後篇【壱】 心臓の音が、
お待たせですー。
気長に待っていてくれたお方、評価感想を送ってくださったお方、本当にありがとうございますですー。
例のごとく、次はいつになるのかわからんですー。
これほど驚いたのは何時振りだっただろうか。少なくとも、ここ数年でこんな経験はしたことがないとだけ言っておく。
なっ――――っと心の中でさえ言葉に詰まる。あまりの驚きように心の声が外に漏れているのではないかと思った。もし外に聞こえていたら、周りの者は近くで爆発が起きたとでも勘違いするだろう。それほどまでに大きく、心の中で叫び声をあげた。
どっどっどっど、と心臓が嫌な高鳴りを発し始める。今朝感じたそれとは天と地、一八〇度ほど違う。隠れて悪行をしていたことが、一番バレたくない人に露見してしまったかのような感覚。
冷や汗が頬を伝い、顎にまで達し、ついには手元に持っているノートにまでポトっと垂れた。言音の絵が滲む。垂れたのは本当に一滴だったのかさえ疑わしい。本当はもっと、滝のように流れていたのではないか。判断力がもう、それすらわからないほどまでに低下していた。
――僕は、馬鹿か……!!
言音の絵を人に見せるなんて。あろうことか、その本人に! なんてことをなんてことをなんてことを!!
…………。
落ち着け、落ち着くんだ僕。冷静になれ。こういうときあの灰色のヤツなら自分を見失ったりはしないはずだ。あいつならどうする? そうだ、まずは表情に出さないことだ。今は授業中だからといって、何時何処で誰が自分を見ているかわからないのだ。動揺を悟られたくはない。一顰一笑すら出すな。ポーカーフェイス、ぽーかーふぇいす。
「ここの公式はー、テストに出るかもしれませんよ――――」
大丈夫。僕の動揺は周りに知られていない。
悟られない程度に、ちらりと周囲を見渡す。
よし、誰もこっちを向いて――――
――こ、と……ね……?
今、見ていた。
今、微かだが、僅かだが、一瞬だが。
言音は振り向かなければ僕を見られない。だから判る。確かに、確実に、言音が、僕を、見ていた。
ばくばくばくばくばく。心臓が壊れる。飛び出る。破裂する。
叫びたい。逃げたい。今すぐ教室を出て、我が家に突っ走りたい。
授業が始まってからずっと形式的に握り締めているだけのシャーペンが、歯軋りでもするようにぎりっと悲鳴を上げる。もうノートはすでに皺だらけになっている。言音の絵が、もう原形が判らなくなるくらい滲んでいた。
――気付いている……!?
考えれば当たり前のことだが、言音はこの絵の存在に気付いている。もしかしたら見ていないかもしれない、そんな微かな希望に縋った自分が馬鹿みたいだ。
もう知られたのだ。僕が言音を想っていることを。
もう悟られたのだ。僕が言音を求めていることを。
――は、は、…………恥ずかしいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!
羞恥心やら恥辱心やら、そんな廉恥の念ばかりが自分の中に湧き上がって来る。自分の顔に血が昇るのを感じる。間違いなく、今の僕の顔色はタコといい勝負ができるくらい真っ赤になっていることだろう。
――はあ、……とうとうこの時が来たよ、我が友よ……。
とうとう、鈍感な言音にも僕の気持ちを打ち明けるときが。心の中だけで、その旨をあの友人に伝える。
もうここまできたらやるしかないのだ。
なんとなく、覆水盆に返らずという慣用句の由来の漢文を、この間授業で習ったことを思い出した。
もしここに彼がいたら、なんという言葉を僕に掛けるだろうか。
『頑張れ』『やっとだな』『自分に負けるな』。……何故かどれもしっくりと来ない。彼がそんな凡庸な言葉を話すはずがないのだ。
彼なら『当たって砕けて来い』とか『好きな人を自動書記? 変態だな』とか『また奈々とケンカしたんだ……』なんて、不吉なこととか、人を落ち込ませることとか、今は全く関係ないことを平気で言ってきそうだ。彼は誰にも予想が付かないことを簡単に言ってのけるのだ。
でも、今回ばかりは予想が付くかもしれない。
おそらく彼はこう言うだろう。
