてる。
僕は汚い人間だ。
どうしようもなく狡猾だ。
――でも、それでも……――
――それでもやっぱり……――
――どうしようもなく、キミのことが――
言音が静かになったのが分かった。僕の返事を待っているのか大声を出して疲れたのかのどちらかだろうが、僕にはそんなことはどうでも良かった。
どうせこの娘はすぐに騒ぎ出すことになるだろうから。
深呼吸をして目を閉じる。体中に酸素が行き渡るのを感じる。血液が冷水になったように、僕の体温と頭の中を冷やしてくれる。さっきまで二倍も三倍も早く動いたと思っていた心臓はもう静粛に鼓動している。
僕の心境の変わり様に、自分でも驚いていた。人間、覚悟を決めれば大抵のことは出来てしまうものだなあ。このまま一〇〇メートルを五秒で走れたりしないだろうか。ぼんやりと思う。
「ねえ言音――」
僕の口が義務を果たすかのように自然と動く。
もう、止まらない。
「僕は……好きなんだ……」
「……だから、もうそれは聞いたよ。その人のことが好きなのはもうわかっ――」
「好きだ、言音。大好きだ」
これがマンガだったら目玉が勢い良く飛び出るんだろうなあ、と僕にのんびりと思わせるくらい言音は目を見開いた。目だけでなく、口までもがカポーンと開いていることから、その驚きは尋常でないことが良く分かる。
その、なんていうか、もう、乙女の仕草の欠片も残されていない表情だ。芸人でさえも、この顔芸をするのは躊躇うのではないだろうか。あとでリアクション大王の称号を与えてやろう。
「『冗談だよHAHAHA言音はリアクションが面白いなあ』っていういつものノリ!?」
「君の瞳には、僕のノリがそんな風に映っているのかい?」
ちょっとショックだった。
「え、で、でもでも! でもでもでもでもでもでもでもっもでもでもでもでっ」
「『でも』も『もで』もない」
「え、えええええええええええぇぇぇぇぇぇ!? ま、まっさかぁー!! からかおうったってそうはいかないぜ!? ワイはもう騙されんバイ!!」
「口調がおかしいよ、言音。……僕はキミをからかうつもりも騙すつもりも皆目ないよ」
「そん、そんなわけ……あ、わかった! その『騙すつもりはない』ってのが嘘なんだね!? 『エイプリルフールに嘘はつかない』ってのがすでに嘘みたいな!!」
もう何を言っているかわからなくなってきた。
言音の目が零コンマ五秒くらいの速さで上下左右を行ったり来たりしている。このまま放って置いたら確実に目を回すだろう。
「そうだよそうだよそうだよ私なんかをユッキーが好きなわけ――」
「言音、僕は理解が弱い子は嫌いだよ?」
うぐ、と言音は言葉に詰まる。
ぱたぱたしていた手を止め、頭と共に下に垂らす。
俯いていると混乱から醒めてきたのだろう、じわじわと赤くなってくる顔が窺える。
――ああ、くそ。可愛いな。
そんな僕の思考を知ってか知らずか、言音は俯きながらまだ僕の言葉を疑っているようだ。
「じゃ、じゃあ、あのノートの女の人はどうするの?」
身振り手振りで素早くB5のノートを作りながら言った。
「あんなに綺麗で目がおっきくて、なおかつあどけない可愛さの残る女の人はどうするの?」
天然だとしても、少々自分を美化しすぎだと思う。
「仮に。か、仮にだよ!? 万が一にも億が一にもないことだけど、ユッキーが、私のことを、す、すすすす……す……き、として――」
語尾が聞こえなくなるほど小さくなりながら言う。
「――ふ、二股はよくないと思うんだ……」
はあ、と思わずため息が漏れてしまうのは仕方のないことだろうと思う。この娘はどうしても自分と僕の絵を繋げたがらないらしい。完全に別人と思い込んでしまっている。
――そんなに似てないかなあ……
そこまで頑なに否定されると、僕の絵画力はその程度だったのかと自信がなくなってしまう。
だけど今はそんなことは関係ない。