『ほら、後押しをしてやったぞ』、と。
「言音、話があるんだ」
僕がそう話を切り出したのは、数学の授業も終わり、教室に残っている人はもう指で数えられるほど少なくなっているときだった。僕が声を掛けるまで言音は終始動かず、何故か机と一体になったように固まっていた。変な感じはするが、言音が変なのはもう周知の事実だし、そう気にすることではないだろう。
授業中に珍しく数学教師のチョーク攻撃を受けなかったと思ったら、これまた珍しく休憩時間に僕のところにも来なかった。……やはり僕と顔を合わすのが気まずいのだろうか。
「え、な、何かな、ユッキー?」
石化したように机の一点のみを見つめていたので、ちょっとやそっとじゃ反応しないと思っていたが、さほど大きな声で言ったわけではない僕の声に言音は途切れながらも答えてくれた。
「話が、あるんだ」
「……うん」
何故か二回言う僕。
それで僕の真剣さを悟ってくれたのか、言音は俯きながらもはっきりとした声で答えた。
そこで一度、沈黙が降りる。
教室の生徒たちはいつの間にか誰一人として居残っておらず、まるで示し合わせたように僕等二人だけになっていた。
僕は言音の目を、言音は僕の右足辺りを、それぞれの視線で穴が開くくらい凝視していた。
「――――」
何から言おう。
今更ながら、何も考えないで言音に話しかけたことを後悔する。こういうことは衝動的に行うものではないな、と、今後必要かどうか怪しい知識をまた一つ増やした。
こういう時、あの常に饒舌な彼が心底羨ましくなる。あいにく僕は彼みたいに、大事な会話を口笛を吹きながら乗り越えられるような豊富な語彙力は持ち合わせていないのだ。
だが、日常会話くらいなら得意だ。
「今日は、チョーク攻撃受けなかったね」
僕はいつもしている会話のときのような声色を装って言う。
俯いた顔を上げ、キョトンとした表情をしている言音は、僕の言った言葉が予想外だったらしい。ふと、緊張の糸が緩んだような気がする。
「むー、毎日受けてるわけじゃないよぅ」
ぷうっと頬を膨らませる。思わず指で突きたくなった。
「でも受けない日のほうが珍しいんじゃないかい? あの、えー……『チョークのなく頃に』?」
「違うよユッキー。『石灰チョークの舞う頃に祭』だよ」
くすくす、と近所のお姉さんのような微笑を浮かべる。激しく似合わないけど、それが可愛さを強調していることは認めざるをえない。
「どっちでもいっしょだと思うけど? あと、前から言おうと思ってたけど、それ語呂が悪すぎだよ」
がーん! と死刑宣告を聞かされたような表情になる。少々ショックを受けたらしい。
「ひ、酷い! 私、三日三晩考えたのに!!」
「君の過ごした時間は現在進行形で、人生で無駄な時間のダントツトップを爆走中だろうね」
三日三晩って、比喩じゃなかったら真性のアホだ。
「ちゃんとチョークの痛みを伝えるために惨劇っぽいタイトルにしたんだー」
「? どこが?」
「ナイショー♪」
わけがわからない。
「まあそれはいいけど、ちゃんと授業聞かなきゃテストのときに困るよ? 居眠りばっかりしてたら内申にも響くし」
「い、居眠りなんかしてないよ! 瞑想だよ! それにいざとなったらユッキーに教えてもらうからいいもんっ!」
「甘えないの」
右手で言音のおでこに軽くチョップをしながらそう言ってやると、「あで」と声を漏らし、半泣きになりながら睨み付けてきた。
「うう……ユッキーのばか……」
「あれ? クラスで常に上位をキープしている僕が馬鹿なの?」
「……う」
「そうだ、言音にひとつ知識を与えてあげるよ」
「……?」
「体長が五ミリしかない綿虫っていう生物にも、考えるための脳はあるんだって」
「何が言いたいのかな!?」
「あ、でもオラウータンと人間の違いは一パーセント未満らしい」
「だから何が言いたいの!?」
君が思ってる通りだよ、なんてことをきっぱりと言うわけにもいかず、そこら辺はゴニョゴニョと誤魔化す。言音はまだ何かギャーギャー言っているが、こんなことを気にしていたら言音とは付き合っていけない。……や、『付き合う』ってそういう意味じゃないけどネ?
と、ここまで思って、僕が言音に話しかけた本来の理由を思い出す。普通の会話が楽しくて忘れてしまっていた。
――もし失敗したら、こんな会話も出来なくなるのかな……。
最悪の結果を予想してしまい、首を振って思い直す。弱気になってどうする。強気だ、強気。
「ユッキー……?」
いきなりブンブンと首を振り出した僕の奇行を変に思ってか、言音が心配そうな顔をしながら僕の顔を覗き込む。そこには、先程までの緊張の表情と声色は感じられない。むしろ、いつもより柔和になった気さえもする。
「ねえ言音」
ん? と首を傾けながら聞き返す言音。
「今度、僕の友達と言音で、海にでも行こうか」
「あはは、もう九月だよ」
そう言いながらも、首を縦に振る。
「友達って、いつもユッキーと一緒に帰ってる人のこと?」
「うん。あと、彼の妹さんも来るかもしれないな」
「うん、えっと、それはいいんだけど……海で何するの? まだ暑いけど、もう海には入れないよ」
「……たまには風景だけを楽しむのもいいんじゃない?」
ああ成る程ねー、などと言いながら、言音は妙に納得した表情を作る。
そして何を思ったか、急に目を輝かせて僕に詰め寄りながら言った。
「じゃあ私写真係! 風景も友達もユッキーも、皆まとめて撮ってあげるよっ!」
小学校時代の言音を知らない僕が、何故か幼い頃の言音を容易に想像することができた。瞳はキラキラと期待に満ちていて、ダメと言っても絶対にそうすることは目に見えていた。
君が写真係なら――そう前置きして僕は言う。
「じゃあ僕は、写生係だね」
きゃっきゃと子どものようにはしゃいでいた言音の動きがピタリと止まった。まるでビデオの一時停止ボタンを押したみたいに表情が一瞬にして引きつる。口元が右半分だけ三日月のようにつり上がって、それがひくっと痙攣した。
ごくり、と唾を飲み込んだ音を出したのは僕だったか、言音だったか。
ギギギ、と油の足りない旧式ロボットのように言音がこちらに顔を向ける。
「へ、へへへえー、ユッキーって、えええ、絵なんか描けるんだぁ……意外かもー……あ、あはは」
言音は苦笑いも十分に出来ていない顔を僕のほうに向けて言った。顔面にも潤滑油は行き渡っていないようで、口元が固まってぎこちないことこの上ない。
この顔を更に固まらせるのは非常に心が痛むが。
この機会を、逃してたまるものか。
「僕の絵、見ただろ?」
単純明快、単刀直入。僕が初めに訊きたかったことをすっぱりと言ってやった。正確にはこの言葉ではないのだが、これを言わないことには始まらない。何も始まらないのだ。
言音は僕の絵を見たのか、それを見てどう思ったのか、上手だったか、怒ってないか。
さまざまな質問が脳内を駆け巡る。
しかしそれは、体中に滲んでいる汗と共に、僕の着ているアンダーシャツに染みこんだ。
次の句を言う気が起きない。言わなきゃいけない、わかっちゃいるけど、目の前にいる少女が激しく狼狽している様を見て、相手の発言を待ってみようと言う気に変わる。
言音の目が、生まれたてのオタマジャクシ並みに忙しなく泳いでいる。何か思い当たる節があるのは明らかだった。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……うん」
そうただ返事をするだけの行為を、言音はとても躊躇っていたように見えた。
何てことはない、たったの二文字の返答。ただそれだけのことだけれど――自分では理解していたつもりだったけれど――やはり改めて、恥ずかしさが顎下辺りから熱と共に湧き上がってくる。
――やっぱり見られてたぁああああああああああああああ!!
冷静沈着を装っている会話とは裏腹に、僕の心はもう爆発寸前。俯いている彼女からは、かろうじて僕の真っ赤な顔を見られないのが唯一の救いだ。
もし今この場に友人が来てこの内心を指摘されでもしたら、教室の窓をぶち破って逃げ出してしまうかもしれない。それくらい恥ずかしい。
しかしそれを一ミクロンも表情に出さない僕ってば素敵。
「……どう思った?」
なんでもないことのように僕は尋ねる。『どう思った』なんて、限りなく漠然とした問い方をしたのは、今の言音の心情を何でもいいから知りたいからである。テレビ番組のレポーターなどでは最悪な問い方だとは思うが、この状況にはとてもあっていると思う。いま僕が訊きたいことのすべてが含まれているのだ。
しかしそれには答えにくかったのか、しばらくは「うー……」とか「えっと」とか言いながら言いよどんでいたものの、やがてちょうど良い言葉を見つけたらしい。恐る恐るといった態度で、俯き加減のまま言った。
「何か、ものすごく、想いが、詰まっていた、気が、します……」
何故か、敬語の上にかなりゆっくりとした話し方のために最初は何を言っているか分からなかったが、僕が数瞬後に理解したとき、ボンっと顔が朱色に染まった。
さっきの羞恥とは少し違う種類の恥ずかしさ。いつの間にか他人にも分かってしまうまで念を籠めて描いていたのか、と今更ながら思う。
「ユッキーの、この人に対する想いが……すごく……ものすごく、伝わってきた」
正直、言音がここまで感受性豊かな娘だとは思わなかった。普通は、ただの一般高校生が描いた絵なんか上手下手の判断だけで精一杯なのに、描く者の意図をも感じることが出来る人はそうそういないと思う。
言音に対する僕の中での評価――いろんな意味でダメで言えません――を改めなくては、と、こんな肝心なときに場違いな思考に入ろうとすると、ふと、何か違和感を覚えた。モジモジしながら話す言音にではなく、呆けた顔をした僕にではなく、さっきの言音のセリフに。
『この人に対する想い』……?
コイツは自分のことをこの人、なんて客観的かつ無機質な呼称で呼んでいたんだったっけ? そんな独特な一人称だったら、深く印象に残りそうなんだけど。
僕のその当たり前とも言える疑問は、言音の信じられない発言によって、いとも簡単に解決してしまった。
「ユッキーは、この女の人が、好きなんだね……?」
違和感は疑惑に。疑惑は確信に。
言音はどうやら、ノートの人物像は自分ではないと思っているらしい。
――笑っていいだろうか。
いやっほい赤点だらけいやっほい。