どうやって言音に教えようか。ノートの女の人とキミは同一人物なんだよ、と直接言うのは気が引ける。『ええ!? 全然似てない!!』などと言われたら立ち直る自信がない。
というか、引かれたらどうしよう。『うわ、ユッキーって変態だったんだ……』なんてゴミを見るような目で見られたら立ち直るどころか生きていける自信がない。
結論。
言い包めよう。
「言音、僕がキミを好きなことは、万が一でも億が一でも兆が一でもない。又とはない真実なんだ」
また言音が赤くなるかな、と少し期待していたが、もうすでにさっきから真っ赤だった。
「僕はさっき、君を騙してないって言ったけど、実は、ちょっとだけ嘘をついたんだ」
「……ほ、ほらねー! やっぱり嘘だったん――」
「『ノートの人が好き』っていうのは嘘だったんだ」
「え――」
「ごめんね、言音の慌ててる顔が面白くって」
これは、まあ、嘘ではない。
「あの絵は、ただのマンガのキャラだよ。そうでもないと、あんなに綺麗で目がおっきくて、なおかつあどけない可愛さの残る女の人なんているわけないだろ?」
言音の顔に、どこかほっとしたような表情がうつる。
「そ、そうだね。あんなに綺麗で目がおっきくて、なおかつあどけない可愛さの残る女の人なんて、本当にいたらモテモテだもん……」
ここで言音に本当のことを教えたらどんな反応をするだろう。自分で自分を知らないうちにべた褒めしていたなんて知ったら、卒倒するかもしれない。
教えてしまおうか、なんていたずら心が僕の中に生まれてきてしまうのは、Sだと自覚している自分にとっては仕方のないことだ。
教えないけど。
「さて――」
そう前置きして、少し間を取って、僕が今一番訊きたいことを言音に言う。
「返事を、くれるかな?」
言音は僕の目を見ていない。
俯いて僕の右足ばかり見ていたが、視線が脛、膝、太股と、徐々に上がってきて、顔まで上がってきた。
眼球が定まっていない。僕の口を見たり髪を見たりと、とにかく目を見ようとしない。
――だめか……?
最悪な不安が再び頭の中を掠める。
しかし次に言音が言ったことは少々意外だった。
「もう一度、言ってくれるかな……?」
「え?」
「もう一度だけ、あの、えっと……ユッキーが、私のことを……その……」
ごにょごにょと語尾を誤魔化すように小さくするが、言音の言いたい事は十分すぎるほどに伝わった。
思わずにやけてしまうのを堪えながら、
「何度でも言うさ。大好きだよ、言音」
薄暗くなった教室の中に、涼しい風が吹きぬける。
制服のスカートが波を打ち、髪が靡く。
露になった顔は、とんでもなく輝かしい――笑顔だった。
「返事は?」
再度言音に問う。
「私はもちろん――――」
夏はもうすぐ、終わりを告げようとしていた。
これで一応、全六話終了です。
最終話です。
…………。
その予定だったんですが、
「アレ? 何このオチ。シゲアキ貴様ちゃんと最後まで書けゴラァ!!!」って人が大半でしょう。自分で読んでいてナニコレ?って思います。
ですから、後日談として続きを書きたいと思います。
だけど忘れないでください。この後篇【弐】が一応最終話です。これで終わりなのです。
だから、何が言いたいのかと言いますと……、
例によっていつになるか分からないぜ! ってことです。
これからの夏休み、時間が割けるかと思いきや、
50%は勉強です。40%は体育祭の準備です。8%は小説読みです。2%は家事です。
この忙しい中、執筆はおそらく無理でしょう。
スミマセン。
なんか愚痴っぽくなってしまいました。日常生活の忙しさをココに持ち込んでくるのは最低だと思っていたのですが、言わずにいられませんでした。
最後に、評価感想を送ってくださった読者の皆様、誠にありがとうございました。
ここ一月くらいまったくこのサイトに来ていなかったので評価の返事が出来ませんで、申し訳ありませんでした。
この場を使って御礼とさせていただきます。